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語りえぬものについては

 毎日、エッセイというものをやっていると、日々の感慨をことばに書き留めるだけの文章の力を、思った以上に持っていないことを痛感させられる。筆を走らせようとすると、日々の出来事に対して感じた諸々のことが、いくつも浮かんでくる。でも、その中で、文章として残せるものが、全然見つからないこともある。それについてはうまく書けない。うまくまとまらない。思考が走らない。そうして、書けそうなものがないかを頭を抱えて掘り起こして、ようやく記事が書けるようになる。でも、その中で溢れ捨て去られる、書けそうにないものが、俺の生活には夥しく転がっている。

 いくつかの音楽を聴いたときに数秒感じる、視界がさっと開けていくような感覚。人とのやりとりの中で妙に引っかかってしまい、口ごもることになる一言。なぜか習慣的に回避している行動。歩けばすぐ身の回りにあるのに、いつも目を逸らして考えないようにしてしまうもの。あるいは、目につくたびに、論理的でない理屈で口汚く否定してしまうもの。

 確かにあるはずなのに、ないことにしているもの。なかったことにしたいもの。あるいは、無視していることにすら無自覚なもの。

 俺はいわゆる神ではないから、この世に存在するすべての事柄を認識するようなことは、おそらく不可能だろう。どれだけ根を詰め、神経を尖らし、自分の全感覚を奉仕したとしても、この世にあるすべてのこと、見逃されていることを、知ることはできないのだろう。
 大事なのは自覚だ。自分にとって、まだ知らない、認識していない物事が常に存在しているのだということ。認識せず知り得ないものに関して、見切ったように語ってしまってはならないということ。知らないものの存在に感覚を向け、まずは沈黙し、洞察しなければならない。
 知りもしないで、あるという前提すら持たないで、土足で、知った風でありたくはない。そんな態度はいずれ、人を傷つける。自分が自覚していない物事を、深く知り、大切に扱っている人を、果てしなく傷つけるかもしれない。

 いや、俺ごときがそんな態度を取ったところで、傷つかない人もいるかもしれない。深い信仰や信頼とは、そんなにヤワなものではないのかもしれない。
 たぶん、俺が、昔、そういうことをされて、深く傷ついてしまったからなのだと思う。俺は昔から自分の意見が弱くて、他人にそれは間違いだと押し通されると、言い返せずに持ち帰っては一人で吟味し、大抵は、俺の何かが間違っている、と結論していた、弱い人間だから。

 だからせめて、俺は他の人に対して、そんな態度でありたくはない。その人が大切にしている存在を、そんなものあるかよと一笑に付してしまうのは嫌だ。

 そういう態度を取ってしまったとき、俺はすごく居心地が悪い。そんなこだわりは誰も気にしないし、誰も傷ついていないし、為そうが為すまいが意味のないことなのかもしれない。そのこだわりにかける労力なんて捨てて、他のことをしたほうが、大切なものを生み出せるのかもしれない。

 でもやっぱり、俺は、俺の大切なものをまだ知らない人に、そんな態度でいられたらとても辛いから、あくまで非効率かもしれないこだわりを続けようと思う。

 もし、その感覚は私も持っている、と思う人がいたならば、聞かせてほしい。いくら我が儘でこだわりを貫くのだとしても、事実として誰も関心の湧かないことかもしれない、という疑いと戦うのは辛いから。


語り得ぬもの、まだ知らないもの、
表現ができないもの、
あるともないとも断定できないもの、
それは今のところ、「あると扱う」か、
「ないと扱う」か、
「語っても進展がないから、沈黙する」のが、
今日の学問だ。
しかし、それがあると頑なな意見があるのなら、
「もしあるとして」と仮定して寄り添えるのが、
優しさなのだと思う。
それが必要な場面はきっとあると思う。