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小説|漂い、揺らぐもの

夕焼けは、気配もなく訪れていた。それは言葉なく歩き続けていた僕らを淡く染め、濡れた高原を僅かに揺らし、黄色の波紋を描く。冷えた風が、安らかな寝息のように流れている。

「わかる?」

立ち止まった彼女が小さく呟いた。その問いに、僕はただ彼女の横顔を見つめていた。彼女の眼差しは、地平線を捉えて揺るぎない。僕が頭を振ると、彼女は囁くように答えた。

「真実よ」

葉擦れは息を潜め、虫の音は躊躇うように断続していた。沈黙は夕陽と共に沈み、吸い込むように色彩を奪って、夜露は青々とした匂いを立ち昇らせる。そこでふと、彼女は膝を折り、一本の細い草を摘んだ。すると、その草は彼女の手の中で変形し、小鳥へと姿を変える。彼女がその鳥を放つと、鳥は森へと羽ばたいていった。僕らは佇んで、それを見ていた。

「君には分かるのか?」

彼女は僕の目の奥を覗いた。深とした闇の中、彼女の瞳には、まだ何かが燃えているようだった。

「それは、感じるものよ」

彼女の言葉は僕を通り過ぎ、遥か遠くへ消えていった。と同時に、僕そのものを深く変質させていた。それは、手を伸ばせば、指の間をすり抜けてゆくようだった……。

僕は再び彼女を見つめた。彼女は揺らめく灯火のように儚げだった。それでも、彼女は振り返ることなく、静かに歩み出す。彼女が遠ざかるたび、風は低く唸りを上げ、森の闇は深まり、足音を呑み込んでいた。

やがて彼女は高原の中、夜の闇に溶けていった。だが、その言葉は宙を漂い続けている。



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