シンプルに呪縛のサイクルがある-『器』の読解

これから書く過去の上演についての、ある意味では否定的と取られかねない文章は、見ていただいたお客様に申し訳ないなと思いつつ、しかしこのnoteが創作や思考の覚書のためでもあることを踏まえてはっきり書いておこうと思う。
先に言っておくとこのあとに書くような読解が座組になかったわけではない。しかし、当時どう読解していたかを正確には言語化できないし、言語化していなかったとしてもぼんやりと共有はしていたはずのそれについて、今ならよりシンプルに自分の言葉で結びつけられると思ったから残しておくというだけのものである。

2020年および2022年に上演した『器』の終盤において、カズキと「死にたみ」であるメランが対話するシーンでは、ある矛盾が発生する。
男らしくふつうに生きられなくて死にたみと直面するカズキが、死にたくないと思う自分に気づいて、死にたいのか死にたくないのかよくわからなくなってしまうというくだりだ。

カズキを演じる私は2022年上演時、前シーンとの関係を利用し、男らしさの呪縛の記憶をカズキと女性の関係性と絡め、そのような矛盾が起きるのだと解釈した(とおもう)。そうやって、どうしても男らしさ(や、ある単一の生き方、ふつうの生き方)を求めてうまくいかずに死にたみを覚える人間を描ければと思った。しかし、それはそれとして、もっと階層の深い強度の高い読みがあることにも気づいた。

結論から言うとその読みとは、「死にたくないから男らしさを求めている」という因果がある、ということだ。

あるひとつの生き方を固辞することができれば、あとはそれに忙しく従事することで、辛いことにも苦しいことにも目を向けずに済む。男らしさの文脈で言えば、稼ぐ・養うなんかがその一例だ。稼ぐことができれば、現代社会において生きていくにはたしかに有効だ。それが他人の生活を支えることもできるならばなおそうだろう。そんなことは言うまでもない、と多くの人も思うだろう。

しかし、こう思う人はなかなか少ない。稼げなければいけない理由なんてない、ましてやだれかを養えなければいけない理由も。

「男らしく」なくても他の生き方があると頭ではわかっていても、「男らしく」生きるよう最適化された社会では、そうせねばならぬと思わされがちだ。むろん現代では選択肢も増えてはきているが、結局誰かが稼がなければならないということには変わりがない。しかも、稼ぐ生き方が有効だというだけの話を、さもなくば死ねとまで言わんばかりに他人に強制してくる者がある。例えばそうしてくれたほうがありがたい社会的強者や、老後を心配する親や、子供を心配するがあまり強迫的な親や、学校や、資本主義社会が、そう言ってくる。
だから、そうしなければ、死ぬ、と私たちは思ってしまっている。

そのように強迫的でなくても、ある生き方をやめて生き方を選ぶという行為は、ある意味、死と直面する行為なのだ。これはかんたんな話で、生き方を変えたら死ぬかもしれないと思うからだ。これまで何十万年もの間人類は、死の恐怖を苦痛とし、それから逃れようとすることで死のリスクを避けてきたことであろう。そのような人類の一員である私たちもまた、自己の死について恐怖することを避けたがる。そうして以前の生き方に固執しようとする。死ぬかもしれないならなおさら、前の生き方を捨てるなんてできない。

死にたくないから男らしく生きようとする。それができないから死にたくなる。でも死ぬのは怖いから生き方を選ばざるを得ない。また男らしく生きることを選択する…このサイクルがまとめて「生き方の呪縛」なのである。

少なくとも戯曲では全編通してそのように描かれる。「死にたみ」同士の会話にもこのサイクルに潜む矛盾への言及があるし、このサイクルに対し、ラストシーンで何を表現しようとしていたかにまで触れたいが、それこそ上演時に表現しとけよって話だし、実際表現してたので、気になる方にはいいへんじ公式の物販で戯曲を買って読んでもらうのがいいでしょう。一時全文公開された『薬をもらいにいく薬』と違って、物販でしか手に入らないからね!

なんで急にこんなこと書きたくなったかな。整理して改めて、当時これをやっていなかったわけではなかった、とは思う。
たぶんいまの私が演技言語をあらゆる方面で分解・再統合中だからなんだろうなあと思う。既存の秩序を徹底的に疑った上で、いままで手探りにやってきた作り方がうちどれが有効的だったのか、改めてどうすれば使えるのか、使っていいのかを考えている。それは私にとってはほとんど生き方を探すということなのである。


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