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2021 優しい去勢のために メモ

優しい去勢のために 松浦理英子 ちくま文庫 1997年

 主に1980年代のエッセイ。『親指Pの修業時代』に至る作者の思想が詰まっている。
 『親指P』のみならず、『犬身』や『嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない』などの思想の原形が窺える。

 ジャン・ジュネ、『潮騒の少年』、『蜘蛛女のキス』、ミシェル・フーコーなど、やおい少女と同じ教養を辿ってきた松浦氏であるが、松浦氏は女性同士の関係性の恋愛(セクシュアリティによらない)を描いた。
 自分が女性であったからという理由をWebのインタビューで拝見したが、松浦氏はやおい少女と同じ教育を受けながらも男性同士の恋愛の方向へは来なかった。女性同士の関係性を突き詰めて破綻するという方法を採った松浦氏は、女性同士でも「ファンタジー」の恋愛は一度も書かなかった。そのほうがラディカルだと最初から諒解していたのだろう。
 やおいの初期も男性同士の関係性を突き詰めて破綻するという方法を採っていたが、やがてその破綻をくつがえす方法を発明する。「ファンタジー」のなかで恋愛を成立させるという方法だ。

 松浦氏とは関係ない話になるが、現在のファンタジーが以前のファンタジーのお約束を踏襲しない、ある種のレベルダウンによって普及したように、やおいも以前のやおいを書き手に都合のよい「ファンタジー」化することで普及したような気がする。
 中島梓氏が指摘した、やおいをやおいとして成立させる「サナトリウム」が常態化してしまったと言えばいいだろうか。

 松浦氏は女性同士の恋愛を書くが、それは性指向よりも個と個の関係性を突き詰めた結果であり、松浦氏の書く恋愛は厳密には同性愛でも百合でもない。その痛々しいリアルさを見ていると、自分はやおいという「ファンタジー」に逃げ込むことで現実から目を逸らしているのではないかという疑いが湧いてくる。男性同士の恋愛に仮託して自分が失っているものは何であろうかと。

 松浦氏は<非=性器的なエロスの称揚>を提唱し、肛門やへそなど<非=性器的>な器官を称揚する。

 肛門は裏にして表。
 肛門は出口にして入口。
 肛門は頂点にして奈落。
 肛門は清浄にして不浄。
 肛門は楽器にして楽士。
 肛門は過去にして現在。
 肛門は<傷にしてナイフ>。
 肛門はクラインの壺。
 肛門はgenderという虚構の精算所。
 肛門は甘くて酸っぱい。
 肛門は現身にあって奇跡的に夢を解放する場所。(P235-236)

 あまり松浦氏の書評にならなくて恐縮なのだが、私は松浦氏に「あなたは肛門を架空の膣としか見なしていないでしょう?」と指弾されているような気がして仕方がない。


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