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1999 楽器の体温

■1999.09 楽器の体温

 作中に出てくる「やおい」とは、ボーイズラブの以前の呼び名です。
 一次創作と二次創作を含む用語として使われていました。

 松浦理英子先生の『葬儀の日』は、葬式のときに泣き女を演じる『泣き屋』の私と、笑う女を演じる『笑い屋』の少女の話です。
 松浦氏が二十才で文學界新人賞を受賞した、実験小説のような趣のあるお話です。

 『泣き屋』の私が行く葬式にはいつも一緒になる『笑い屋』の少女がいます。私と少女は互いにヒステリックなまでにのめり込みますが、『泣き屋』の仲間たちはふたりを引き離そうとします。
 ある日、葬式に『笑い屋』の少女が来なかった場面から話は始まります。『泣き屋』の老婆は私に「あんたも運が悪い」と言います。
「こんなに早く来ちまうなんてねえ」
 老婆は私をいたぶることを愉しんでいます。

 アコーディオンを手にした老婆は、『泣き屋』は運命的に自分の片割れに出会いやすいといいます。『泣き屋』の片割れは『笑い屋』に生まれつくことが多いからです。
 が、ほかの仲間は彼女たちほど自分の片割れに溺れようとはしません。他人と結合していた状態が「粗末で幼稚でくだらない時代」であることを熟知していて、それでも「その時代による影響を否定できない」からです。
 アコーディオンの達人の老婆を、私は嘲笑します。

 私なら楽器などに自分を投入したりしない。それを後生大事に管理したりしない。そんなまわりくどい方法は採らない。年寄り連中は皆何かの楽器の達人だ。御苦労なこと。私は何一つ弾けない。楽器に与える体温はなかった。(葬儀の日 P18)

 老婆は『書くこと』によって自己増殖する男のようなものかもしれません。
 彼女たちは代用物で埋めようとしませんでした。だから他の仲間たちに嫉妬され、嘲弄されることになります。

 『泣き屋』の私と『笑い屋』の少女がいっしょにインタビューを受けるシーンがあります。
 以下の文章は、二人が知り合いかと聞かれたときのどちらかの答えです。

 一本の川の右岸と左岸を想像してみて下さい。そうした関係です。
(中略)
 川の右岸と左岸は水によって隔てられている。同時に水を共有し水を媒介として繋がっている。あるいは水によって統合されている。また別の観点から言えば、川の一部、川に属するという意味で、二つの岸は同じものではないにしても全く異なるものでもない。
 いずれにせよ、二つの岸は川の両端にあります。で、ある日突然、お互いに対岸の存在に気づいたとします。いったいどうするべきでしょう? 走って逃げ出すことは不可能です。無視を決め込んでそのまま何食わぬ様子で在り続けることはできます。もう一つ手があります。自らの体である土を少しずつ切り取り崩して行って、水の中に侵入し、対岸に達しようと試みることです。とても時間がかかるし、洪水などによる自然変動に妨げられることもあるでしょう。それでもいつか水を呑み尽くすことになるかも知れません。
「二つの岸はお互いを欲しているのか。」
 だって両岸がないと川にならないじゃありませんか。そして、そのことから、ある問題が生じます。二つの岸がついに手を取り合った時、川は潰れてしまってもはや川ではない。岸はもう岸ではない。二つの岸であった物は自分がいったい何者なのかわからなくなってしまう。それで苛々するんです、進むべきか渋滞し続けるべきか。いずれにせよ甲斐のないことではないのか、とも。
「川とは何です?」
 私たちもそれを知りたいのです。(葬儀の日 P30-31)

 私は、この話に出典があるか長いあいだ疑問に思っていたのですが、本屋で文庫を眺めていたときに偶然それらしき本を見つけました。
 『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)の背面の紹介に、「川の両岸がたんに離れているだけではなく、『分離されている』と感じるのは私たちに特有のことだ」と書いてあったのです。
 ジンメルは19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの哲学者です。
 下記は『橋と扉』の結びの文章です。

 人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在であり、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ。だからこそ私たちは、二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を、精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで、それをふたたび橋で結ぼうとする。(橋と扉 P100)

 たいていの人は橋をかけた状態で満足するのでしょう。それが老婆のアコーディオンだったり、男が書く文章であったりします。
 が、ときどき彼女たちのように、代用品では済まない相手が見つかることがあるのかもしれません。鍵穴と鍵が合うように。それが互いの思い込みにすぎないとしても。
 それがありえないことだから、私はそれに惹かれるのかもしれません。

 彼女たちの関係は、純粋であるがゆえに非常に危険です。相手の境界線を認められないせいで、相手を無尽蔵に破壊しつくす。川が岸を崩すように。
 「粗末で幼稚でくだらない時代」――他人と結合していた状態への郷愁を胸に残して、私はいまだにやおいを手にしています。

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