2021 Great Escape3(最終)

 豊が防壁のなかで王国の人々の話を聞いていると、ミアの手下たちが豊の身体を弄りに来た。
 単調な音を刻んでいた心電図モニターがギザギザと波打つ。ミアの手下たちが豊の身体を起き上がらせて、首に何かを巻きつける。
 冷たいものが肌に触れた。鋏の先だ。鋏が豊の防壁を破って、豊の王国に侵入しようとしている。
 豊はミアの手先が王国を切り裂きに来たのだと思った。が、鋏は豊の視界を明るくして去っていった。
 頭の片隅に避難していた豊は、こわごわと目を開けた。頬を赤くして自分を見つめている静と目が合う。
「髪を切ってくれたんだ。素敵だね」
「髪?」
 豊はミアの手下が自分を助けてくれるとは思わなかった。が、今まで伸びていた髪が切られて、窓から吹くすこし冷たい風が髪を優しく揺らしている。
「看護師さんが髪を切ってくれたんだよ。とてもかわいくて素敵になった」
「看護師?」
 豊は初めてミアの手下の名前を認識した。

 看護師は毎日豊に管を入れたり抜いたりしている。たくさんの透明な血を入れて、すこしの赤い血を採っていく。豊の身体を拭き、シーツや寝間着を替えていく。もし看護師がミアの手下だったら、豊にこんな手間はかけないだろう。
 豊は看護師がミアの手下ではないことを徐々に理解していった。看護師は豊の脳を食べようとしているのではなく、防壁を巡らせた豊の面倒を見ているのだ。
「看護師だけはミアの手下じゃないんだろうな」
 夜中に目を覚ました静に、豊は疑問に思ったことを聞いてみた。
「僕にもわからないけれど、すべての人間がミアの手下じゃないことは確かだよ。もちろん月の海の兄弟たちもミアの手下じゃない」
「誰を信用して、誰に気をつければいいかわからない」
「皆そうだよ。防壁を張って、そのなかから自分が信用できる人がいないか窺っているんだ」
「静もそう?」
「僕もそうだよ。ただ、月の海の兄弟は君と同じで防壁が強く出過ぎてしまうんだね」
 豊は枯れ枝のように痩せた自分の手を見下ろした。自分は自分を強く守りすぎているのかもしれない。豊は頭のなかの王国の住人を守らなければと思っていたけれども、王国の住人たちは豊に話をしなくなっている。
 豊はよく眠れるようになった。静がくれた猫の尻尾のおかげだろう。隣で静が眠っていてくれるのも、豊の心が鎮まった原因のひとつかもしれない。

 看護師たちは毎日飽きもせず同じことをしている。防壁を張った豊の面倒を見てくれている。それは豊の母親のような優しさのせいだと、豊は胸が熱くなった。
「看護師ってすごいね。ミアに対抗できるのは、この世で看護師だけかもしれない」
「看護師だけじゃないよ。愛情を持っている人は皆、ミアに対抗できる」
「愛情?」
「君も持っているものだよ。でも防壁に邪魔をされて、愛情が発揮できずにいる」
「静も持っている?」
「持っているよ。君にね」
 急に愛の告白をされて、豊は心臓から血液が迷子になったような感覚を覚えた。
「僕は男で、君も男だ。僕が好きだなんて、おかしい」
「でも僕は君が好きだ。菜の花畑で迷子になっている君を見たら、絶対に迷路に駆けつけると思うよ」
「僕がミアに食われそうになっても、静は僕のもとへ駆けつけてくれる?」
「駆けつけるよ。ふたりならミアも怖くない。月の裏側だって」
 豊は、静とふたりならばミアを倒せるかもしれないと思った。母とカレー風味の手羽先の唐揚げを食べたように、ミアを食べてしまえるかもしれない。
「月の裏側から表に出よう」
 静は語尾に力をこめて豊に宣言した。
「ミアを倒して、菜の花畑の迷路から外に出るんだ」

 豊はミアに対抗する愛情の欠片を集め始めた。母が作ってくれた幼稚園のスモックやお弁当袋には、黄色いひよこがついていた。長靴もレインコートも黄色で、豊はたくさん雨が降るようにと祈った。
 早春の時期に咲く黄色い手まりのような花のことも思い出した。枯枝に丸いポンポンのようにいくつも花をつけるその木は、紙幣の原料になるのだという。
 母はその木を見て「枝に花ばかりついて変だね」と笑っていた。その花の名前を、豊は思い出せなかった。
 静にその花の名前を聞いてみた。静はああ、と眉を上げて、それから何かをたくらむように口の端を引き結ぶ。
「知ってるけど言わないよ。自分で確かめるといい」
「どうやって」
「月の裏側から抜け出せば、花の名前がわかる」
 静はすこし寒い風が吹く窓を見上げながら、そろそろ花が咲く時期だよと言った。

 豊の頭のなかの王国から人々が去っていった。遠い波のようにずっと続いていた人の話し声が、猫の尻尾のおかげで途絶えた。
 豊は久しぶりに静かな夜を迎えて、天井を見上げていた。自分が菜の花の迷路にいたとき、菜の花は自分の視界を覆う壁だった。豊は防壁を解こうとしたが、黄色と黄緑の壁に阻まれてどこに行けばいいのかわからない。
 迷路のなかで、豊はミアの気配を感じた。ミアが豊の頭を破壊して、記憶を食べようとしている。豊は頭の奥の迷路へ逃げ込んだ。黄色と黄緑の迷路の中心で、目をつぶって座り込む。
 ミアが迷路の道を一本ずつ辿って自分のもとへ近づいてくる。
 豊はふと甘い匂いを感じた。ティーツリーのアロマオイルだ。母と同じキリンの夢を見たことを思い出す。豊がハッと目を見開く。
 ミアは自分を殺せない。殺すのは、ミアに殺されると思った自分だ。
 母の愛情の記憶は自分だけのものだ。そしてそれを共有した静のものだ。
 静と同じ夢を見れば、自分たちは月の裏側から抜け出せるかもしれない。
 ミアの気配に身を縮めながら、豊は菜の花の迷路の奥で猫の尻尾を強く握りしめた。
 静の大事な親友。その記憶と愛情が静によみがえることを、豊は祈った。
 どうか静の親友が静を守ってくれますように。
 静がミアに食べられませんように。
 僕らの記憶、僕らの愛情が失われることがありませんように。
 ミアの気配が消えた。豊は菜の花の迷路から立ち上がった。自分の頭と同じ高さに生えていた菜の花が、今は豊の太股の高さになっている。
 菜の花畑の遠くに人影が見えた。菜の花の迷路の道も見渡せる。豊は迷路を駆け抜けると、人影の待つゴールへ向かった。

 目の裏に赤い光が見えた。
 子供のころ、自分が初めて見たのは、光に透けるまぶたの赤い裏側だった。
 病室のなかで、心電図モニターが単調な音を刻んでいた。その音が今はとても力強く聞こえる。
 そして、自分の名前を呼ぶ、静の声も。
「豊」
 まぶたが張りついて、目が開かない。豊はまぶたに渾身の力をこめると、まぶたを押し上げて目を開いた。
「豊!」
 唇も張りついていて、うまく開かない。唇の隙間から息を吐き出して、皮を剥ぐように唇を開く。
「……し……ず……」
 声がかすれている。それでも、豊は久しぶりに自分の耳で自分の声を聞いた。
 視界の焦点が合う。涙で顔をぐしゃぐしゃにした静の顔が見える。
「ずっと豊の声が聞こえてた。猫の尻尾のことを思い出せって、声が聞こえてた」
 静の涙が頬に落ちてくる。耳元へ滑り落ちていく、冷たい雫。
「猫のぬいぐるみが親友だった。子供のころにお父さんが買ってくれたんだ。だから離婚したときにお母さんがぬいぐるみを捨てようとしたけれど、僕が猫の尻尾だけ切り取ったんだ」
「……つきの……うら、がわ……」
「僕らは月の裏側から抜け出せたんだ。ミアもいない。ここは現実の世界だ」
「……よか……た……」
 長いあいだ、豊は自分の巡らせた防壁のなかにいたのだ。そして静と夢を合わせて、こちら側の世界に帰ってきた。
「黄色い、紙幣になる花の名前は、ミツマタだよ。これから花が咲く」
「……は、な……」
「リハビリをして、ふたりで見に行こう」
 返事のかわりに、豊はかすかに口元を上げた。静の目からまた涙の雫が落ちる。
「君は勇気がある、すごい奴だ。ずっとひとりで戦って、ミアにも負けなかった」
 静は赤くなった目でじっと豊を覗き込んだ。
「キスをしてもいい?」
 豊は目を閉じて唇をすぼめた。王子が目覚めたのは王子さまのキスだったのか、と苦笑する。
 唇にやわらかく温かい感触を覚えた。心臓から血液がどっと流れ出して、胸がドキドキする。
 唇で跳ねる熱に、笑いを誘われる。豊は静と唇を離して、ふたりで笑い合った。
「今日は満月だから、月を見上げよう。僕らの海が並んでいるよ」
 豊がゆっくりと首を動かしてうなずく。
「おかえり、豊」
「……ただ、いま」
 静が枕元にあるナースコールを豊に握らせる。
 豊はナースコールをぎこちなく握ると、親指の腹でボタンを押した。

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