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十和田市散策 教育プラザ(市民図書館)安藤忠雄

 十和田市を訪れ、友人にお会いし夕食まで一時間ほど時間があったので市内の建築を案内していただいた。「教育プラザ(市民図書館)」安藤忠雄・「市民交流プラザ」隈研吾・「十和田市現代美術館」西沢立衛・「地域交流センター」藤本壮介の四か所である。時間がなかったので建物に入って見学できたのは、教育プラザと市民交流プラザの二か所であった。
 建築に触れる機会から遠ざかっていたので、久々の建築に知らない間に刺激されたのか、いろんな想念があれこれと駆け巡っていたようである。
 経験的に思いついてメモしたものや気になって走り書きしたスケッチが、後々「ああ、あれは、そういうことだったのか」ということが何度かあり、取り留めも、脈絡もないがこの度のことをノートすることにした。
 
教育プラザとキンベル美術館
 教育プラザ(市民図書館2015年)の建物を見学しながら、なぜかルイス・カーン(建築家)のキンベル美術館(1970年)を思い出していた。たしか1998年ダラスからタクシーでフォートワースのキンベル美術館に向かったと思う。到着したキンベル美術館は朝早く人影はなく朝露に微かに濡れた芝生に時々小鳥たちが訪れ、出迎えてくれた。その時はまだ安藤忠雄のフォートワース現代美術館(2002年)は建築されておらず、それからしばらくしてからであった。
 
 キンベル美術館は、矩形の上に、ヴォールト屋根(かまぼこ型の屋根)のユニットが並び、ヴォールトの屋根の天窓からはテキサスの太陽の光がギャラリーに届いていた。
 自然光は絵画には好ましくはないと聞いたことがあるが、関接的な工夫はなされてはいるものの自然光に近い光がヴォールトの天井にそって流れるように注いでいた。
 人工の照明とは違い、天空の光の動きにより常に光は流動し、変化し、揺らいでいた。それは二度と同じ瞬間は、訪れることはなく、その場に立ち会った人だけの唯一無二の時間である。安藤忠雄は「赤い帽子 織田廣喜ミュージアム」(1998年)で照明のない「朝陽とともに開館、夕陽とともに閉館」を設計している。
 
 ほとんど建築雑誌の写真では、数枚の写真しかないことが多いが、キンベル美術館にはライトコートがあり、なぜか内部を散策した後には、心地よい場所であった。名称はそれぞれあるが、コートハウス・ライトコート・四合院の中庭・修道院の回廊に面した中庭・京都の坪庭・アラブ建築の中庭・・・そういえば安藤忠雄の初期の代表的な作品「住吉の長屋」にも、狭小の住宅の真ん中に中庭があった。
 
桜の木が見える中庭
 キンベル美術館のエントランスの前にはトチノキが規則正しく植樹され、その間を縫ってエントランスに進んでいく。美術を観賞するために、気持ちや心の切り替えを促すようにトチノキを植樹したと聞いたことがある。
 
ウェイファーラーズ・チャペル ロイド・ライト
Rancho Palos Verdes California
 小学・中学・高校と一緒だった友人の吉田君が結婚してカルフォルニアに住んでいたので、ニューヨークなどの建築ツアーの帰国の際、ロサンゼルスに立ち寄り一日いろんな場所を案内していただいた。彼が一番連れていきたかった場所が、「ウェイファーラーズ・チャペル」であった。まだ日本では知られておらず、私が知ったのは当時、坂倉建築研究所の所長であった西沢文隆さんが「ウェイファーラーズ・チャペル」について何かの雑誌にお書きになっているのを拝見したのが最初であった。日本の庭園の実測者であり、そんな人が「コート・ハウス論」などお書きしているのを、当時を振り返ると。若かったので理解が及んでいなかったように思う。
 
 竣工時(1951年)の写真と訪れたとき(1988年)の周囲の風景はすでに37年近い年月が過ぎており、建物は樹木に覆われ建物は消えてなくなったかような光景であった。樹木に覆われた空間の中に、両手で抱え込んだその大きさ(チャペル)だけが空間らしい空気が漂い、指と指の隙間からはカルフォルニアの光が差し込んでいるようだった。
 建築の空間というよりは、樹木だけで成立している空間であり、内も外も溶け合って境界が揺らいでいる。ロイド・ライトは長い時間をかけて建築が消えていくこと思い描いていたのかもしれない。
 「存在するとは別の仕方で・・・」なのかもしれない。
 
「生きることの愉しさ」について 内田樹
 私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」はいわぱ「私という物語」の読者である。読者が本を読むように、私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。
 
 結末がまだ分からないにもかかわらず、私たちは「いかにも結末らしい結末」が物語の最後に私たちを待っているであろうということについては、いささかの不安も感じていない。 私たちが物語を楽しむことができるのは、仮想的に想定された「物語を読み終えた私」が未来において、現在の読書の愉悦を担保してくれるからである。
 
桜の木プロジェクト
 安藤さんは、私の記憶では桜の木だけでランドスケープをつくっていた時期がある。調べてみるとプロジェクトとしては「五百本の桜がつくると力とは」さくら広場(幕張)2006年・「桜の会・平成の通り抜け」・「瀬戸内海にオリーブ基金」・「海の森づくり」などである。
 建築家は建築を設計する人たち、という観念をもっていたがルイス・カーンのキンベル美術館の樹木のアプローチを知り、後年になるが、藤本壮介の「地球の景色」の中で次のようか文章に出会うことになる。
 
原初的な内外の感覚 中間領域の起源
 インドに行った時に感じたのは・・・。どうも昔の人は内部空間をつくる意識より、より快適な生活環境をつくる意味で、囲まれた庭や陽が遮られた外部などをつくっていたのではないか。その並びの一つという程度として、内部、部屋をつくっているように感じたのです。
 
 まずは動物が入ってこないように塀を立てたとか、ぬかるんでいる土地の水はけを工夫して乾かしたり、平らにしたり。そういう「外を整える」ところから建築が始まっている気がします。そうして徐々に、だいぶ経ってから内部空間ができてきたのではないでしょうか。
 
―ガラスがなくても快適なら、それが理想状態だったのでしょうか?
 でも、ガラスがあることで、内部というより「新しい外部空間」ができた感覚があったのではないでしょうか。
 
 樹木は、人間の寿命も、建築の寿命も超え生き延びる。それは、多くの時代を超え人々の営みを、その場所で風雪に耐え見届けてきたはずである。
 そういう意味で、樹木は時代を超えたテキスト(織物)であり、それこそ命が宿っているテキスト(織物)ということになる。人間主体の「視るという視点」から「視られるという視点」がそこにはあり、おそらく安藤忠雄の図書館には、桜の木だけではなく、そのような「まなざしの交差」が建築化されているように思われる。
 
 市民図書館のホームページには『「本ではない本」の庭から』という文章がある。まさしくそんな思いの建築であった。

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