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2021 『蜜の厨房』さんのこと3 アナーキズム

■2021.02 『蜜の厨房』さんのこと3 アナーキズム

 こんにちは。白です。『蜜の厨房』さんのやおい論、第三回です。
 今回も序論の解説をしたいと思います。こちらの文章です。

だからこそ少女たちはやおいという、不自然で残酷で強烈な愛のモチーフに群がるのです。群がって、貪ってもなお、この愛という共同幻想から抜け出すことができずにいるのです。
わたしが愛したころのやおいは、まさにこの共同幻想を打ち破るための手段、武器であったのに、いまやその武器さえもが社会の築いた幻によって蝕まれてきている。
この武器を失ってしまうことが、わたしは、ほんとうにほんとうにほんとうに、恐ろしいのです。

 この「わたしが愛したころのやおいは、まさにこの共同幻想を打ち破るための手段、武器であった」ということが、BLから入った方には理解しにくいと思います。
 そして、「いまやその武器さえもが社会の築いた幻によって蝕まれてきている」という話を、私は以前「残酷な楽園」という雑文で検証しました。こちらも蜜さんの文章を受けて書かれたものなので、興味がある方はご覧ください。

 1970年代に竹宮恵子氏が『風と木の詩』、1980年代に栗本薫氏が『真夜中の天使』を上梓したころ、世間は「女性による女性のための性表現」に今よりも狭量でした。『風と木の詩』は何度も連載を中断しなくてはならず、『真夜中の天使』は、文藝春秋に勤めていた親戚から「こんな変なものだが出してやる」と言われたとのことです。
 それでも竹宮氏や栗本氏、他の耽美の作家たちが道を切り拓いてきたからこそ、今の状態があります。
 そのころのやおいは「耽美」あるいは「少年愛」と呼ばれていました。「やおい」が出てくる以前のお話です。

 「耽美」の作家たちが「女性による女性のための性表現」を言挙げしたこと、それ自体が、社会へ対抗するアナーキズムとなり得た時代があったのです。
 そしてそれを熱狂的に受け入れた少女たちがいたのです。
 1980年代、アニメのパロディー同人誌の世界から「やおい」が誕生し、1990年代に「やおい」が商業誌に拡散して「ボーイズラブ(BL)」へ繋がっていきます。

 やおいが拡散していく過程で、やおいは以前の強い伝播力と毒性を失い、世間に受け入れやすいマイルドなものに変質していきます。
 中島梓氏の『タナトスの子供たち――過剰適応の生態学』のあとがきに、天狼パティオ(パソコン通信の時代に栗本氏が主宰していたコミュニティ)で行われた議論のKさんの発言を掲載しています。

社会というものは目障りな現象を拡散させ、受入れてうすめてゆくことで免疫を作るのではないか(P353)

 Kさんの発言は、非常に薄めたウイルスで免疫をつくることで、毒性の強いウイルスを排除する、この免疫が「現在のやおい」――「BL」ではないか、というものです。

以下は私の雑文『残酷な楽園』からの引用です。

 「現在のやおい」は社会に認知されない状態でマーケティングに取り込まれ、小説や漫画・ドラマなどの消費を亢進させる装置のひとつになっています。踊らされている人間が言うことではないですが。
 そして「現在のやおい」にはもうひとつの利点があります。
 やおいは男権社会に意識的・無意識的に不満のある読者を癒す鎮静剤になりますが、同時に不満を癒してしまうことで男権社会を存続させる緩衝材にもなります。
 男権社会への不満を癒してしまうことで、現実への不満を失わせる。男権社会を存続させる道具になるのです。
 依存症であるやおいは読者を癒しますが、決して根底から読者を癒すことはありません。読者の不満が癒されても、社会が変わることはないからです。根底から癒されない読者はふたたびやおいを手に取ります。
 こうして「強い毒性」社会への不満をもっていたやおいの読者は、「薄いウイルス」やおいによって毒性を薄められ、社会に取り込まれていきます。あらたな消費の担い手として。

 私がこの雑文を書いたのは二十年前なので、「現在のやおい」――「BL」はずいぶん社会に認知されたと思います。

 社会を変える契機であった「耽美」が、社会に適応するための「BL」になった過程を見てきました。
 そして蜜さんが「この武器を失ってしまうことが、わたしは、ほんとうにほんとうにほんとうに、恐ろしいのです」と言われていたことを実感できたでしょうか。
 自分で書いていて「耽美」のアナーキズムの説明が足りないような気もするので、また説明を付け足すことがあるかもしれません。
 今回はここまでです。お付き合いありがとうございます。

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