「私とは何か-個人から分人へ」

平野啓一郎氏の、標記の書籍がとても印象的だった。

あなたはAさんとは仲が良く、夜が明けるまで話し込んでしまうとする。それに対して、Bさんとはどうにもピントが合わず、何を話したらいいかわからない。そんなあなたのことを、Aさんは「よくしゃべる気さくな人」と言い、Bさんは「寡黙な人」と言う…。

この2つの事象を受けて、わたしたちは「Aさんが言うような、よくしゃべる私が本当の私だ」と思いがちだ。
「自分探し」だとか「キャラ作り」という言葉があることを考えても、人間には場面に応じて見せるさまざまな顔を取りまとめる「主人格」のようなものがあって、そうでないものはつくりものだという感覚が一般的に持たれているような印象がある。

しかし著者は、この2つの「顔」、一人の人間の複数のありかたを「分人」と呼び、どちらも本当の自分であるとする。
分けがたい「個人(in-dividual)」に対応する言葉としての「分人(dividual)」。この「分人」は、相手とのコミュニケーションの中で生まれていくオーダーメイドの人格で、接した人の数だけ増えていき、相互に影響を与えあうという。そのうちのどれかが「主人格」であるということはなく、そのすべてが真実なのであって、「個人」は単なる「分人」の集合体にすぎないというのである。

「分けがたい個人」。そんなものがあるとは思えないというのは、本当にその通りだと思う。
「あなたって本当は●●な人だよね」というようなことを言われた時の、あの謎の胸騒ぎ。その「●●」が正しいことだとしても、「●●も本当だけど、それ以外の面もあるんだけどなあ…」「私が他の人とどう接してるかは知らないのに、自分の見えてるものが本質だなんて、ずいぶん強気なことを言うもんだなあ…」なんて思っていた。

こういった違和感を、著者は「他人から本質を規定され、自分を矮小化されることへの不安」だと指摘している。的確な言語化だと思う。
この「他人から本質を規定される」ことはあまりにも多くて、それが当たり前なのであって、不安に思うことは被害妄想なのだと成長過程で思うようになっていた。だから、それを不安なものだと認めていることに大きな意義を感じたのと同時に、自分が人にそうした規定をしてしまうこともあったように思えて、反省の念を禁じえない…。
そういう、無言の力に抗する力、それが小説家の強さだなあとしみじみ思う。

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