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WBCと少年期の出来事

 ある番組で高嶋ちさ子と長嶋一茂がWBC(ワールド・ベースボール・チャンピオン)について語っていた。
 
高島ちさ子
「無邪気で素直で、屈託がなく無我夢中で野球をしている様子が、いくつになってもガキだけど楽しそうでかわいい」
 
長嶋一茂
WBCで野球の魅力を再認識。
「実はずーっと野球が嫌いだった、見たくなかった」
先日栗山監督と再会を果たして、
「僕は野球をやめて27年経つけど、実はずーっと野球が嫌いだった、見たくなかった…」
今回の“栗山野球”を見て、
「こんなに野球はおもしろかったのか」と野球の魅力を再認識した。
 
 二人のお話を聞きながら、少年期の出来事を思い出した。
 中学生まででスポーツは打ち止めにした。スポーツは得意で陸上や野球を主に行っていたが、どちらも高校に入るとき誘われたがお断りした。そのころのスポーツの環境(あくまで個人的なもの)は、例えば野球などは、小学校から中学校を終わるまでルールやボール握り方、投げ方、バットの振り方、持ち方、ホーメーションなど何ひとつ教わった記憶がなく、みな自己流でそれぞれが素質だけで野球を楽しんでいた。
 
 小学生の高学年だと思うが、100mのダッシュの練習を数人で行っていた。いつもは一本終われば、もう一度スタートラインにもどり、ダッシュを繰り返していたが、何かのはずみでスタートラインにはもどらず、折り返しのダッシュを始めた。どこかで顧問の先生が見ていたのだろう、すごい剣幕で私たちに向かってきて、全員が思いっきり平手打ちをくらい、吹っ飛んだ。何が起こったのかわからず、痛さなども忘れて、起き上がった後はその場に呆然と突っ立っていた。それから大人になり、ようやくそれなりの理由を自分なりに考えるようにはなったが、いまでも、そんな時代には戻りたくもないし、嫌な思いだけが残っている。いけなかったのは私たちであることは確かだと思うが、なんの説明もなく従順に練習し、子どもなりに考えることの大事さを学んだことは一度としてなかったように思う。ある時は子ども扱いで、ある時は対等な態度では、いくら何でも小学生にとっては面食らうだろうと今でも思う。
 時折、似たような出来事を新聞やテレビなどで見かけると、今でも思い出す。
 学校の不祥事だけではなく、日常的な中でも(形を変えたイデオロギー)結構遭遇することがある。真似るから学ぶことへの成長を自覚的に語ることができる大人が少ないのかもしれない。
 
考える身体 三浦雅士
 だが、小児の遊戯のなかにこそ、最大の精神の治療を見出すことができるのではないか、と、問い返すこともできる。まさにその、果てしない反復において。・・・小児の反復は、そのほとんどが、胸を抉るほどに率直な喜びの表明ではないか、と。にもかかわらず、この悲しみは、なぜ、と。
 
 以前もお書きしたことがあると思うが、「考える身体」を読みながら思いだすのは、「男子」梅佳代(写真集)・「ペニス」小池昌代(詩)・五味太郎の絵本・和田誠の仕事・安西水丸のイラストなどである。

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