翠とロクドト

「キミの血を分けてくれないか」
 片手にメスを持った長身痩躯に長髪の目付きも顔付きも悪い男に突然こんな事を言われた場合どうすればいいのか。私の頭には瞬時に二つの選択肢が浮かんだ。
 
一、逃げる
二、戦う
 
(戦うのは無理だろ……)
 つまりは逃げる一択。私は瞬時に身体を捻って男とは逆方向に走り出そうとした。走り出そうとして、滑って転んだ。
「ったぁ~……」
「キミは何を馬鹿な事をしているのだ」
「馬鹿な事をしようとはしてません」
 立てるか、と言って差し出された手を無視して、私は一人で立ち上がった。
「ロクドトさんがメス持って怖い事言うのが悪いんですよ」
「それは…………すまない」
 我が家に住まう唯一の男——ロクドトが、申し訳なさそうに肩を落とした。
「だが、キミの血が欲しいのだ」
「……怖いしキモいです。ディサエルとスティルさん呼びますよ」
「ぐっ……申し訳ない。発言には気をつけるとしよう」
 彼が絶対に敵わない神の名を出したら一瞬で折れた。やった。勝った。
「それにしても、何でいきなり血が欲しいなんて……もしかしてロクドトさんって吸血鬼ですか?」
「いや、人間だ。太陽の下を歩いてもピンピンしているだろう」
「太陽の下と言うか、地面の上で転がってる所ならよく見ますけど……」
「あれはっ……植物の、観察の為だ」
「……そうですか」
 何か言い辛い事を隠すように、視線を逸らしながら言われると怪しさ満点だ。転がっている理由が他にも何かあるのだろう。流石にスカートの中を覗く為、なんて事は無いだろうが(スカートを穿くのはスティルだけだし、そのスティルが穿くスカートはロングスカートだ)、他には特に何も思い浮かばない。
「何もやましい事はしていないぞ」
「何も言ってないじゃないですか」
「顔を見れば分かる。ワタシをそんな浅ましい愚か者共と一緒にするな」
「じゃあ何してるんですか」
「っ……」
 またも言い難そうに眉を寄せ口元を歪めた。
「キミには関係の無い事だ。それよりも、何故ワタシがキミの血を欲するかの方が知りたいだろう。教えてやるからこっちへ来い」
 自分の家の敷地内で起きている事が私に全くもって関係の無い事だとは言い切れないような気がする。だがロクドトはすたすたと歩いて調合室へ入ってしまったので、私は仕方なくその後を追った。
(あれ? 待てよ。追って大丈夫か? 危なくない?)
 ロクドトは私の血を欲しているのだ。怪しい研究の実験体にされる可能性も無きにしも非ず。あな恐ろしや。
「何も危害は加えない。入口で突っ立っていないでこちらへ来い」
「メス持ちながら言われても説得力が無さすぎます」
「あ……すまない」
 ロクドトがメスを机に置くのを見届けてから、私は調合室内に入った。それでも一応一定の距離は取っておく。
「で、何で私の血が欲しいんですか?」
 椅子にどっかりと座り長い脚を組んだロクドトに訊ねると、彼は私を見上げながらこう言った。
「これはワタシの為と言うよりも、キミの為なのだ。魔力が人それぞれなように、血も人それぞれだろう? 血を使用して魔法薬を調合すれば、その人を守る盾にもなり、特定の魔物相手なら攻撃の手段にもなり得る。もっとも、この世界にはそうした魔物はいなさそうだがな」
「はあ……。つまり、私を守る為の魔法薬を作る為、って事ですか?」
「ああ」
「……」
 何でこの人は急に紳士的になるんだ? 何か裏があるんじゃなかろうか。
「日々世話になっているのだから、その礼だ。疑う様な目で見るな」
 意外や意外。とても真っ当かつ礼儀正しい回答がきた。しかしそうは言われても。
「メス持って血を分けてくれなんて言われたら、こういう目付きにもなりますよ。てか何でメス持ち歩いてるんですか」
「必要な時にすぐ取り出せるように、だ。先程はキミを見かけた時にその場で血を分けてもらう為に出した」
「その場で分けてあげますと言うとでも思いましたか」
「その場で説明するはずだったが、キミが馬鹿な行動をしたせいで台無しになったのだ」
「私のせいにしないでください!」
 出会い頭の第一声のせいだ。私は何も悪くない。
「ふん。まぁいい。これ以上無駄話をしていても埒が明かない。キミ、転んだ拍子にどこか怪我をしていないか? しているのであればそこから血を採る」
「ご心配どうもありがとうございます怪我はしていません」
「それはよかった。傷口から採ろうとすると余計なものまで入ってしまう可能性があるからな。手を出せ。少し痛むだろうが、採り終わったらすぐに処置してやるから安心したまえ」
 そう言ってロクドトは片手にメスを持ち、もう片方の手を差し出してきた。
「いやせめて採血するなら注射器使ってくださいよ!」
「……ちゅうしゃき?」
 何を言っているのだキミは、とでも言いそうな顔で首を傾げるロクドト。とぼけている様には見えない。
「まさか、そっちには無いんですか、注射器」
「何だそれは」
「えっと、ちょっと待ってください」
 スマートフォンを取り出し『注射器 画像』で検索。出てきたものをロクドトに見せた。
「こういうの、ないですか?」
「……無いな」
 マジか。
「この家にそれはあるのか?」
「ありませんよ。あ、でも……ディサエルー!」
「何か用か?」
 呼んだらすぐに創造神が現れた。
「注射器出せる?」
「オレを誰だと思ってるんだ、と言いたい所だが……何に使うんだ?」
「ロクドトさんが私の血を使って魔法薬を作るそうだから、採血するのに使うの」
「ふぅん……」
 私の説明を聞いて、ディサエルの目がすっと細められた。
「テメェ翠に妙なマネする気じゃねぇだろうな」
「待て魔お……いや、ディサエル。その会話なら彼女としたばかりだから二度もする気は無い」
「ならこの話は省略してやるが、翠。注射器を扱った事の無い奴に注射器ぶっ刺されたいか?」
「…………怖いから嫌だね」
「だろ? やめとけ」
「うん」
 ディサエル、退場。
「彼女を呼んだ意味はあったのか?」
「注射器で採血するのはやめた方がいい事が判明したので、多少は」
「その程度自分で考えられただろう。ふん。自分で考えられず、彼女も大人しくちゅうしゃきとやらを出しさえすれば試す事ができたのに」
 どうやら私は大分危ない所をディサエルに助けられたらしい。神に感謝。
「まぁいい。手を出せ。切る」
「怖っ! 嫌ぁ! 助け——」
 メスを構えこちらに迫り来るロクドトに高速で何かがぶつかり、ロクドトは窓の外へと吹っ飛んでいった。
「……て?」
 一瞬の出来事に、私は驚きのあまり声も出なかった。
「あ……え……?」
 吹っ飛ばされた時に一緒に割れたと思った窓ガラスは、新品同様綺麗に窓枠に収まっている。窓を開けロクドトを探すと、彼は庭に転がっていた。その隣にはスティルがいる。私が見ている事に気がついたスティルがこちらを見上げ、手を振ってきた。
「翠ー! 大丈夫だった?」
「あ……はい! 大丈夫です!」
「そっかー。ならよかった。翠を虐める悪い子は退治しておいたからねー!」
「あ、ああ……ありがとう、ございます……」
 なるほど。ロクドトが地面の上で転がっている、植物の観察以外の理由はこれか。
(スティルさんに遊ばれて……いや、サンドバッグ代わり……?)
「ふふっ。どういたしましてー!」
 笑顔をこちらに向けたまま、彼女は起き上がろうとしたロクドトを踏んずけた。
(うわぁ……)
 ここまでやらなくてもいいんだけどな……。
 しかしそれをスティルに言っても微妙にズレた会話になってしまうのは経験済み。ディサエルに言っても多分無意味。
(ご愁傷様です、ロクドトさん)
 私は手を合わせてから窓際を離れ、治療薬は必要だろうかと収納棚を探った。
 
「この家で自分の身を守る為の魔法薬が一番必要なのは、ロクドトさんなんじゃないですか?」
「う……むう……。だが、彼女には敵わないだろう」
「それは……そうかもしれませんね」
 スティルから解放されたロクドトは、二階から落ちたというのに目立った外傷も無くピンピンしていた。今はまた調合室に戻り、大人しく椅子に座って項垂れている。
「無理にキミから血を貰おうと躍起になってしまい、申し訳ない」
「分かればいいですけど、でも、何であんなに必死に……。血が欲しい理由が他にもあるんですか」
「っ……」
 どうやら図星をついたようで、ロクドトは気まずそうに顔を背け、猫背を更に丸めさせ、深い溜息をついた。
「別の世界の人間の血だぞ。欲しいに決まっているだろう」
「……」
 私はゆっくりと息を吐いて、吸って、その名を呼んだ。
「ディサエルー! スティルさーん!」
「おい待」
 大きな塊が二つ、高速でロクドトにぶつかり、窓を突き破ってそれらは飛んでいった。
 瞬時に元に戻っていく窓の外を見ると、眼下の庭ではビクともせず横たわるロクドトと、その両脇にディサエルとスティルが立っていた。
「粗大ゴミの日はいつだ?」
 とディサエル。
「明日じゃなかったっけ?」
 とスティル。
「明後日ですよ」
 と私。
「ゴミ扱いするなキミたぐっ……」
 何か声が聞こえた気がするが、すぐに聞こえなくなった。
「ちゃんと助けを呼べて偉いぞ、翠」
「何かあったらまた呼んでね~」
「分かりましたー!」
 こうして今日も、平和な一日が過ぎてゆく。
 
「どこが平和だがっ……」
「ゴミは黙ってろ」

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