「色」について日々思うこと

Non è bello ciò che è bello, ma è bello ciò che piace.

 これは「美しいものが美しいのではなく、好きなものが美しいのである」という意味のイタリア語のことわざである。たしかに「美しい」と感じることと「好き」という気持ちにはある種の似た意味が含まれているように思う。

 家の辺りを歩くと、ふと気づくことがある。曇り模様の空の日は、花の色がいかにも艶やかに感じられるのだ。灰色がかった景色のなかで「花」だけが鮮烈に色を放っている。

 雲間から日がさすと、アスファルトが次第に白んでいき、建物などの色もくっきりと見えるようになる。「写実性に富んだ絵画ほど虚しい」。そう感じられてしまうかもしれない。いっそ写真の方が、絵の具の「厚み」はないという点で、清々しく世界を写していると感じる。

 大抵の場合、人の目に見えるものは過小に見られているように思う。たしかに目に見えて映るのは「光」であって、それが実際の色ではないという科学的な見方を聞くと、そうかもしれないと感じさせられる。

 しかし本当にそうだろうか。私にはむしろ「色」にこそ「もの」の存在性が宿っているように思えてならない。もちろんそれは色の「心理的効果」などについての話ではない。

 「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。」とは小林秀雄の『当麻』という文の一節である。たしかに「美しい」と感じるのは「知覚する主体」であって、そのものが美しいのではない。例えば人によってはその「花」を美しいと感じられないこともあるだろう。

 しかし例えば「面と点」についての関わりについて知ると、色には存在性があると感じさせられる。存在は知覚に先立つ。それは確かにそうである。ただ視覚に限っていえば、「色」と存在には同時性がある。切り離せないものなのだ。

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