岡田麿里脚本、監督の作品について思うこと

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)」「心が叫びたがってるんだ。(ここさけ)」などの作品で有名な脚本家、監督の岡田麿里さんについて私見を語ります。

「泣きたい私は猫をかぶる」を視聴しまして、その感想も入れつつ。

ほぼ毎回登場する、複雑な環境で育ったキャラクター

「あの花」では不登校の主人公。

「ここさけ」は主人公の言動をきっかけに両親が離婚しており、以来極度の引っ込み思案に。

「空の青さを知る人よ」は、主人公の両親が幼い頃に他界しており、日々世話をしてくれる姉に対して複雑な感情があり。

「さよならの朝に約束の花をかざろう」の主人公は、拾い子を自分が母親として育てていくことを決意します。

「猫をかぶる」では母親が家を出て父親が再婚していました。

僕自身は「ここさけ」で岡田麿里さんを知ってそこから追いかけてる感じなので、たくさんの作品がある全てを見たわけではもちろんないのですが

最近の劇場版はやっぱり複雑な環境で育ったキャラクターがほぼ確実に登場してる気がします。

岡田麿里さん自身が不登校を経験したといいますし、実際「あの花」で不登校の男子を主人公にしたのは当時としては新しく感じました。その主人公がめんま(ヒロイン)のために頑張る姿が感動を呼んだり、構成としてもとても良かったのだと思いますが

やっぱりメッセージ性が強すぎるきらいがあると思うんですよね。世の中には不登校じゃない主人公なんてたくさんいて、ていうかその方が多いわけで、その中でじゃあなんで主人公にそういう属性をつけるんだって、観客はそこに意味を求めてしまうわけですよ。多様性尊重の観点からはそれってどうなの?って思われることではありますけど、一般的に世に出す作品としては「意味もなくゲイ、レズビアンのキャラクターを出すべきではない」みたいな意見もあります。本来は意味を持って存在するものではそもそもないんですけど、やっぱり世の中にはストレートの恋愛しか考えたことのないキャラが全員っていう作品があふれかえってるので、その中で同性愛とかを持ち込むと観る人はそこに意味を求めてしまう、と。多様性尊重がどうこうというよりは、物語は観客の中では常に相対的に評価されるということです。

主人公が、その複雑な環境の中で葛藤や悩みを抱えるのはもはや必然であって(というかそれがないと観客は意味づけを納得できない)、その葛藤が物語の中でどう描かれていくのか、キャラクターの中でどう昇華されていくのかというのは、観客としてはどうしても気になってしまう部分です。

そうなんですが、映画ともなると時間も限られていて。どうしても全てを丁寧に描いているとマンネリしてきますし、時間もたりません。

そうなると、言い方はあれですけど、せっかく用意した設定を活かしきれないというか、観客の期待より少し低いところで物語が終わってしまうという残念さもあるなあと思っています。風呂敷広げたは良いけど、あまり回収されなかったなあ、みたいな。

最近岡田麿里さん脚本の作品を見ていて思うのは「このキャラクターの複雑な設定は、本当にこれじゃなきゃだめだったのかなあ」というところです。

もちろんストーリーの構成上、葛藤はきちんと描かれていますし、それを解決していくという流れも納得はできるのですが…

なんか「ごく普通の環境で育った人の、ごく普通の葛藤を描く」みたいな話も、僕は好きですし、そういう岡田麿里作品も見てみたいなーと思っています。

もちろん作風として得意や不得意もあるのでしょうけど、最近はそんなことを思っています。

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