2024 愛のもうひとつの名前1

愛のもうひとつの名前 千住白

1

 三十年ぶりに新作を出した映画監督の作品を観に行った。
 宇宙人が観ても感動する映画を。
 百年後の人が読んでも心を動かされる小説を。

 私はあなたのためにこの小説を書いた。

 映画を観るという行為は、自分の目を他人に貸すということ、記憶の領域を明け渡すことだ。
 他人の意識を自分のなかに入れる。
 自分の内側に入ってくるものを吟味して受け取りなさい。
 それはあなた自身を形づくるから。
 あなたが受け取りたくないものは、断固として拒否しなさい。

 疫病と言われるものが世界を一変させてから、人とは異なるレイヤーの上で暮らしている。
 私が愛する人の前にいくつもの見えない段差がある。
 ひとりひとりが異なるレイヤーに立ち、ひとつの形状をまったく異なる地点から眺めている。
 あなたは私と違う段差に立っていることを理解していない。

 もしかしたら、私が生まれるはるか前から段差はあって、私たちはそれがないものとして生きていたのかもしれない。
 私たちは同じ場所で過ごしていたけれど、違うコンテンツ、違う画面、違う時の経過のなかにいたのかもしれない。
 同じレイヤーを共有して生きている。家族である、仲間であるとはそういうことだった。
 私たちは自分の狭い足場を守るのに精一杯で、その違いに目を配り、己を殺しながら生きてきた。
 足をたわめ、頬骨を削り、肩甲骨をすぼめて。
 心を纏足して生きていた。
 私は自分の心を殺すのがとてもじょうずだ。
 それが大人になることだと刷り込まれていた。

 時間のなかで螺旋を描く。
 毎日の通勤は同じ線を辿るが、思い出したように帰りたくなる場所がある。
 私は自分の感情を土に埋めた。じめじめした、苔の匂いのする、団地の隅の貯水池の土に。
 幼稚園児のころ、私はこっそり母の箪笥から持ち出した貝のネックレスを埋めた。白く発光する、虹色の艶やかな、貝の欠片だった。きっと白くきれいな化石になるだろう。母の許可は得なかった。私は母に話すことを諦めた子供だった。
 上級生にいじめられたときも、スクールバスに酔いながらも幼稚園に通い続けたときも、弁当箱をぶちまけられて腹をすかせたまま家に帰ったときも、私は母に話さなかった。話すようなことだと考えつかなかった。
 私は自分の心を感じない練習を始めていた。
 幼鳥が空を飛ぶ練習をするように、私は教えられもせずに心を殺す訓練をしていた。問題をひとりで解決するすべを身につけていた。

 雑巾がけを押しつけられた金曜日、幼稚園児たちは私に教室の木の床を拭かせていた。
 彼らは大人の目があれば雑巾を取って屈み、先生が去ればまた教室の隅に固まって笑い続けていた。
 水槽のなかでもっとも弱い魚を皆で殺す。生け贄に落ちないよう、彼らは自分を守るために団結して私を殺さなければならないのだった。
 生け贄に選ばれた子供は、屈辱を感じながら教室をひとりで拭き上げた。
 この世界では、幼稚園のころから子供は英才教育を受ける。
 自分の身を守るために、集団のなかで一番弱い者を探して血祭りにあげなければならない。
 そして殺された子供は、彼らを憎むことによって自分の心を呪うすべを身につけるのだ。

 私でないもののなかに私を見つける。
 あなたと分かれて生まれた意味は、あなたのなかに私を見つけたいから。
 あなたという私のなかにあなたを見つけたいからだ。

 私は国にも、家族にも友人にも、あなたにも依存してはならない。
 この国が私を守らないことはわかっている。
 だから私は何ものにも依存してはならないのだ。
 ひとりで生きていくためには方法と手段と、私の意志がいる。
 生きていくために行動する。生きるために生きる、この世界の円環に戻る。

 私たちはいながらにしてすべてを知る、行動しない神様だ。とても小さな箱に心をあやされて、自分から檻に入った。
 そうして私たちは手を、足を失い、いずれ風を頬に感じることもなくなるだろう。
 私は裸足で大地に立ち、額を土につける。湿った、埃くさい土の匂いを吸い込む。
 私は私に戻る。土から生まれたものとともに時を過ごして土に還る。

 私を怒る人は、私が無視をするとさらに踏みつけに来る。
 私が不用意に彼らに怒りを向けてしまったので、それが異なる形で私に返ってきてしまったのだ。
 自分の発したものが形を変えて私に戻ってくる。
 私が人をないがしろにすると、違う人から自分がないがしろにされる。

 私を苛める人には因果応報は起こらず、私が彼らを憎むと自分にその憎しみが返る。
 彼らは私を苛めるという役割を果たすだけのモブキャラであり、大切なのは、私が彼らにどう反応するかだ。
 この世界に私しかいないのであれば、モブに苛められた私の憎しみは、モブをすり抜けて私に返ってくる。
 仕掛けを作った人はそれを知っていて、私に私を呪わせようとする。

 この国が私たちを守ろうとしたことは一度もない。
 戦争は彼らにとって仕事であり、ショーでもあった。殺人ショー。どれだけ効率的に、どのように楽しく人を殺すかのショーケースだった。
 ショーは毎日小さい箱のなかで私たちの脳裏に刷り込まれ、それが私たちの正義であり日常だと心に叩き込まれていく。
 私たちは教育によって目隠しをされ、奴隷であると気づくこともなく、小さな箱に日々あやされながら狭い小屋で飼われている。
 戦争をしたいのであれば、戦争を言い出した人だけが戦地へ向かい、殺し合えばいい。
 彼らは興行主であり、人殺しを見物して楽しんでいる。
 兵士はいつも私たちだ。前から後ろから飛んでくる銃弾に怯えながら。
 銃弾は幻であるけれど、それが実弾と思っている私たちは、自分で幻の銃弾に当たって自分の身体を殺してしまう。
 呪いは、「お前を呪っているぞ」と相手に伝えないと呪いとして機能しないのだ。

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