カルボナーラの日々

夫の帰りが遅い夜はホッとする。

私という人間は心底一人の時間が好きなのだと気付いたのは結婚した後だった。

「ごめん、今日は残業で遅くなる」そんなLINEが入ったのは、新宿の会社を出ていつものようにまっすぐ小田急線へと向かっていた時だった。すぐさま山手線へと向かい、原宿で降りると結婚前に勤務していた職場近くにある隠れ家的喫茶店へと急いだ。

ビル・エヴァンスが小さいボリュームで流れる店内は居心地良く、紅茶色した薄めのアメリカンコーヒーをゆっくり口に運びながらただひたすらぼんやりする。この時間が私を蘇らせてくれるのだ。

誠実で優しい私にとって理想の男性と結婚したはずなのに、毎晩飲みにでも行って日付が変わる頃に帰ってきて欲しいと切に願うのは何故だろう。そんな事を密かに抱いている私は妻失格なのかもしれない。

記念日には花束を抱え、出張へ行けば私の好きなスイーツをたくさん買って笑顔で帰ってくる彼を見る度少し罪悪感に駆られる。世間から見れば、なんて贅沢な奥さんだこと、そう言われるだろう。

結婚イコール二人で暮らす事。そんな事はわかり切っていたはずだった。ただ、自分一人だけになれない時間が続く事がこんなにも息苦しいとは思ってもみない事だった。

出版社に転職し、地元の九州から東京へ住み始めたのが25歳で一人暮らしを満喫し仕事にも慣れた二年目で夫と知り合った。一人の快適さをまだ手放したくなくて、結婚するなら30代に入ってからでいいよね、なんてよく同僚と話していた矢先、付き合い始めて一年経った頃彼がこう言った。「もしも詩織に何かあった時、俺は一番に連絡もらって誰よりも早く駆け付けたい。逆の場合も一番最初に詩織にそばに来て欲しい」

あまりに唐突で、一瞬何を言われているのか理解出来ずにいると続けて結婚の言葉が続き彼の真剣な眼差しに圧倒された事は鮮明に覚えている。

もちろん私も彼と結婚したいと思ってはいたけど、それはまだ先の話で今じゃないかな、そうのんびりしていた頃のプロポーズだったから、正直嬉しさと同時に一人暮らしが終わる寂しさ、新しく始まる暮らしへの不安からで少し億劫だった事は否めない。

「森くん」 。夫と結婚するまでずっとこう呼んでいたから、結婚直後はどうしようかと本気で悩んだ。名前は拓郎だからたくちゃん、タクロー、こう呼んでみるものの私も夫も慣れずまた「森くん」に戻ってしまった。

「来週の土曜日どこか行きたい店あれば予約しておくよ」ある日夫が帰宅してすぐ冷蔵庫に入ったペットボトルの水を取り出しながらこう言った。二人の誕生日でもないし、一体何があるんだろう、そう思った矢先「詩織、また忘れてただろ、2年目の結婚記念日なのに」半ば呆れたようだった。

夫も私も外食より家でゆっくり食べる方が好きだ。特別行きたい店も思いつかず、夫がお風呂の間、夕食の準備をしながらニラを刻み、ひき肉をこねていると何故か突然結婚したての頃連日夫が凝って作ってくれた料理を思い出した。

2年前の9月のはじめに軽井沢の教会でこじんまりとした結婚式を挙げ、今住んでいる豪徳寺のマンションに住み始めたばかりの頃、「料理は俺が担当する」と宣言し、張り切って食材を買い込み冷蔵庫は連日あっという間にいっぱいなった。来る日も来る日も肉肉しい料理が食卓に並び、人生初の胃腸薬も飲むはめになった。

ある日夫が同僚と行ったイタリアンレストランのランチで食べたというパスタにいたく感動して帰ってきた。夕食は当然というべきか、そのパスタを再現する為いつもより長いことキッチンに立っていた。是非とも食べさせたいと興奮気味だった事をよく覚えている。9月といえどもまだ猛暑の日々、夫は連日帰宅するといたく感動した濃厚なカルボナーラの研究に没頭した。そしてその研究は約3週間近く続いた。お陰で彼がとことん突き詰める性格だと結婚して初めて知る事が出来たのだった。

私の胃腸がそろそろ限界にきた時、タイミングよく夫の出張が入り、ようやく彼のカルボナーラへの情熱も一旦落ち着いた。

あの日々は二人ともまだお互いを探り、どう向き合っていいのか分からない時期。ただ彼はカルボナーラという料理で私にたくさんの愛情を毎日のように投げかけてくれたのだ。

夫がお風呂から上がり缶ビールを飲み始めた時こう言った。「来週だけど、カルボナーラが食べたい。外で食べるんじゃなくて森くんが作ったのが久しぶりに食べたくなった」

「懐かしいな、一時期ホントよく作ったよなぁ」苦笑いしなが夫が言った。「よし、じゃあ気合い入れて久々作ってみるよ」

あの9月にもう一生分食べてあれ以来食べていなかったカルボナーラを何故か突然食べたくなった理由は分からない。ただひたすらあの味が懐かしく思えた。

この二年間で私は彼と何を共有出来ただろう。二人で居ることを選んでおいて私はいつも自分だけを見つめて一緒に暮らしているのに一人で居たような気がする。

来週カルボナーラを食べたら、また最初から気持ち新たに夫である森くんと結婚生活を再スタート出来るかもしれない。

そんな気がする。

#創作大賞2022

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