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2001 JUNE小説の難しさ

■2001.03 JUNE小説の難しさ

 ここでは「JUNE小説」をボーイズラブ・やおい・JUNE小説全般を含む言葉として使用しています。
 そして、現在のLGBTを「同性愛者」と一括で称しています。
 時代の雰囲気を残すために、2001年当時の言葉を残しています。ご了承ください。

□「文学」と「ファンタジー」

 中島梓氏の「小説道場」は、雑誌『JUNE(小説JUNE)』に連載されていたJUNE小説の書き方のコラムです。
 同性愛を扱う投稿小説を中島氏が評し、投稿者のレベルによって段位が与えられていました。数々のプロ作家を輩出した、伝統と実績のある研鑽の場でした。

 『新版・小説道場3』(光風社出版 1994年)の199~205ページに、須和雪里さんの『懺悔』という小説の評があります。
 以下はその要約です。

 それまでの須和さんの投稿小説はサナトリウムの夢であり、現実を描いたものではなかった。
 が、『懺悔』によって、サナトリウムのなかで切り捨てられていた部分――現実の不条理な、ドロドロとした要素を描く可能性が出てきた。
 真実の世界を書くか、サナトリウムの夢を書くか。『懺悔』という小説は、「文学」と「ファンタジー」の境目に立っている。

 それは『小説道場』のなかでいちばん私の心に残った評でした。

 サナトリウムとは、男性同士の恋愛を成り立たせるための御都合主義が通用する世界のことです。
 予定調和のハッピーエンドを迎えるJUNE小説。これを「ボーイズラブ」と規定します。

 サナトリウムの夢――ボーイズラブ。
 読者は最初からそれがファンタジーであるとわかっていて、現実とボーイズラブが違うことも自覚しています。
 ボーイズラブの読者は予定調和のファンタジーを求めているのですから、彼らにとっては、同性愛者の苦悩や差別、現実の不条理さが必ずしも重要なわけではありません。
 恋愛の成就という娯楽的な要素がいちばん重要なのです。

 現実をベースとしたJUNE小説――これを中島氏がおっしゃる「文学」と規定します。
 文学。
 文学には、現実の同性愛者の状況が反映されます。
 同性愛者への差別・偏見や、自分の性的志向についての悩みなど。
 ときには子供のころの不幸な生い立ちや、虐待された記憶などが出てきます。
 文学ではボーイズラブでは切り捨てられた現実の闇の部分が描かれます。読者は作品を読むことによって現実の苦悩や痛みを味わいますが、恋愛が叶ったときのカタルシスはボーイズラブよりも大きい。それは真実の重みを持っているからです。

 小説の技術的な問題は、中島氏の言うところの「文学」とはすこしかけ離れた地点にあると思います。
 JUNE小説だから、ライトノベルだから技術が低くていいということはないからです。

 JUNE小説はこの「ファンタジー」と「文学」のグラデーションのなかに存在しています。

 単に恋愛物を書くならボーイズラブを書くほうが簡単ですが、人の心を動かす小説を書くには、現実をベースにした小説を書くほうが簡単です。
 中島氏が『懺悔』の評で言いたかったのはこのようなことではないかと思います。

□ファンタジーの利点と欠点

 ファンタジーをベースにすると、現実からかけ離れた激しい感情や行為が書けます。
 それは「ありえないことだから」と読者が認識して読むからです。
 そして「ありえないことだから」人を感動させる作品を書くのが難しくなります。
 最初から現実の「毒」を切り取った世界だからこそ、文学のもつ激しい「毒」と「快楽」を持ちえないのです。
 ファンタジーがもたらす「快楽」と文学がもたらす「快楽」は別の要素なのかもしれません。

 現実にありえることだから共感できる――これが文学の「快楽」であり、現実にありえないことだから共感できる――これがボーイズラブの「快楽」である。

 ボーイズラブはこの世にありえない話だから快楽になる、ということについて。
 「サウダージ」という言葉があります。ポルノグラフィティの楽曲の題名にもなりましたが、「憧憬」というような意味を持つ言葉です。
 沢木耕太郎氏の『深夜特急』四巻(新潮文庫 1994年)の対談で、今福龍太氏がサウダージの説明として挙げたのが以下の言葉です。

「何か永遠に先送りされている一つの夢に対する感情」(P204)

 永遠に叶わないものに対する憧れや懐かしさ、という意味だそうです。

 私のJUNE小説に対する感情は「サウダージ」に近いような気がします。
 私は女であるという属性から逃れることができない。
 女は女であるという時点で「自分」が男に愛されているという確証を得ることができない。
 でも自分が男であれば、男から愛されているのは男という属性ではなく、「自分」だという確証を得られるかもしれない。

 永遠に叶わないものに持つ憧れには利点があります。
 永遠に憧れていられる、という点です。

 「ひとりの人間に永遠に恋をする条件は、その恋が永遠に叶わないことだ」というパラドックスといっしょなのですが、男として男に愛されるということは、女である自分では叶えられない願いです。だからそこに至上の愛が存在するかもしれないという希望が持てる。
 現実には存在しないという諦観を同時に保ちながら。

□「娯楽」と「救い」

 JUNE小説の読者には、娯楽として読む人と、切実にJUNE小説を求めている人の二通りの人がいると思います。
 しかし、それは完全に二分されているのではなく、JUNE小説の読者は「娯楽」と「救い」のグラデーションのなかに存在しています。

 中島氏が志向していたのは「救い」が必要な人のための「文学」でしたが、読者に普及したのは「娯楽」としての「ボーイズラブ」でした。

 JUNE小説に切実な「救い」を求めている人は少数派ではないでしょうか。
 娯楽としてJUNE小説を読んでいる読者にとって、「文学」の不条理さや暗さは必要のないものです。
 娯楽として読んでいるのだから、JUNE小説のなかでまで現実の苦痛を味わいたくない。そういう人もいるでしょう。

 JUNE小説に切実な救いを求める人。
 その人たちは、ボーイズラブでは自分の心を癒すことができません。
 ボーイズラブが「男性同士の恋愛を成り立たせるための御都合主義」という嘘で成り立っていることがわかっているからです。

□「商業路線」と「非商業路線」

 中島氏が主宰していた「小説道場」は、プロ作家を育てる場ではありませんでした。
 中島氏の指導と時代の流れから結果的にプロを多く輩出しましたが、「小説道場」は、プロ作家の育成を目的としたものではありませんでした。
 中島氏が指摘するように、JUNE小説は現実にほとんどありえない恋愛を描くために非常に構成力や技量、何よりも書き手のパワーを必要とする小説です。
 だから「文学」のJUNE小説を書くと、小説の量産が不可能になります。現実をベースにJUNE小説を書くこと、読者にカタルシスを感じさせるように書くことは、本来非常に難しい行為だと思います。
 JUNE小説の作家は「男性同士の恋愛が成り立つための御都合主義」の磁場、サナトリウムを発生させ、JUNE小説を書くハードルを低くしました。
 それによって、量産可能なファンタジー小説が書けるようになった。
 結果、現在は「救い」としてのJUNE小説を書くことが難しくなっているような気がします。

 私がずっと『懺悔』の評のなかで気になっていたのは、以下の疑問でした。

 自分がJUNE小説を読んでいるなかで、ボーイズラブでも現実と同じ苦悩や痛み、カタルシスを感じる小説があり、現実をベースとした小説のなかでも共感できない小説があります。
 「ファンタジー」でありながら、「文学」と同じ痛みと救いを感じる小説。
 それは「文学」とどこが違うのか。
 それのいったい何が人の心を動かすのか。
 それが私の長年の疑問なのですが、答えはいまだにわかりません。
 優れたファンタジーには、虚構を現実に変える力があるのかもしれません。

 「文学」であれ「ファンタジー」であれ、人を感動させる小説を書くためには、作者がその小説に真摯であることが必要だと思います。
 「男と男が恋をする」ファンタジーの世界でも、人の心を動かすのはそのなかにある真実の「何か」だからです。

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