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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2023年6月の記事一覧

母を訪ねて三千里(その3)別れの日

1945年、第二次世界大戦は終わった。 同時に台湾の日本統治も終わったのである。 黄絢絢は松山空港にほど近い4階建ての住宅に家族とともに生活していた。 小さな島国の台湾の、首都台北には人口が密集している。庭付きの戸建て住宅など一般家庭にはあり得なく、狭い土地の容積率を活かした縦に伸びる住宅が当たり前だった。 黄家は両親と姉、弟二人の家族構成だった。 語学に堪能なお父様は大戦中、日本軍の通訳として東南アジア各地を転々としていたそうである。 そして、終戦後すぐには帰って来なかった

母を訪ねて三千里(その2)

ホテルを出ると街はもう熱気に包まれていた。 すでに気温は30度ある。全家便利商店(ファミマ)でお茶を買ってカバンに詰め込み台北駅に向かった。 淡水行きの地下鉄に乗り込む前に両替である。両替は郵便局がいい。何がいいかというと安心だし、手数料を取られないのである。ただ、当たりが悪かっただけなのかも知れないが係の女の子はゆっくりゆっくり行動する。急いでないからいいようなものの、「大丈夫ですか?」と心配になるほどの日本とは違うスローな換金業務であった。この台湾元もカバンに突っ込みまた

母を訪ねて三千里(その1)

目が覚めると昔見た台湾の海が眼下に広がっていた。オレンジ色のタンカーが少し離れて同じ方向に向かう姿が異様だった。 以前台湾にやって来たのはもう10年も前になる。その時にも淡水の老人ホームにまで行き黄絢絢に会った。 絢絢とはかれこれ50年以上の付き合いになる。台北の大学病院で看護師をしていた絢絢は台湾に初めて導入する透析の研修のために日本まで派遣されてきていた。その研修先の病院に母がいた。大勢の研修生がやって来た。母は分け隔てすることなくどの研修生も同じように面倒をみていた。里

私の好きな世界、でも嫌いな世界

時々こちらでも登場しているメダカの世界、毎回しばらくこの三槽に目を落としから合気道の稽古に向かっている。 合気道の道場にお借りしているスタジオの一階にある石材店のメダカ達の家である。一番左端の水槽には生まれたばかりの稚魚、真ん中の水槽にはもう少し育ったヤツら、そして右側の大きな水槽に成長したメダカ達が泳いでいる。ここの石材店の優しそうな親父さんが共食いしないように分けているのだ。彼ら、彼女らの姿に心癒されていつも稽古に向かっている。 でもどうしてメダカ達は共食いをするので

日記のような、びぼーろくのような(2023.06.06 出稼ぎ先から見た東京タワーへの思い)

東京タワーはデカかった。 もう半世紀も前になる。愛知県豊橋市の小学生だった私は都内観光のバスに揺られ酔っていた。 もちろんまだ小学生、さすがに私でもその頃酒は飲んでいなかった。極端に乗り物に弱く、特にバスには弱かった。 「着きましたよ。」と言うバスガイドさんの声が待ち遠しかった。バスの乗降口から飛び降り、東京の空気を思い切り吸い込むと目の前に東京タワーがあった。 実はその時の記憶はそれだけなのである。 生まれて初めての東京タワー、それまで見た建物の中で一番大きかったに違い