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2021 『蜜の厨房』さんのこと4 強姦と去勢

■2021.02 『蜜の厨房』さんのこと4 強姦と去勢

 こんにちは。白です。『蜜の厨房』さんのやおい論、第四回目です。
 今回は「蜜の食卓 MENU-1」を中心とした解説です。
 書いているうちに自分の意見が交ざってきたので、私の意見のときは文頭に注意書きをつけています。

わたしが読みたかったのは、異常な世界における異常なほどの情熱の描かれたストーリーです。そしてそれを産み出すに至った、作者である「やおい少女」の世界。

 しかし「男同士という、一見普通ではないカップリングのなかに、結局普通の恋愛の世界を構築してしまった「エセやおい」なるものが世のやおい作品の九割がたを占めるようになってしまいました」と続きます。

「愛」さえあればすべてが許される。「性――SEX」は愛の究極の表現である。

 前回のおさらいになりますが、私は、少女たちは、もしやおいが現実に起こったことであれば、絶対に自分たちはそれを許すことができないということをわかっているのではないかと思います。わかっていて無視している。そういう状態です。

基本的に少女たちはセックスを受け入れられない、つまり「イヤ」であることを前提としているのです。

 「イヤ」であるセックスを受け入れる場合、

自ら望むことなく、気持ちのよい幸せなセックスを他人から無償で与えてもらうには、「愛されているがゆえに強姦され、それが次第に快楽にかわる」しかないのです。

 「あまりにも無茶な理屈です」と蜜さんは言います。その理由は、「少女たちには、他になにもないからです」と続きます。

 少女とは男性に客体として見いだされ、自分の性を男性に供する存在です。
 そして時として自分のもつ性が男性を狂わせ、それによって自分が変わることを余儀なくされる存在です。
 子供から少女に変わるとき、私たちは性をどこか着心地の悪い服のように身につけたのではないでしょうか。
 やおい少女はそのような変化に鋭敏な少女たちだったと思います。
 もし自分の性が喜ばしいものであったなら、やおい少女は「少年(青年)」という着ぐるみを着なくてもよかったような気がするのです。

 蜜さんのお話を続けます。

「愛と性」をコミュニケーションのツールとして使う、やおいの世界の少年たち。
「愛してる」と囁きセックスするだけでやすやすと心を通わせることができる奇蹟の世界。
そこには少女たちの願望がめいっぱい込められています。愛しあいたい、愛されたい、誰かにわたしを欲してほしい、わたしのすべてをくまなく知って、わたしとひとつになって欲しい、という。
そうして、コミュニケーションの出来ない少女たちは、セックスを、まるでコミュニケーションの魔法かなにかと勘違いするのです。
その勘違いの背景には、愛と性にまつわる共同幻想があると考えられています。

 その「勘違い」の源は、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」です。
 「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」とは、ひとりの人間と「恋愛」「結婚」「子供を作る」という、近代社会の規範となった考え方で、日本では高度成長期以降に定着しました。おそらくはやおい少女の母親世代が信奉した考え方です。
 「恋愛」と「結婚」は自由な世界では相反する概念ですが、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」であれば、「恋愛」と「結婚」をイコールにすることができます。
 やおい少女の母親たちはそれを信じ、家庭を運営してきた世代と言えるでしょう。

 その後、蜜さんは、これだけははっきりと云っておきたい、と言います。

「セックスはセックスでしかないんだよ?!」
愛と性という共同幻想にしがみつかなければ生きていけないほどに、少女たちはコミュニケーションに飢えているのでしょう。

 蜜さんは真面目にやおい少女の現状を憂いてこの発言をされたのだと思います。
 蜜さんは感覚の正しい方です。おそらく私のほうがやおいで自分を騙してきた期間が長いぶん、感覚が歪んでいるのだと思います。

 私は、やおい少女は「セックスはセックスでしかない」ことを骨身に沁みて知っている種族だと思うのです。
 知ったうえで、知らないふりをする。「やおいはファンタジー」という目隠しをすることで見ないことにしてしまう。
 私は連載の二回目で、やおい少女がやっていることはオセロではないか、と書きました。
 黒を白にする。
 「セックス」という性器と性器の結合を、愛の究極の表現にする。

 人間はこの欺瞞をもっとも重要なことに使ってきました。
 「生殖」です。
 人間は「生殖」のために男性に生理的な欲望を与え、女性にはその男性の欲望に供する快楽を与えました。
 もともと「セックス」は、女性にとって一番危険である「生殖」を乗り越えさせるために、愛の究極の表現とされたのです。

 男性の欲望が生理的なものである以上、女性は男性の性欲が「愛」か「欲望」かの区別をつけることができません。
 しかしそれが異性愛の男性が欲情しない「男」であれば、男性の性欲は「欲望」ではなくて「愛」なのだと区別をつけることができるかもしれない。
 やおいの論理には、このような思考も含まれているのではないかと思います。

 話を戻します。

男性性器、それはおそらく少女たちの対極に位置するものであるはずです。
力のあるもの、少女たちを征服するもの、愛とは無関係なものなのですから。
ですからそれに対して心を閉ざすのは、しごくあたりまえのことでもあるのです。
結局云えることは、やおい少女たちの世界がいかに閉ざされているかということだけです。
そしていかに、本心では男性を恐れ、遠巻きにし、憧れと幻想を抱いているかということ。

 本来の男性とは、自分の「欲望」によって女性を支配する者でもあります。
 セックスが「愛」か「欲望」かを決めるのは男性であり、女性には決定権がありません。
 女性にあるのは男性を受け入れるか否かという自分の身体の使用権です。
 だから女性はいかに男性の「愛」を確かめるかということに腐心します。

 やおい少女がやっているのはオセロだと、前にも書きました。現実では黒い札を白にする。
 ここから先は私の意見ですが、やおい少女は男性の「欲望」が確実に「愛」であることを証明するためにやおいという装置を発明したのだと思います。

 やおいの強姦は「愛」のオーバーフローによって引き起こされます。
 やおいの世界では、強姦は男の「欲望」による行為であってはなりません。最初はそうであっても、途中で「欲望」から「愛」に改宗しなければなりません。
 やおいの世界の「攻め」とは、「愛」によってしか性行為をしないよう、やおい少女に去勢された存在なのです。

 今回はここまでです。お付き合いありがとうございます。


 


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