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十和田市訪問

 40年ぶりに妻と友人にお会いするために十和田市を訪れた。
十和田市は北海道の札幌の開拓より10年も早く明治に入り最初に開拓された場所だそうで馬の産地でもあり明治政府はこの地に、軍馬育成所を置いたという。
 条里制で整然とした街であり、最初に感じたのは道路(車道+歩道)が広いことであった。街並みはどこにでも見かける建物で埋め尽くされているわけではなく、道路や建物の隙間、空地など適度でバランスが程よく感じられた。心地よい距離感が保たれているのかもしれない。日本の多くの町は、近代化に伴い、そのような距離感を見失った。距離は空間を生み、関係性や時間性を育んできたのではないだろうか。そんなことをこの町は思い起こさせた。
 アメリカやブラジルなどの都市計画も条理的ではあるが、何か人々がモータリゼーションの交通のための道路で分断され、整然としてはいるが静止画的な美しさである。十和田市はもう少し人々が身近に感じられる街であり、人々の混在したざわめきが聞こえてきそうである。
 公共的な豊かさは、個々の人々を豊かにする。個性をいくらかき集めても公共的な豊かさにはいきつかない。その公共性が育つには、成熟した大人たちがその街に住まっていることであり、それが街の知的な体力である。ちょっと余計なことを付け加えれば、このような街には、必ずや奇人、変人がいるものである。
 そういえば十和田市は、軍隊の軍馬の育成地であり、おそらく鍛冶屋、馬具屋、皮加工、金属加工など職人さんが残っているのではないだろうか。また古くからの町なので神社仏閣も残っているはずである。かつて京都の町を歩いていて気がついたことは、人々の日々の生活の営みの中に職人さんが、分かちがたく結びついている風景であった。街が蠢き奥行きが感じられるのは、長い時間をかけて形成されてきた文化的堆積が残っているからであろう。
 個人的な考えだが、かつての日本の町は、十和田市のような町がどこにでもあったように思っている。
 豊さというか懐の深さというか、十和田市は、(有名)建築家を招き図書館や美術館などを建築している。
 「未来の子どもたちのために」、と声高に叫んでいる無策な人たちよりは、腹のすえ方、度量の違いを感じる。子どもたちが生き延びていけるよう、遠い未来の向こうまで見据えているのだろう。
 子供たちが育っていくことが楽しみな街であり、そんな街に住んでみたいとふと、思った。希望や夢を語るよりは、子どもたちの育つ環境を築いてやるのが大人の仕事というものであり、大人を感じられる街でもあった。
 
声が聞こえるということは、生活空間に他者が現れること 平川克美
 最近、もっともインパクトを感じた言葉は、ラジオパーソナリティーを務める小島慶子が、「声が聞こえるということは、生活空間に他者が現れること」 といった言葉だ。(中略)「人の姿は、けっこう遠くにいても見えるものですよね。では声は? 近くにいないと聞こえないですよね。声が聞こえるということは、生活空間に他者が現れるということなんです」
 
ぼくたち日本の味方です 高橋源一郎vs内田樹
高橋源一郎
 ジブリが次に作ろうとしている、昭和30年代を舞台にした映画のために、日本中、ロケハンしに行ったそうです。町の音を録るために。で、結論として、「日本にもう生活音はありません」ということになった。日本中探して、「ここならあるだろう」っていうことで、最終的に屋久島まで行ったのに。昭和30年代的な町の生活音は、もう日本から消えたことを確認したんだって。
 
 つまり、生活音って何かっていったら、遠くからきこえてくる町の音だよね。たとえぱ、カタカタカタカタと、隣の家のお父さんが雨戸を開ける音がする。ああ、朝だなあと思う。まな板をトントントントンと叩く音とか、子供が泣いている声とかが、隣からきこえていた。なぜきこえるかっていうと、まずひとつは、そもそも家の遮音性が低かった。今は遮音性が、高いでしょ。それに、当時はみんな窓を開けてた、暑かったりすると。だから、音はきこえるものだった。それに、生活をしていても、音を立てることが多かった。米を研ぐのだって、洗濯するのだって、音を立ててたわけでしょ。
 今は、生活そのものから、音が消えてしまった。かつて僕たちは、隣とか、隣の隣とか、その隣の隣も、会って話すよりも、そこから音をきいて、どんな家かってことがわかった。いちばん敏感なのは音なんです。でも今は、音が一切きこえないので、誰が何をしてるのか、わからない。
 
 音がなくなった段階で、つまり日常とか、隣とか、そういうものも全部なくなって、すべてが変わった。それはもう町じゃない。「だからもう、昭和30年代、40年代の話は作れません。僕はもうあきらめました」っていうことを話してもらったんです。
 
高橋
 もう一歩進んでる。単に、もうひとつの世界が感じられる、っていうことじゃなくて、この世界の共同性とは違う共同性があるのか、とか、つまり、あまりにも現実の世界の共同体の崩壊が早かったから、ここで何かを再建する、っていうのではなくて。今ない共同体を再構築するためのモデルっていうのは、現実の世界ではなくて、外部にあるんじゃないか、と。
内田
 平凡な共同体といえども、他者を含まずには成立しないんだよ、やっぱり。
高橋
 だから、他者のひとつは時間なんだよね。普通、共同体っていうと空間だと思うけど、時間なんだよ。
 
内田樹
 自分たちが今語ってる常識とか心理形式みたいなものは、かつてはそうじやなかったものだし、あと何年かしたら消えていくんだ、っていう。そういうテンボラリーな時間の中で自分たちが生きているわけじゃない?そこで、先行世代から受け継いだものを、どういうふうに受け止めて、どう伝えていくかっていう、その過渡的な存在であるっていう意識がない。文学者たちも、哲学者たちも、人類の叡智の歴史とか、芸術的感性の歴史の中の、ある瞬間的な点を自分たちが形成していて、この点がないと、前から来たものが後ろに伝わらない、自分が環の一部であるっていうね、そういう断念と大きな使命感っていうのが、どっちもないの!
 
高橋
 やっぱりさ、「コーリング」って言葉あるでしょ?天職。コールって、「声がきこえる」っていうことなんだよ。「おまえがやれ」っていう。

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