2021 Great Escape1

Great Escape

 手の隙間から世界を見る。指の股が光に透けて、自分の血が流れているのが見える。赤い世界だ。光を放つ赤。
 興梠豊(こうろぎゆたか)はひとりでミアと戦っている。ミアは世界征服をたくらんでいる悪者で、豊の頭の中身を吸い取ろうとしている怪物だ。ミアは豊を病院のベッドに縛りつけ、豊に針を挿して養分を取っている。ミアの手下が毎日豊を見張り、透明な血を身体に入れては赤い血を奪っていく。豊は黙って手下に身体を弄らせている。豊の頭のなかの王国の人々を守るためだ。
 豊の王国――誰も名前を呼ばないので、王国に名前はない――には多くの人々が住んでいる。人々は豊のなかでいろいろな話をする。豊は黙ってその話を聞いている。
 夜が来て、朝が来る。手足は痩せ衰えたが、豊はミアから逃げる手立てを考えておかなければと思う。メトロノームのように規則正しく心電図モニターの音が聞こえる。大丈夫、自分は心まではミアに支配されていない。
 ミアは人の脳を食らう。脳をミディアムレアのステーキにして、記憶を抜いて食らう。ミアは全人類の脳に介入して、人類を支配下に置きたいのだ。
 だから豊は自分の身体に閉じこもっている。自分と王国の人々の記憶をミアに奪われないよう、頭のなかに防壁を作っている。ミアに支配された世界のなかで、自分の精神だけは自由だ。
 自分の前に静(しずか)が現れたとき、豊は静をミアの手下だと思った。が、静は豊の防壁を破って豊の頭に直接話しかけてくる。
「こんにちは、豊さん。かわいい人が隣になって、びっくりしました」
 豊は静の整った笑顔に腹を立てた。豊は女の子のようにかわいいと子供のころから言われ続け、自分の性格とは正反対の容姿に生まれついたと思っていた。
「あんた、誰だ」
「僕は霜月(しもつき)静といいます。月の海の兄弟です」
「月の海?」
「君は豊かの海、僕は静かの海。月に囚われて眠る兄弟のひとりです」
 静は造作のすべてが淡かった。色が白く、すっきりとした一重の目で、鼻も唇もすらりとしていた。静は十九歳で、大学に通っているという。豊よりもふたつ年上だった。
「僕は眠り病なんだ。眠る時期になると何ヶ月も眠りつづける」
 静はそのせいでここにやってきたと告げた。
「ずっと眠り続けて死なないの?」
「食事やトイレのときは起きてるんだ。でもぼうっとして、いつも霧のなかにいるみたいだ」
 静は仄かな笑みを浮かべた。
「豊といっしょにいるほうが記憶が鮮やかだよ」
 豊は初対面の自分を呼び捨てにするのかと思ったが、気分は悪くなかったのでそのままにした。
「月の裏側には、意識を奪われた人間たちが集まっているんだ。月の表側に出て来られない人々が」
 月の裏側には宇宙人の秘密基地がある。宇宙人は地球の歴史に介入して裏側から人類を操っている。ミアもそのひとりだ。だから月は地球に裏側を見せない。
 静がミアの存在を知っているかわからなかったので、豊は静の言葉を黙って聞いていた。
「僕らは月の裏側から逃げ出さなきゃならない」
 静は「僕ら」という言葉を強調した。豊は静の真意を測りかねて沈黙していた。

 静がふたたび語りかけてきたとき、豊は王国の人々の話を聞いていた。
 人々はさまざまな悩みを持っていて、常に打ち明ける相手を探しているのだった。
「豊はいつも忙しそうだね」
 静は月の裏側から脱出する手がかりを探しているという。が、月の裏側を観測するのは難しく、情報が少ないので、静もどうしていいかわからないという。
「月の裏側は、表側と比べて海が少ないんだよ。どうして月の表側にばかりクレーターがあるんだろう」
 静が口に拳を当てて首を傾げる。
「宇宙戦争の名残じゃないか」
「地球と月が争っていた時期があるの?」
「人類は何万年も生きていないんだから、そういう時期があってもおかしくない」
 この世にはミアも宇宙人もいるのだから、地球に今よりも高度な文明があったとしてもふしぎではない。が、豊はその話を静にしてもいいか迷っていた。静はミアの手下かもしれないのだ。
「君は月の裏側から出たくないのかい?」
 豊は王国の扉を閉じた。豊にも人と心を通わせたいという願望はある。が、自分は王国の人々をミアから守らなければならないのだ。
 ミアの手下と違って、静は豊の頭のなかに直接語りかけてくる。だからいっそう静を用心しなければならない。豊は自分の周りに防壁を張り巡らせながらそう考える。

現在サポートは受け付けておりませんが、プロフィール欄のリンクから小説や雑文の同人誌(KDP)がお買い求めいただけます。よろしくお願いいたします。