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2002 overwork, overdose

■2002.08 overwork, overdose

 ここでは中島梓氏の『タナトスの子供たち』のダイエットについての文章を取り上げます。

さきほど読んでいた本のなかで、「西側先進国で遣われるダイエット用品の毎年の売上は、世界の飢餓を救うのに必要な金額を超えている(中略)……こんな状況下では、真の問題は、なぜある少女が拒食症になるかではなく、なぜもっと多くの少女がならないのか、だといわざるをえない」という文章がありました(筑摩書房刊『世界を食いつくす』ジェレミー・マクランシー著・菅啓次郎訳)。これがどれほど狂気じみたことか、私がここでいってもたぶんあなたはかたむける耳ももたないでしょう。(『タナトスの子供たち』 P255)

 私は『残酷な楽園』でこの後の文章に文句をつけているのですが、この文章自体は正しいと思います。
 この「狂気」の裏にあるものを考えてみたいと思います。やおいとは関係なさそうな下手な文明論なのですが、どこかでなにかがリンクするかもしれないので、この雑文はJUNE関係に置いておきます。いつリンクするかは自分でもわかりません……

□「あなたはありのままのあなたであってはならない。」

 「ありのままのあなたを愛する」という言葉がひとつのテーゼとなる背景には、「ありのままのあなたを愛さない」という社会の無言の圧力がある。
 それはある意味では当然のことである。「ありのままのあなた」を無条件に肯定されたいという願望は、社会にとっては個人の甘えにすぎない。

 あなたはありのままのあなたであってはならない。
 あなたは常に若く美しく賢く裕福で幸せになるよう努力しなければならない。
 あなたは自分に満足してはならず、さらなる成長のために努力しなければならない。
 そしてその努力した結果に永遠に満足してはならない。

 あなたを評価するのはあなた自身の基準ではなく、外部の基準、他人の基準でなければならない。
 あなたは常に他人との競争に晒されている。あなたは常に他人よりも優れていなければならず、その優劣は、スタイルや学歴、仕事など、他人が容易に比較できるものでなければならない。

 でもそれが「他人からの評価」である以上、あなたはほんとうにそれが「自分の価値」であるかどうかを理解することができない。
 その「価値」の基準は自分で決めたものではないからだ。
 あなたは「自分の価値」を自分で決めることを社会に阻害される。もしあなたが「自分はこれでいい」と満足しても、社会の内なる要求が、あなたをさらに成長へと促すだろう。

 そしてその成長は永遠に「成熟」することはないのだ。

 「成熟」することは、「自分はこれでいいのだ」という安心感を得ることである。
 が、競争社会、消費社会のなかでは、「成熟」することは「成長」が止まること、すなわち競争社会のトレッドミルから外れ、社会の発展を阻害することを意味する。
 だから社会はさまざまなメッセージを送る。

 あなたはありのままのあなたであってはならない。
 永遠に成長し、進歩しつづけるために、あなたはさまざまなものを消費しなければならない。

 あなたはあなたの存在を自分で完全に肯定することができない社会で生きている。
 あなたの存在や価値を認めるためには、他人の承認や賞賛が必要である。
 そしてその賞賛を受け続けるために、あなたは努力しつづけなければならない。
 永遠に満たされることのない努力を続けなければならない。

 永遠に成長するためのoverworkは「成熟」に至ることはない。その結果、人々は常に自分を肯定する要素を外部から摂取しなければならない。

 この学校を出れば。
 この仕事に就けば。
 この人と結婚すれば。
 このバッグが手に入れば。

 しかしその要素がひとつ満たされたとしても、人々はさらに上を目指さなければならない。
 競争社会、消費社会のトップを目指すこと。
 永遠に回り続ける踏車に乗り、さらなる成長を目指すこと。

 本来overworkを解消する方法は「仕事を休む」ことであるはずだ。
 が、それは競争社会、消費社会の原則からは外れた行為となる。
 overworkを解消するためには、overworkを緩和させる「癒し」を「商品」として消費しなければならない。

 都会で暮らしてきた人のために田舎暮らしを。
 食べ過ぎた人のためにダイエット商品を。
 overworkによって疲れた身体にoverdoseを。

 overdoseとは(主に薬の)過剰摂取のことである。
 栄養ドリンクやサプリメント、健康食品。「24時間戦えますか」。バブルが崩壊したことで本来は「24時間戦う」必要はなくなったはずだが、現在はリストラのせいでギリギリの人数で仕事をしなければならないために「24時間戦って」いるのではないだろうか。

 永遠に満たされない自分のために、過剰に外部に働きかけ、外部に依存し、外部を消費しつづけること。
 個人的な問題としてこれを解決するのは簡単である。自分を肯定すればいい。それだけのことだ。
 が、この問題は個人的なレベルでは終わらない。

 競争社会、消費社会において働くこのような論理は、人々を「持つ者」と「持たざる者」に二極化する。

 家父長制のなかで女性であることは、階層構造の弱者であることを運命づけられていることである。
 先進国では階層の差異は少ない。が、貧しい国では、家父長制のなかで女性であること(子どもであること、弱者であること)は死活問題になりうる。東南アジアや南米での買売春や臓器売買、子どもの苛酷な労働。私たちがそれに晒されなかったのは、自分たちがたまたま先進国に生まれたからにすぎない。

 たまたま先進国に生まれた私たちは、潤沢な食料とダイエット商品を消費する。
 ダイエットで栄養が足りなくなればサプリメント。健康を害したら健康食品。「粗食のすすめ」。

「西側先進国で遣われるダイエット用品の毎年の売上は、世界の飢餓を救うのに必要な金額を超えている」

 発展途上国の飢餓は、先進国の援助によって防ぐことができる災害である。世界的な規模で考えれば人災ともいえる。

「こんな状況下では、真の問題は、なぜある少女が拒食症になるかではなく、なぜもっと多くの少女がならないのか、だといわざるをえない」

 私が買う安いバッグや服や食料は、発展途上国の苛酷な労働のうえに成り立っている。世界的規模の奴隷制が生じていても、その階層構造が見えない世界に、私たちはいる。自分が踏みつけているものが何であるかもわからずに、「成熟」のない「成長」のクエストをくりかえしている。
 そのようなゲームのなかで、ゲームの勝者を目指すか、現状に満足するか、ゲームから降りるか、ゲームのルールを変更するか。ゲームそのものを否定するという選択肢もある。でもそれはそれで難しいんだよね……
 そのゲームの先にあるものは「物質社会」の崩壊なのだろう。が、その後の世界がどうなるかはわからないままだ。


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