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悲しみ

 愛には必ず痛みが伴うように、憎しみには必ず優しさが伴う。それは私達人類が誕生した時に生まれた真理である。愛の反対は憎しみではなく無関心だから。私達が誰かを憎む時、そこには必ず関心があり、それは一種の優しさである。
 自由とは権利であり責任でもある。誰かを愛する自由と誰かを憎む自由。そこには自分の感情がコントロール出来ない悲しみが存在する。人間として生まれた故の悲しみが。私は時々鳥になりたいと願う。美しい翼で飛翔し、悲しい歌を歌う鳥に。モーツァルトの音楽よりも綺麗な音楽を奏でる鳥に。
 ヴェイユは人間は祈りによってしか恩寵を賜われないと述べたが、それには真空を満たすことが必要である。自分を生きるに値しない重力に引き裂かれた存在として見つめること。そこには自分の良心と対話することで神を待ち望むヴェイユの厳しさが通奏低音として流れている。
 私達の愛はいつかは消えると分かっているから悲しい。私達の憎しみはいつかは生まれると分かっているから苦しい。悲しみなんて存在しなければいいのに。苦悩なんて存在しなければいいのに。けれども、エデンの園から追放された私達は罪人でしかない。そこに私達の根源的な悲しみが存在する。
 人はどうして出会うのだろう。いつかは別れると知っているのに。人はどうして生まれるのだろう。いつかは死ぬと分かっているのに。私達は愛や憎しみを抱くから、喜びや悲しみが生まれるのだろう。私達は一人きりでは生きられないから、誰かを愛さずにはいられないのだろう。愛には必ず悲しみが伴う。
 ニーチェの言う永劫回帰は、私達に課せられた罰かもしれない。私達の罪に相応しい罰かもしれない。私達は必ず罪を犯す。自分では許せないから、全てを許す神の存在が必要なのだ。神の恩寵が必要なのだ。
 私達の弱さは悲しみに繋がる。私達の罪も悲しみに繋がる。私達は時に愛を裏切り、時に自己を裏切る。そこにあるのは根源的な悪ではなく、善の欠如としての悪である。だから、私達人類は愚かな裏切りを繰り返すのだ。美しい裏切りを繰り返すのだ。
 私の手はマクベス夫人のように血で穢れている。私の口はリア王の娘達のように嘘で穢れている。生きるということは、自分の罪を償うことであり、悲しみを感じ続けることでもある。人間の醜さに気付き、自分の愚かさに気付くこと。そこには透き通った悲しみが存在する。
 傷付いたり傷付けられたりしながら私達は生きていく。けれども本当に悲しいのは、自分自身を裏切ることではないだろうか?ソクラテスのようには、自分であることを望んで生きることが出来ないことではないだろうか?
 美しい裏切りほど悲しいものはない。相手を守るための嘘ほど悲しいものはない。そして、良心を手放さないように生きるとき、私達はもっとも深い悲しみを感じずにはいられないのである。

       fin

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