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終束論 - 余日[ENG translated & feeling]

"Swallow them countless regrets and ambivalent present time"
数えきれない後悔を
重ね揺れ動く今を飲み込んで行け

- 作詞 (Lyrics)
∟旭 (余日)
∟Yojiro (A Ghost Of Flare)

This is NOT official!
Japanese lyrics -> English translated by Seiga (just a Japanese fun)

 Description: The expression "終束(shusoku)" may have two meanings that "収束(shusoku)" and "終息(shusoku)" in itself. "収束" means nearly "convergence", "終息" means nearly "the end".


曇りかけの都市部で
影が彷徨い始めた卑屈の未来へ
歩を止めている
隠された正は
より深みを見せる

In the clouding city
I figured it the future called a bad omens
I stop walking to there
The correct answer is hidden
increases its depth

過去を縛り付けて
この出口を塞いでいる人は
足を踏み入れる最期に
瞼を閉ざす

The person who ties down his past
and obstructs the way out
closed his eyes before last moment
that he steps into

貴方が見るその窓辺へと
映り込むは霞でしょうか
いつか迎う終わりの知らせを
今はこの心に刻んで

Is that a mist on the window
you stand by the side of?
The premonition to reach the end
I take it to my heart for the time being

漂う絶望は非情に
嘲笑う観衆も掻き消す

Despair floated has no mercy
so that drown the voices of deriding out

彼方に浮かぶ蜃気楼は
訪れる終末を示す

A mirage floating far away
is going to bring the end

街の片隅でずっと
灯が消えるのを待っている
いつもわかったふりしてもvein
流れに逆らい続けながら
物語は進む

In this corner of the city
I've been waiting for the light to go out
It is no use pretending to understand
The story keeps going on
against the flow

悴んだ右手でめくったページ
目を瞑ったエンドロール
あってはいけないことなど
ないはずなのに
世界は灰色のままで

My numb right hand flipped a page
My eyes was closed while the end credits
It is supposed to be things that shouldn't be
but the world is gray as it is

貴方が見るその足元に
映り込むは自分自身なのか
いつか迎う終わりの知らせは
今はこの心に鳴り止む

Is that yourself at your feet?
The premonition to reach the end
I take it to my heart for the time being

星さえも見えない夜に
何を願うの
音が消えた世界で
生まれた歌が今
さよならの意味を変えてゆく

In the starless night
What do you wish for?
In the soundless world
The birth of the song, from now on,
starts to alter the meaning of “goodbye”

朽ち果てた時代に
雨に落つ涙を運べ
終わりのない孤独よ

Carry tears in the rain
To the times fell into decay,
Endless our solitude

惰性に紛るこの人生だ
数えきれない後悔を
重ね揺れ動く今を飲み込んで行け
途絶える時まで抗え

My life is said to be lazy (my life)
Swallow them countless regrets (regrets)
and ambivalent present time (swallow them)
Strive until the end

――――――――――――――――――――――――――――――――――


 こんにちはSeigaです。
 漂う浮遊感と精巧な日本詞をバンドサウンドで繰り広げるバンド「余日」から、A Ghost Of FlareのヴォーカルYojiroをfeat.に迎えたトラック「終束論」を訳しました。
 2コーラス後の畳みかけ、ツインボーカルの掛け合いが繰り広げられる非常にまとまった曲構成の楽曲であり、バンドのライブでも注目度髄一の楽曲となっています。余日ヴォーカルとAGOFヴォーカルの2人による歌詞とのことですが、どちらも独自の解釈で「終束」について「論」じられていて素敵なんだよな……。

 そんな美しく、そして苦悩と決意に満ちた歌詞を英訳するために色々紐解いていったので、その過程およびまとめとして以下5点を示していきます。

■シングルタイトル"memento-mori"と曲名"終束論"の関連性
■「孤独を抱える全ての人へ」
■"終束論"のもう一つの意味 惰性に落つ「収束」を「終息」させる
■「音」と「歌」が閉塞した状況を変えていく
■訳の理由


■シングルタイトル"memento-mori"と
 曲名"終束論"の関連性

 当楽曲"終束論"が収録されたシングルの題名は"memento-mori"であり、「死を忘れるな」といった意味を持つ言葉です。
 これは非常に警句めいた、教訓めいた言葉ですが、この言葉を以て受け手がどう解釈するかは、時代、状況によって変化していたようです。「いつか死は訪れるのだから、生にしがみつくな」と解釈されることもあれば、「いつか死ぬのだから、今日を精一杯生きよう」と解釈されたこともある。
 要は、memento-moriは「死を忘れるな」という教訓であり、同時に「だから(死は必ず誰にでも訪れるから)"どうするか"という部分は聞き手の解釈に委ねられている言葉」と言えます。

 前述の通り、memento-moriは歴史上様々な意味で用いられてきた言葉です。古代ローマにおいては「今は絶頂にあるが、明日はそうであるか限らない」、また「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」、後のキリスト教では現世の空虚や来世への誘因として「生にしがみつくな」の意で使われていたそう。などなど、様々な用例が、場面場面、時代時代で産み出されていた様子です。

 メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われる。
            -wikipedia "メメント・モリ" (2020/12/04閲覧)

 曲の話に戻ると、シングル"memento-mori"のリードトラック"終束論"においても、「死を忘れるな」に近いニュアンスの歌詞が非常に多く見られます

貴方が見るその窓辺へと
映り込むは霞でしょうか
いつか迎う終わりの知らせを
今はこの心に刻んで

Is that a mist on the window
you stand by the side of?
The premonition to reach the end
I take it to my heart for the time being
彼方に浮かぶ蜃気楼は
訪れる終末を示す

A mirage floating far away
is going to bring the end
悴んだ右手でめくったページ
目を瞑ったエンドロール
あってはいけないことなど
ないはずなのに
世界は灰色のままで

My numb right hand flipped a page
My eyes was closed while the end credits
It is supposed to be things that shouldn't be
but the world is gray as it is
貴方が見るその足元に
映り込むは自分自身なのか
いつか迎う終わりの知らせは
今はこの心に鳴り止む

Is that yourself at your feet?
The premonition to reach the end
I take it to my heart for the time being

 直接的に「終わり」「エンドロール」等の表現を示した歌詞を抜粋するだけでも、上記の通り多くの歌詞が該当します。特に「いつか迎う終わりの知らせを今はこの胸に刻んで」については、memento-moriの意味に極めて近い歌詞であると言えます。

 そもそも「終束論」という曲名自体、「終息」と「収束」の同じ音の熟語から一字ずつ取ってきたようなタイトルであり、前者は「やむこと。終わること。絶えること」、後者は「分裂・混乱していたものが、まとまって収まりがつくこと。また、収まりをつけること」を意味します。どちらも「終わり」を連想あるいは直接接続している言葉です。
 さらに、このような"終束"(「終息」および「収束」)に対する"論"と題打たれている曲名ですので、「終焉をテーマにした論述」がこの歌詞の意図であると推測できます

 これとmemento-moriをかけ合わせれば、「いつか訪れる終わりをどう受け止めるか」。「誰にでも来る死を忘れるな」。
 これがこの歌の論旨のひとつであると考えられます。


■「孤独を抱える全ての人へ」

 楽曲リリースが発表された以下の公式ツイート、およびyoutubeの概要コメントの冒頭で引用されている歌詞を見て疑問に思うことがありました。

「孤独を抱える全ての人へ」という一文で締めくくられた終束論のリリース発表。

画像1

 "雨に落つ涙を運べ 終わりのない孤独よ"
 この部分が引用されたMVの概要コメント。

 ご覧の通り、公式からの楽曲外のコメントとも捉えられる二つにおいて「孤独」という文言が共通して使用されています。ここから、終束論のメッセージとして「孤独」はひとつの重要なテーマである可能性がある。それも「孤独を抱える全ての人へ」という、生者か死者かを限定しない広い人へ向けています。
 ところが、前述の終束論タイトルの解釈「いつか訪れる終わりをどう受け止めるか」と、この「孤独を抱える全ての人へ」はなんとなく歯切れが悪いというか、上手く接着しない感じがあります。そのうえ、概要コメントで引用されている歌詞は「終わりのない孤独よ」と言っており、memento-moriの持つ要素である「いつか訪れる終わり」という文言ともどこか相反するような言葉になっています。
 そう考えると、一見「孤独」と「memento-mori」の関連性は薄く、歯車がかみ合わない感じさえします。


"終束論"のもう一つの意味
 惰性に落つ「収束」を「終息」させる

 ここで、再度「収束」の意味と、全体の歌詞について考えてみることにしました。
 以下、結論まで少し長い論となりますが、最終的に「孤独」へと結びつくように考えました。


曇りかけの都市部で
影が彷徨い始めた卑屈の未来へ
歩を止めている
隠された正は
より深みを見せる

In the clouding city
I figured it the future called a bad omens
I stop walking to there
The correct answer is hidden
increases its depth

 冒頭の歌詞に登場する「卑屈の未来」ですが、これは「(歌い手、或いは多くの第三者が)未来を卑屈に考えている」=「未来は暗いと思い込んでいる」と解釈することができます。
 この歌い手を一言で示すならば「悲観論者(ペシミスト)」である、あるいは一時的にペシミズムに浸っていると考えられます。

 悲観論や楽観論といったものは往々にして主観的で無根拠な未来の断定です。心理的にどうしてこのような状態に陥るのかを考えた時、個人的に最も腑に落ちやすいのは「ストレスの軽減」と言えます。正体が不明なものに対して人間は恐怖や不安を覚えますが、未来が不確定で不安である、幸にも不幸にも転ぶという状況は、この不安が恒常的に発生する状態であり、人間は本能的にこの不安を感じた時、同時にストレスを感じ、これらを軽減するために何か行動やパラダイムシフトを起こそうと本能的に反応します。その結果、無根拠でもいいから、客観性に欠けていてもいいから、自分自身の不安を取り除くために「未来は明るい」か「未来は暗い」に一度決めてしまう、という悲観論や楽観論が生まれるのです。

 歌詞にある卑屈とは傲慢の対義語であり、自分を過度にいやしめて妥協したりいじける行為のことです。これは悲観論と非常によく似ており、例として「どうせこうなるんだから」「俺には無理だよ」とかがあります。未来に対して卑屈になっている、つまり「どうせ未来はこうなる」と解釈している。卑屈な状態の多くは、根拠に乏しく、主観が大きく混ざり、未来を「不安」→「悲観」という安定状態に捉えることでストレスを軽減する行為であると考えることができます。

 不安から安心への転移のために未来を卑屈に捉え、全体的に暗い雰囲気の言葉を紡いでいる歌い手ですが、僕はこの「不安から安心への転移」について「収束」に近いニュアンスを感じました。その論拠を補強するような歌詞が以下に続きます。


惰性に紛るこの人生だ
数えきれない後悔を
重ね揺れ動く今を飲み込んで行け
途絶える時まで抗え

My life is said to be lazy (my life)
Swallow them countless regrets (regrets)
and ambivalent present time (swallow them)
Strive until the end

 最後の歌詞「惰性に紛るこの人生」とは、歌い手が自身の人生を「惰性と見間違えるほどの人生」だと評していると読み取れます。さらに続く歌詞から、その惰性を歌い手が「数えきれないほど後悔している」ことが読み取れます。

 惰性という言葉も人間の感情、安心という側面において「不安から安心への転移」、つまりは前述した「収束」のもう一つの意味と非常によく似ています。
 その行為をする、以前と同じことをすることが非合理であり時間などを無為に消費する行為であると分かっていてもなお繰り返してしまう。そのような状態に陥るのは、多くの場合、「やらないと不安だから」「思考するのが億劫だから」「エネルギーを浪費しないため」という理由が付帯してきます。そうして恒常的に安心の中に居座るため、そのまま惰性に身を任せる。
 それ自体は人それぞれ人生の過ごし方だとは思いますが、歌い手はこの惰性を「数えきれないほど後悔している」恐らく歌い手は、決して変わらないと卑屈に見つめた未来を、惰性に落ち行く自身を、本当は変えたいと願うからこそ、そこから脱せない状態が許せないのではないかと思えます。

 惰性とは変化しないことを受け入れる行為であり、自分の現状に燻りを覚えていたり、何か憧れを持っている人間にとっては、気を抜けば落ちてしまう、だけど変わるために抗わなければならないと強く敵視しがちな状態だと言えます。そして人間はそもそもデフォルトで、この「惰性」や「不安から安心への転移」へ誘導されやすい性質を持っています。人間は原始時代の名残から不安を抱きやすいようにできていますし、その不安を安心へと解消するために「行動する」ことが、人間という種族をここまで発展させるに至る起爆剤となっている、というものが多くの脳科学者等の見解です。言い方を変えれば、我々は不安に動かされているし、不安を抱かせるものに動かされている。歌い手が現状を変えたいと願いそれを叶えたいのなら、今最も不安の感じるものに対して恒常的に、本能的に、惰性的に、無思考に取ってしまう行動を変えることが解決のひとつなのです。そうと分かっていながら、惰性というのは非常に抗うのが難しい。不安から不安の転移は、原始的欲求に叛く行為です。

 歌い手にとって、そうした「惰性」の一環の中に「孤独」が含まれているのではないか、と僕は考えています。

朽ち果てた時代に
雨に落つ涙を運べ
終わりのない孤独よ

Carry tears in the rain
To the times fell into decay,
Endless our solitude

 そもそも孤独とは、以下の二つの側面を持っていると考えます。
 ひとつは、この歌詞が指し示すように「人間は真に孤独を解消することはできない」ということ。どれだけ愛する人がいたとして、どれだけ仲が良いと思える、一蓮托生、生死を共にした相棒がいたとして、その人に近づくほど、言葉を交わすほど、触れ合うほど、すれ違いや勘違い、まだ見ないその人の性質に気付いていく。孤独とは生まれながらに抱えるものであり、死にゆくその時まで永久に解消できないもの。自分の本心は誰にも分からない、自分自身にさえも。「理解されたい」と欲求的には願いながら、誰一人としてそれを達成できないという意味で、孤独は一生涯付きまとうものです。露悪的で悲観的な言い方をすれば、「理解された気になる」「孤独でなくなった気がする」という状態になることは可能ですが、「一人じゃない」は真実であり、詭弁でもあります。大人数に囲まれる時ほど、気の許した友人といる時ほど、むしろ理解されていない一面、理解できない一面に目が行ってより強く孤独を感じる……ということは、僕の経験上の話ですが非常によくあります。長くなりましたが、孤独は解消できません。解消した気になって、解消したと暗示をかけることは一時的には可能です。したがって、人間は生きている限り孤独をずっと抱え続けると考えます。余日のツイートにある「孤独を抱える全ての人へ」は、その中でも孤独を強く感じる人に対して向けていると思うのですが、僕は元来誰もが孤独であり、誰にとってもこの歌は無関係ではないよな、と思うのです。
 もう一つは、孤独は解釈によっては悲観的でも卑屈でもなく良い一面もあるということです。一見言葉尻ばかりを見て悪い状態であると考えがちですが、一人は複数人と共にいる時とは違った自由や深い思考、選択の幅があります。孤独(Alone)を孤高(Solitude)と言い換えることもできるくらい、孤独とは見方によってはその人自身にとって重要な時間にもなり得る。

 何が言いたいかというと、惰性的に、無思考に「孤独」を捉えてしまえば、そんな自分自身を悲観してしまいがちです。ですが孤独は本質的には正の側面もあり、そして解消しきれないものだからこそ付き合い方があると思うのです。
 惰性に落ちてただ悪いものと決めつけ、それを解消できないことを呪い続けるよりも、孤独という時間をある時は愛し大事にすることは非常に建設的だと考えます。そう考えた時、「孤独を抱える全ての人へ」というメッセージは、この歌で綴られる「惰性や卑屈に抗いたい」という言葉と重ねて、「孤独を悪いものだと捉える動きに流されず、
 孤独から生じる不安を孤独の抹消という不可能な行為で解消せず、
 ただあるものだと受け入れ隠された正に目を向けるべきではないか

という意味を持っているのではないか、と思えるのです。


惰性に紛るこの人生だ
数えきれない後悔を
重ね揺れ動く今を飲み込んで行け
途絶える時まで抗え

My life is said to be lazy (my life)
Swallow them countless regrets (regrets)
and ambivalent present time (swallow them)
Strive until the end

 理屈ではなく無根拠に、理性ではなく不安を回避する本能として、無思考に同じ行為を反復する、同じ日常を反復する、同じような行動・発言を反芻する行為が「惰性」であり、そういった不安から安心への転移をただ流れるままに為すがままに漠然と受け入れるさまを「収束」と指す。
 そして、そこから脱することを「終息」と呼ぶ。無思考に安心を受け入れるのではなく思考と目標の思い出しを意識する行為が「重ね揺れ動く今を飲み込む」。そういった思考を阻害しようとする惰性や不安に対し「途絶える時まで抗う」。"終束論"の「収束」と「終息」の持つ意味を考えれば、最後の歌詞をこのように読み取ることができると考えます。


■「音」と「歌」が閉塞した状況を変えていく

星さえも見えない夜に
何を願うの
音が消えた世界で
生まれた歌が今
さよならの意味を変えてゆく

In the starless night
What do you wish for?
In the soundless world
The birth of the song, from now on,
starts to alter the meaning of “goodbye”

 最後にこの部分の歌詞について所感を述べたいと思います。

 ここに関しては、「星も出ない夜に星が流れてくれるように、音が聞こえない世界にようやく歌が誕生して人々が歓喜する」という解釈もできますが、個人的に一番クるなと思うのは「音が価値を失ったと誰もが思った世界で、偶然にも、或いは誰かが諦めず生んだ歌が、"さよなら"という悲観的に見られがちな言葉を決意的な意味へと変え誰かを奮い立たせた」というものです。

 卑屈というのは何も歌い手の主観だけによるものではなくて、世間全体とか、歌い手周辺の人々とかの多くが、未来を卑屈に捉えていたり、そんな偏った見方を惰性的に続けてしまう状況も考えられます。そんな状況では「どうせ何をやっても無駄」「何も変わらない」と受け入れて生きるしかないようにも思える。そこで、偶然か、あるいは「惰性に抗った誰か」によって生まれたものが、誰しもが「生んだところで無駄だ」と思っていたものが、確かに閉塞した価値観を変えることになった……というような、革命のような、一撃のようなストーリーを感じる歌詞だと思うのです。

 一人では悲観や卑屈と捉えがちでも、複数がそう思えばそれは総意となり常識となり、それに抗うことが恥ずかしいこと、無駄なこと、忌避されること、痛いことになりがちです。それに抗おうとした人も、何も変えられないまま、そういった負の印象をぬぐえないまま、何も成し得ないまま、本当に終わってしまうことかってある。けれどそんな暗澹とした絶望に一条の光が差し込む光景は、多くの人を惹きつけるし、多くの人の憧れとなるし、それは何かを信じて物事を続けている人にとって希望とも理想とも悲願とも言える瞬間ではないでしょうか。
 だからこそこの歌詞は多くの人の心を打つのだと思いますし、そういった光景を、音楽という表現手段において「音」と「歌」という直接的な表現という武器で言語化しているのが、非常に攻撃力の高い訴え方だよなあ~。とか思います。良い曲展開に良い歌詞だよなあ。



■訳の理由

 以下、英訳するにあたり色々整理した内容を残します。


曇りかけの都市部で
影が彷徨い始めた卑屈の未来へ
歩を止めている
隠された正は
より深みを見せる

In the clouding city
I figured it the future called a bad omens
I stop walking to there
The correct answer is hidden
increases its depth

 「影が彷徨い始めた卑屈の未来」はかなり意訳しました。
 まず、「卑屈の未来」の「卑屈」を、「(歌い手が)未来を分かり切っている(と思い込んでいる)状態」であると解釈しました。歌詞の解釈云々で前述したとおり、卑屈とは傲慢の対義語であり、この場合未来に対して卑屈になっている、つまり「どうせ未来はこうなる」と解釈している。これをI figured it the futureとしています。さらに「影が彷徨い始めた」を「怪しい予感がする」と置き換えthe future called a bad omensと意訳しました(calledしているのが誰なのかよくわからん、つまり主語がぼやけた「客観性に欠ける悲観視」は「卑屈」なやつが言いがちだよなあ、と思って表現したつもり……)(あとBad Omensをしれっと入れたくて採用したのはある、自分はそういうところある)。
 また、「隠された正」の「正」が何を指すのかも英訳の上で考察要な点でした。正負?正否?正誤?とか色々考えました。これに関しては歌詞全体のイメージから、歌い手は未来が見えなくなっている、終わりに対してどうすればいいかわからなくなっていることから「正解が隠されている」と言っていると考え、the correct answer is hiddenとしました。
 「深みを増す」も悩みましたが、この場合のdepthを歌詞のまま「show」とすると、「深さ」が明かされる、はっきりとわかる、という意味になりそうで、こうなると前述の「隠された」と合致しないなと思い、深さを増す(が、深さの全貌は見えない、隠れたまま)の意味としてincrease its depthとしました。よくわからんところを気にしてるのかもしれないけど。


貴方が見るその窓辺へと
映り込むは霞でしょうか
いつか迎う終わりの知らせを
今はこの心に刻んで

Is that a mist on the window
you stand by the side of?
The premonition to reach the end
I take it to my heart for the time being

 英訳に直接反映された話じゃないのですが、「迎う」という歌詞に関して「向かう」と「迎える」のダブルミーニングだと僕は解釈していて、そのためgoとcomeは片方の意味に寄ってしまうと考えそれ以外の表現、「向かう」と「迎える」の両方の意味を含む表現にしたいと考えて訳に挑んでいました。
 結果的に"reach the end"という「the endに手を伸ばした(向かっていった)のか、the endがやってきた(迎える形となった)のか」の解釈の余地を残す表現になったかな?と思っています。個人的にどっちかというとreachは手を伸ばす印象が強いっちゃ強いけども……。


街の片隅でずっと
灯が消えるのを待っている
いつもわかったふりしてもvein
流れに逆らい続けながら
物語は進む

In this corner of the city
I've been waiting for the light to go out
It is no use pretending to understand
The story keeps going on
against the flow

 冒頭の「街の片隅で」の訳In this corner of the cityは、In This Corner of the World (この世界の片隅に)を参考に改変しています。マジで精神に来る映画だったよめっちゃよかったけど。
 「いつもわかったふりしてもvein」という英単語を交えた歌詞がIt is no use pretending to understandという全くveinを使用しない訳になってしまったのはなんとなく反省しつつも多分訳する上ではこの方が意味が腑に落ちるよなと思った次第です。veinとIt is no useの意味が繋がらなくて迷子になるネイティブはいないと思うし……たぶん……


朽ち果てた時代に
雨に落つ涙を運べ
終わりのない孤独よ

Carry tears in the rain
To the times fell into decay,
Endless our solitude

 この部分、そもそも日本語的にどういう文章だと解釈するかに悩み、その結果から文章として繋がるように英訳しています。そのため、日本語の文章の段階で違う解釈があるかもしれない。
 まず「雨に落つ」の「落つ」は古語を流用した現代語のようで、このような用例は「語るに落つ」「愚案に落つ」などが見られます。「(名詞)に落つ」という形で使われますが、①(名詞)を実行したために落ちた(失敗した)、②(名詞)[の方向]に落ちる、の二つの用例があるように見受けられました。今回の場合、落つの後ろが「涙」という名詞のため①ではなく②の方が適切であると考えました。
 そこから「雨に向かって落ちる涙を運べ」という命令文であり、「誰」に対して言っているかは「終わりの無い孤独」、運ぶ先として「朽ち果てた時代」であると解釈しました。ここが一番解釈の割れるところだと思います。特に「朽ち果てた時代に」を単なる時間ではなく行先であるとしている点、「雨に落つ涙」を涙が雨に向かって落ちており雨は涙と共に運ばれる対象である、と解釈するところが、人によっては直感的に腑に落ちないかもしれない。自分でもだいぶこねくり回したので最早自然な解釈かどうかわからん。
 とりあえず英文はCarry tears in the rain to the times fell into decayで命令文とし、その命令文を送る対象として,で区切りEndless our solitudeを指定する……という形で締めました。用例を部分的に参考にしつつ翻訳ソフトに直したりしてたぶん意味の通じる文には……なってる……はず


惰性に紛るこの人生だ
数えきれない後悔を
重ね揺れ動く今を飲み込んで行け
途絶える時まで抗え

My life is said to be lazy (My life)
Swallow them countless regrets (regrets)
and ambivalent present time (swallow them)
Strive until the end

 ambivalent present time(重ね揺れ動く今)に関しては形容詞の順番のことをふと思い出して気にしました。ネイティブでも気にしない場合もあるそうですが、一応自然な順番の法則として下記のようなものがあるそうです。

 正直ambivalentもpresentもどれに該当するか断定できなかったのですが、とりあえず軽く見た直感でambivalentを"option"、presentを"age"であると考え、ambivalent present... という順番でtimeを修飾しました。違ったら教えてけろ……。
 あと、「重ね揺れ動く」をambivalentとする解釈にも異議なりなんなりありそう。一応解釈の説明として、ambivalentとは両義性を孕んでいることの形容であるため「(両義性、相反する性質が)重ね」あわさっている、それがさらに「揺れ動く」というのはambivalentの持つもう一つの意味「あいまいな」が該当するのではないか、と考えた次第です。なんか意味が二つともあわさってる表現を見ると妙にしっくり来てそのまま訳にしちゃうんだよな。この英訳そのままの用例は見つかってないんだけどさ……。これも何かもっといい表現があったらこっそり教えてください。


 訳の意図、曲の感想諸々は以上となります。ご覧いただきありがとうございました。。


 (おまけ)

 当方、先日11/22のライブで終束論を聴きました(二回目)。対バンからフィーチャリングを招いて歌う形式で、毎回違うヴォーカルと掛け合いをするのが素晴らしく良いです。是非一度見てほしい。

 


-extra *.rom-

曇りかけの都市部で
影が彷徨い始めた卑屈の未来へ
歩を止めている
隠された正は
より深みを見せる
kumori kake no toshibu de
kage ga samayoi hajimeta hikutsu no mirai e
ho o tomete iru
kakusareta sei wa
yori fukami o miseru

過去を縛り付けて
この出口を塞いでいる人は
足を踏み入れる最期に
瞼を閉ざす
kako o shibari tsukete
kono deguchi o fusaide iru hito wa
ashi o fumiireru saigo ni
mabuta o tozasu

貴方が見るその窓辺へと
映り込むは霞でしょうか
いつか迎う終わりの知らせを
今はこの心に刻んで
anata ga miru sono madobe eto
utsuri komu wa kasumi de shou ka
itsuka mukau owari no sirase o
ima wa kono shin ni kizande

漂う絶望は非情に
嘲笑う観衆も掻き消す
tadayou zetsubou wa hijou ni
azawarau kanshuu mo kakikesu

彼方に浮かぶ蜃気楼は
訪れる終末を示す
kanata ni ukabu shinkirou wa
otozureru shuumatsu o simesu

街の片隅でずっと
灯が消えるのを待っている
いつもわかったふりしてもvein
流れに逆らい続けながら
物語は進む
machi no katasumi de zutto
akari ga kieru noo matte iru
itsumo wakatta furi shitemo vein
nagare ni sakarai tsuzuke nagara
monogatari wa susumu

悴んだ右手でめくったページ
目を瞑ったエンドロール
あってはいけないことなど
ないはずなのに
世界は灰色のままで
kajikanda migite de mekutta pe-ji
me o tsumutta endo ro-ru
atte wa ikenai koto nado
naihazunanoni
sekai wa haiiro no mama de

貴方が見るその足元に
映り込むは自分自身なのか
いつか迎う終わりの知らせは
今はこの心に鳴り止む
anata ga miru sono ashimoto ni
utsuri komu wa zibun zishin nanoka
itsuka mukau owari no shirase wa
imawa kono shin ni nariyamu

星さえも見えない夜に
何を願うの
音が消えた世界で
生まれた歌が今
さよならの意味を変えてゆく
hoshi sae mo mienai yoru ni
nani o negau no
oto ga kieta sekai de
umareta uta ga ima
sayonara no imi wo kaete iku

朽ち果てた時代に
雨に落つ涙を運べ
終わりのない孤独よ
kuchihateta jidai ni
ame ni otsu namida o hakobe
owari no nai kodoku yo

惰性に紛るこの人生だ
数えきれない後悔を
重ね揺れ動く今を飲み込んで行け
途絶える時まで抗え
dasei ni magiru kono jinsei da
kazoe kirenai koukai o
kasane yure ugoku ima o nomikonde yuke
todaeru toki made aragae