マガジンのカバー画像

日々考えることのはなし

488
毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
運営しているクリエイター

#放置竹林整備

顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

この一か月、若きも老いも夢を持ち

日曜日、合気道の所属会派の高段位昇段者(五、六、七段)の年に一度の免状授与式と披露演武、そのあと場所を変えて難波のホテルで総会と新年会があった。 毎年お決まりの出来るものなら出たくない面倒くさい集まりである。 しかしながら、この小さな合気道の世界の中でも社会で生きる私たちの義務と義理と同様でそんな気持ちはおくびにも出さないで普段の私を演じなければならないのである。 総会・新年会の会場に移動する途中、大学を卒業してまだ間もない若い社会人と話しをした。彼の合気道にかける夢とまだ汗

日記のような、びぼーろくのような(2024.1.17 冬のある日に思う私の目標)

冬枯れの京都西山大原野、夜勤明けの朝にNPO法人京都発・竹・流域環境ネットへ向かった。 社会問題ともなっている放置竹林整備を目的に運営しているNPOである。手伝いに通いだしてもう10年にもなるであろうか。実は私はここで竹の1本も切ったことがない。私の一番の目的はここの理事長への恩返しなのである。 理事長は私が20年ほど前までやっていたゼネコン営業マン時代に京都府下で限りなく世話になった方である。当時理事長は役所勤めの公人であり、民間の営業マンである私などと付き合いをしてはな

日記のような、びぼーろくのような(2023.08.24三竹士の戦いは始まる)

見上げれば空は青かった。 久しぶりに若じぃはぼんやりと白く霞むことのない青空を見上げていた。 その時すでに三竹士の若じぃの迷いは吹っ切れていたのである。 「空へ若竹のなやみなし」 若じぃはGoku住職から贈られた山頭火の句を目にし、吹っ切れていたのである。 ここ数年来続く飢饉のため大原野の村人たちはすでに働く気力を失いこのままでは将来のある子ども達までもが巻き込まれてしまう。 若じぃは無策な日和見主義者の集まりの政府に一策を投じるために江戸に向かったのであった。 途中、

日記のような、びぼーろくのような(2023.07.25 真夏の京都大原野から大阪なんばへ)

久しぶりに京都大原野の放置竹林整備のNPO法人京都発・竹・流域環境ネットの事務所まで出かけた。 夏の京都は熱い、京都の西の端の大原野は盆地の地形であるすり鉢の腰にあたる辺りに位置するが、この時期の京都はどこに行っても異常な暑さである。「ドワン」とした蒸れた暑さが京都のすり鉢の中にたまっていた。 朝から国道9号の温度計は32度を表示していた。それを横目で眺めながらひたすら電動アシスト付き自転車のペダルを踏んだ。 途中の樹々の様相も変わっていた。 なんだかいつも無機質を感じる昔の

日記のような、びぼーろくのような(2023.06.06 出稼ぎ先から見た東京タワーへの思い)

東京タワーはデカかった。 もう半世紀も前になる。愛知県豊橋市の小学生だった私は都内観光のバスに揺られ酔っていた。 もちろんまだ小学生、さすがに私でもその頃酒は飲んでいなかった。極端に乗り物に弱く、特にバスには弱かった。 「着きましたよ。」と言うバスガイドさんの声が待ち遠しかった。バスの乗降口から飛び降り、東京の空気を思い切り吸い込むと目の前に東京タワーがあった。 実はその時の記憶はそれだけなのである。 生まれて初めての東京タワー、それまで見た建物の中で一番大きかったに違い

日記のような、びぼーろくのような(2023.05.17 京都大原野の初夏の香り)

京都の端っこの西京区大原野の春はたけなわをすでに通り越していた。 阪急洛西口駅から電動アシスト付き自転車で走る道はほんのひと月前の季節とは様相を変え緑の濃さは増し陽射しの力強さも増していた。 途中、ところどころで田植えの準備を始めていた。トラクターの邁進する田から掘り起こされる虫たちを目当てにサギとカラスが離れない。そんな姿をスマホに収める私をカラスは「あんた何してんの」とでも言いたげにジッと見ている。 この農作業に当たるオッチャンは何を合図に田植えの準備を始めるのであろう

南信で考えたこと(竹の旅の記録)

宮島のこの理事長との付き合いは長い。足掛けで25年の月日が過ぎる。 まだゼネコンにいた時、入社後二度目の京都赴任を営業職の立場で命じられた。赴任初日からいきなり四条河原町のマンション建設の地元対応の責任者を仰せつかり発注者であるデべとともに地元自治会長らへの挨拶に回って夕方営業所に戻った。事務所は高島屋の並びの南に少し下がった河原町沿いにあった。8階の事務所に入るとそこから見える東山の山並みは夕陽で赤く染まっていた。そんなデカい一面のガラス窓の前に所長の机はあり、社内だけで使

日記のような、びぼーろくのような(2023.4.06 竹の旅・付録編 遠い記憶の彼方の父の実家)

NPO法人京都発・竹・環境流域ネット(通称:竹ネット)の仕事で長野県伊那市まで来ています。こちらの本題はまとめて日曜日に記事としたいと思います。 伊那市は父の実家長野県の寒村に遠くない場所です。中央道を走り途中その実家近くを横目でながめながら通過しました。父はずっと実家を愛していたようです。三男坊の父は中学を卒業して飯田市内の電機機器の修理店で働いて名古屋に移り、その後、高度成長の猛々しいなかゼネコンに就職して電気技術者として職務を全うしました。日本国内のみならず東南アジア

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.29 京都大原野のタケノコの声を聞いた日)

昨日もまた朝仕事を終えて京都西山にある放置竹林整備のNPO事務所まで行った。春はあけぼのとは言うけれどもこの春はどの部分を切り取ってもいいものである。広い青空は春の空気に満ちていた。西山に貼り付く山桜はまるでパッチワークの一部ように私の目には映る。常緑の深緑と新緑の黄緑、白っぽい山桜のパッチワークである。 事務所に着くといたのは理事長と近くの造園屋さんの80歳過ぎの会長が世間話をしていた。タケノコの出始めたこの時期、誰も事務所にはいない。鳴き方を覚えたウグイスは誰かにその声

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.22 京都大原野でWBCを観戦した日)

京都大原野にも春爛漫の日がやって来ていた。昨日、仕事を終え放置竹林整備のNPO法人事務所「京都・竹・環境流域ネット」まで行った。最寄り駅の阪急洛西口駅からレンタサイクルに乗るが京都西山に向かう空気にはもう冬の居残りを感じることは無かった。枯れていた草木や畑には新しい緑と赤・黄・白とやって来た春を喜ぶ素直な息吹があふれている。桜の蕾も弾けんばかりに膨らみ、チラホラと我先にと開きかける悪戯坊主もいる。もう誰も止めることの出来ない春が堰を切っていた。 事務所に着くといつもと様相が

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.08 京都大原野の春のおとずれ)

毎週のルーチンである。 朝、仕事を終えて京都大原野にある放置竹林整備のNPO事務所に向かう。 ほんの二週間前に手袋をして、ジャンパーのチャックを顎まで上げて自転車を走らせたのが嘘のようであった。 京都西山、大原野の里にも遠慮がちではあるが春は足を運んでいた。 途中洛西ニュータウンを抜けるが、街の歴史とともに歩んで来た年老いた街路の桜の芽はあと一押し、背を押してくれる誰かの登場を待ちわびているようであった。 そんな中にいつも気になる一棟がある。 昭和40年代に住んだ豊川の社宅

日記のような、びぼーろくのような(2023.3.01 京都駅八条口でのおもいで)

仕事が終わり、朝JRで京都駅に向かった。 名古屋の製薬会社が竹材の契約にやって来るから出てこれないかと仕事中の昨日の晩に理事長から連絡が来た。 「よろしく頼む!」いつもこんな感じである。 京都駅を八条口から出て陽に当たるともう違う季節を感じた。ジャンバーを脱ぎ何年振りだろうか都ホテルのロビーに向かった。 まだ駅上のグランビアホテルの無い頃によく人と待ち合わせ、打合せに使った。なんだか活気の無いロビーで久しぶりに一人ボ~ッとしながらホテルを出入りする人間の観察をしていた。10

日記のような、びぼーろくのような(2023.2.22 早春の京都大原野)

2月22日、今年の『猫の日』は例年と違う感慨を持って京都大原野に向かった。 今季最後の寒波となるのであろうか、昨日舞い降りた早春の雪はまだ山肌に張り付いていた。 通称『竹ネット』、NPO法人 京都発・竹・流域環境ネット の主要メンバーが集まって来年度の新事業の打合せがあった。 行政の発注の放置竹林整備が続く。行政のさまざまな事業において竹林が障害となっている。それを伐開して産業廃棄物としての処分は時代遅れになっている。可能な限り共存しなければならない。そして、一度整備した竹