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好き俳人の好き句

過去はもういい霜月のきなこチョコ 
 伊藤 波 「反転」

 波さんの句には、無償のやさしさがある。

 「過去はもういい」は発話者が自身に向けたことばだったのかもしれないが、それはすでに読者へのことばとなって表れてくる。

 そして、「きなこチョコ」の素朴な甘さは、どの季節より冬のつめたさ、
なかでも「霜月」に感じられそう。というのも、波さんのいう「霜月」の手触りは、次の句からも感じられるからだ。

 霜月の例外ならば受け入れる
    「展示」(二〇二一年十月二十二日のツイートより引用)

 「きなこチョコ」はチョコのなかでもかなり例外だと思う(一周回ってチロルチョコでは定番となってはいるが)。だからこそ、「霜月」の「きなこチョコ」な気がする。

 〈そんな気がして撫子と共感した〉「展示」 がきっかけで、波さんのファンになった。今回はじめてご連絡させていただいた。本当はずっと前から話してみたかった。

 波さんのご提案で、今度お会いすることになり、私はすっかり張り切ってしまっている。

呼び戻して 残暑 (……ぼやける) もういいよ 
 大西菜生 「いきていてもいいプリン」

 菜生さんの連作は、「惑溺」を意識して編んでくださったらしい(とっても嬉しい)。

 なかでも、この句。一見それぞれの語が独立しているように思うが、そうではない。

 まず、時間経過がおもしろい。「呼び戻」す、ということは、それまでのふたりが、ひとりになるという順序がいちど発生している。

 また、「残暑」というのも、季節のうつろいを感じさせることばである。

 「(……ぼやける)」という表現は、視覚が水分にさえぎられている感じがする。素直に読めば泣いているのだが、必ずしもそうではないだろう。

 ここまでで主体に感情移入してしまえば、「もういいよ」が自然とこぼれてくる。

 ほか、時間経過が気になる句をさいごに挙げたい。

 菜生さんとは、大学俳句会で知り合ってから、もうきっと二年くらいがたっていて、その間ずっと可愛がってもらっている。本当に大好きな俳句のせ んぱいで、ともだちです。

 桜見ないで池に最後の鳥がいる
   「御伽噺」(二〇二〇年八月十日のnoteより引用)

 ちゃんと居る/目で意味をする/わすればな  
   「わからない異星人」
    (二〇二二年六月 関西現代俳句協会 青年部 招待作品より引用)

馬のように並ぶ自転車ああ酷暑
 綱長井ハツオ 「描き込まれて臍」  

 ハツオさんを存じ上げたのは、私が俳句を始めたての頃の俳句バトルだった。

 その頃からずっと目指すところが一貫されていて、かっこいい句を詠まれる、本当にかっこいい方だ。

 上の句もそう。「自転車」の比喩として「馬のように」というのはすごく新鮮。馬小屋か、競馬のゲートか。どちらにしても横一列である。

 馬という生き物の持つ湿度と、「酷暑」には良い近さがある。またそんな自転車は熱を持ち、日を照り返し、ぎらぎらと光っている。

 こう考えるとレース前の馬な気がしてくる。

 「ああ」という詠嘆から、ぱっと主体が浮かび上がる。このテンポがおもしろい。
  
 ハツオさんの句はどれも本当に好きなのだが、なかでも印象に残るのは次の句。「寝たい」という連作の最後の句だ。

 「寝たい」というのは素直な感情で、多忙のあまり睡眠がおろそかになっているのだろうが、この句はそれだけではないと思う。

 「金魚の小さき耳」への憧憬は、眠れていないことの原因が身体にあるようにも読める。だって、「金魚」で「小さき耳」なのだもの。

 「小さき」は(ちさき)と読むのが俳句的なのだろうが、何度口ずさんでも(ちいさき)と読みたくなる。みなさんはどうだろうか。

 よく眠れそうな金魚の小さき耳 
   「寝たい」(二〇二一年七月三十一日のツイートより引用)

こんな野暮ったい巣箱へありがとう 
 藤 雪陽 「イリュージョン」

 雪陽さんの俳句は、一句単位で読むことの方が多い。

 それは、雪陽さんがいつき組として、ツイッターなどで積極的に発表されているからなのだが、実は連作こそ、この人の魅力なのだと思う。

 「イリュージョン」は、まさにその魅力がつまっている連作。だれにも真似のできない世界で、ひとりのびのびと詠まれる作品は、とても美しいなと思う。

 上の句、「ありがとう」という語を上手く俳句に落とし込んでいる。それでいうと「こんな」「野暮ったい」も到底俳句にならなそうなことばである。
 
 なのにこれらが組み合わさると、こうもすとんと胸にくる句になるのだから、雪陽さんは本当に魔法使いみたいだなあと思うわけである。

 木枯やひまはり組に立つ積木
   (NHK俳句 二〇二一年十一月二十一日放送分より引用)

 いちばん好きな句である。「木枯」という季語が絶妙だ。

 私の通っていた幼稚園では、年長さんがひまわり組だったのだが、それとは関係なく、この句も年長さんのように思う。

 やはり「立つ」という動詞が効果的で、あくまで積木なのだけどとても頑丈に積み上げられているよう。でも肝心の幼児はここにはいないようにも思う。

 「積木」だけを描く、という俳句的な切り取り方。これを見習いたいなと改めて思う。

折本にしました

上の文章は、ここからダウンロードして折本になります。よければ。

『惑溺』をよろしくお願いいたします