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仮面ライダーSPIRITSという幻想

The Legend of Masked Riders

2000年12月。
仮面ライダークウガの展開も佳境に入りつつあった21世紀前夜。
講談社刊行の漫画雑誌月刊マガジンZにおいて、とある漫画がはじまった。
仮面ライダーSPIRITS
原作石ノ森章太郎/作・画村枝賢一による、仮面ライダー生誕30周年を見据えた大型新連載であった。

俺たちのフィールド等の少年漫画で培われた、村枝氏の確かなストーリーテリングと卓越した画力によって描き出される昭和の仮面ライダーたちの新たな活躍は、喝采を持って迎えられた。
特に目新しかったのは、二次元でTV版のスーツを徹底再現しようという、執念すら感じさせる描き込みの数々だろう。
巧みなトーンワークで再現される複眼のパターンや全身の装飾類、加えて再現だけにとどまらず、絵的に見栄えが良くなるようライダーや怪人の頭身を上げるなどといったアレンジも非常に良い塩梅で行われているのもポイントだ。

まるで色味が浮かび上がってくるような見事なトーンワーク。

このTV版のスーツを再現しようという試みは、それまでの仮面ライダー漫画ではさほど重視されていなかった点であった。
特に石森プロ所属の作家陣が執筆する作品群は、師へのリスペクトもあってか、石ノ森萬画版に準じたデザインで描かれることが多かった。
TVはTV、漫画は漫画という割り切った意識があったのだろう。

成井紀郎氏による仮面ライダー11戦記。1号2号のクラッシャー等の違いがわかりやすい。

翻ってそれは、ファンが作り手に回る時代の到来と言うこともできよう。
ひとつのコンテンツがおおよそ30年続くと、親子二世代のファンを獲得することが期待できるというデータもある。
同時期の仮面ライダークウガもまた、そういったデータに基づき周到に準備された復活でもあった。

さて、本作の連載に至る経緯などはwikipedia等に詳しいが、当初は昭和の仮面ライダーのプロデューサーであった平山亨氏の著作を基に、仮面ライダーZX単体の物語にしようとしていたところを、石森プロ側から「1号ライダーから描かなくていいのか?」という提案を受け、現在知られる仮面ライダーSPIRITSになったという逸話は、本作にとってまさに僥倖と言えるのではないだろうか。

企画の前提でもあるハードな世界観は成長したライダーファンが求めたものでもあった。

2000年当時において、雑誌連載とTVスペシャル1本という実績しか持たない、誤解を恐れずに言うなら「マイナーな仮面ライダー」※1であるZXを主役に据えて物語を始めるより、1号~スーパー1の活躍を入り口にストーリーを積み重ねていったほうが、より幅広い読者を獲得できるという算段だったのであろう。
はたしてその目論見は成功し、連載2年目には他社である角川刊行のニュータイプTHE LIVEに書評が載ったり、公式ファンブックが早くも発売されたりと好調なスタートを切ることに成功した。 

こうして順調に連載が進んだ仮面ライダーSPIRITSは、当初ZX単独主役で2巻程度を想定していたという巻数を、9人ライダーのオムニバス編だけで3巻を費やした結果、ZX編に突入してもその勢いはとどまることを知らず長期連載への道を辿っていく。
それが何を意味するかと言えば、クウガの成功からシリーズ化が決まった平成仮面ライダーシリーズと同時併走して連載が続いていった、ということである。

昭和仮面ライダー式作劇メソッド

別の記事でも述べたことだが、シリーズが定着するまでの初期平成ライダー(おおよそクウガ~555頃)は、熱狂的な新規ファンを獲得したと同時に、一部の昭和ライダーファンからの反発もまた大きかった。
曰く「仮面ライダーは改造人間であるべき、素手で戦うべき、特訓をするべき」※2等々のべき論の数々が、個人のHPや匿名掲示板で喧々諤々されていた時代だったのだ。
歴史ある規模の大きなコンテンツの新作ほど賛否両論は激しいものだが、毎年挑戦的なデザインや設定、ストーリーを提示する当時の平成ライダーには特にその傾向が顕著に見られたように思う。
誇張ではなく、そういった賛否をも飲み込み前進する平成ライダーの勢いは、当時の日本のサブカルチャー界で特異な存在感を放っていた。

そして、そんな一部の昭和ライダーファンや、当時の平成ライダーの勢い重視の作風に違和感を持っていた若いファンに悪い意味での御輿にされてしまったのが、仮面ライダーSPIRITSであった。
昭和ライダーに慣れ親しんだファンには懐かしく心地よく、昭和を知らない若いファンには熱い展開が売りの普遍的なヒーロー漫画として・・・
そんな魅力を持った作品であっただけにだ。

SPIRITSは、彼らの平成ライダー批判の格好の比較材料になった。
曰く「昭和の仮面ライダーはこれだけ熱く、感動的なのに比べて今やっているライダーは・・・」といった具合である。

だが、待ってほしい。
確かに仮面ライダーSPIRITSはすばらしい作品だ。
昭和の仮面ライダーを扱った作品であることも事実だ。
しかし、そこに表現されているものは昭和の・・・特にTV版の仮面ライダーのすべてを忠実にトレースしたものとは必ずしも言えないのではないか。
漫画という表現媒体ならではの描写、現代(2000年代)に合わせた諸々のアップデート、そしてなにより漫画家村枝賢一氏の作家性・・・
TV版のスーツをそっくりそのまま登場させているので錯覚しがちだが、仮面ライダーSPIRITSとは、昭和の仮面ライダーを基に村枝賢一氏のフィルターを通して描かれたまったく新しい作品なのである。

昭和の仮面ライダーが社会現象規模のヒットを飛ばし、シリーズ化された要因とはなにか。
その理由を具体的にひとつ挙げるとすれば「紙芝居的なおもしろさ」であろう。
これは、昭和仮面ライダーの多くで脚本を担当した伊上勝氏のご子息でもある、脚本家井上敏樹氏が自身の父の脚本を評した言葉である。
紙芝居のおもしろさの肝とは、何枚かの決め画だけで構成された非常に明快かつ端的な物語であるということだ。
もっと言ってしまえば「おもしろいところだけを繋いだもの」である。
ここで言うおもしろいとは、常に子供の注意を引くという意味だ。
これを昭和の仮面ライダーに置き換えてみよう。子供の注意を引く要素/飽きさせない要素とは、常に刺激を含んだものであり、画面上の動きが停滞していないものだ。
つまり「怪人の暗躍」「変身」「ライダーアクション」に集約される。
こう列挙してみると、昭和のライダーはこのフォーマットから一切ブレずに製作されていることがわかる。
多少の例外はあるとはいえ、
「組織の命令により怪人が暗躍=誇張された殺人描写等の(子供にとって)ショッキングなシーン」

「事件を察知し現れる仮面ライダー」

「前半での軽いアクション」

「後半での大きなアクション」
という強固なフォーマットがあったからこそ、昭和の仮面ライダーは大量生産大量消費のルーティーンに乗ることができたのだ。
特に、番組前半と後半にそれぞれアクションの見せ場があるのは、当時のヒーローものとしては斬新で画期的な発明だった。

と、ここで勘違いしてほしくないのだが、なにもこの定型的な作劇をあげつらっている訳ではない。
こういった番組作りは子供番組において決して悪いことではないからだ。
たとえば、当時よく映画館で見られた光景として、怪獣映画において
「怪獣の出ていない所謂ドラマパートでは子供たちが劇場を走り回っていた」
などという証言がよく聞かれる。
そもそも論として、子供とは集中力のない生き物である。
海外ならいざ知らず「上映中はお静かに」がマナーの日本の映画館で、大人と同じように黙ってじっとしていろと言う方が無理な話なのだ。
子供たちは怪獣を見に来ているのだから。

そして、それ以上に分が悪いものは子供向けTV番組である。
一度館内に入ってしまえば、画面を見続けることが前提の映画とは違う。
1970年代当時でも、家の中には漫画や玩具等々・・・子供たちの集中力を画面から逸らすものはいくらでもあっただろう。
つまり、TVという媒体は映画以上に子供たちの注意を引く努力が必要だったのである。
そんな落ち着きのない子供たちをTV画面に釘付けにする方法はただひとつ。
そう、「おもしろいところだけを繋ぐ」ことだ。
大部分の子供たちにとっては、アクションまでの段取りでしかない日常シーンや、大人たちだけの会話や会議などといったシーンは退屈で面倒くさいのだ。
おまけに、その中で子供には難しい単語でも使おうものなら、親のお説教と同じで右から左である。

あるデータによると、子供がドラマの中での回想シーンを理解できるようになるのは小学校4年生以降※3―つまりは10歳前後から、という調査結果がある。
これは多少の例外はあったとはいえ、おおよそ小学校低学年までをメインの視聴対象にしていた昭和の仮面ライダーの作劇フォーマットと無関係な話ではあるまい。

こうした、ある意味で機械的にさえ見えるこの強固なフォーマットは、仮面ライダーSPIRITSを指して言うところの「熱い」といった類の感想とはまったく逆の「クール」さすら感じさせる。
それは昭和の特撮作品の脚本を読んでみると、非常にわかりやすい。
爆発で大幹部が死のうが、ヒロインが死のうが、ト書きには淡々と「爆発」とだけ書かれているのだ。
脚本とはあくまでドラマの設計図なのであって尺寸法さえわかればいいのだ、と言わんばかりのそっけなさである。
昭和の作品を手がけたオリジネイターとは得てしてそういう、ある種のドライさを持っている職業としての作家が多い印象だ。
(今の作品の脚本を読むと、非常に情感たっぷりで丁寧なのは良いのだけど、少々作家の思い入れが強すぎて、もう少し冷めた感覚も必要なのではないかと思わなくもない)

こうした強固なフォーマットが生まれた背景には、意識して改造人間の悲哀を描こうとした旧1号編よりも、明朗快活な2号編によって初代仮面ライダーが不動の人気を得ていったという歴史的事実に起因する。
「暗さ」「難しさ」といった子供にとっては余計な枝葉は剪定され、仮面ライダーという木は力強い大木に成長していったのだ。

勿論、だからと言って昭和の仮面ライダーすべてにドラマがないと言っている訳ではない。あくまで比重をどこに置くかの問題である。
実際に、仮面ライダーV3の1話で再確認するように改造人間になることの惨さを1号2号によって語らせ、V3「26の秘密」という連続ドラマ的な要素を設定し、V3自身がその秘密を発見していくという展開を設けたり・・・
続く仮面ライダーXでは、主人公の恋人とその妹の謎をドラマの基点にしていたし、仮面ライダーアマゾンでは徐々に日本の言葉や習慣を習得していく前半のアマゾンといった、シリーズを通じた縦軸のドラマを展開しようと意図していた例もある。

だが、そのいずれの挑戦も低年齢層に広く受け入れられたとは言えず、あまり使いたくない言葉ではあるが、多くは信頼と実績の従来的フォーマットへの「路線変更」という結果に終わってしまっているのも事実なのだ。
このあたりは、原点回帰を謳いつつもシリーズ中や次回作で方針が改められた仮面ライダー(スカイライダー)や仮面ライダーBlack※4にも近いものを感じる。

だが、もちろん当時のすべての子供たちがそのフォーマットに満足していたわけではない。
前述したように小学校も高学年となれば、TV版仮面ライダーのストーリーに物足りなさを感じるようになる子もいただろうし、多少入り組んだ人間関係も理解できるようになり、より複雑な作品を求める子も出てくるだろう。
そうした背伸びをしたい子供たちの手助けになったのが、例えば石ノ森章太郎氏の萬画版仮面ライダー※5や石森プロ所属の作家陣によるコミカライズ作品の数々であった。

萬画版における本郷と一文字の関係はかなり違う。

TVの枠では見られないストーリーや表現を持ったそれら作品群をTVの副読本として彼らは成長していった。
その後、日本のサブカル界はアニメ・漫画を中心として目まぐるしく変化していき、1980年代になるとアニメ界ではファンが作り手に回るという現象も起きはじめていた。
そこから遅れること10年。ついに特撮界隈にもファンが作り手に回る時代がやってきた。90年代後半のことである。
仮面ライダーSPIRITSもまた、そんな系譜の上に位置付けられる作品のひとつなのだ。

そのあたりを時系列を追って検証した切通理作氏の力作。

ここまで書いてきて、改めて「では仮面ライダーSPIRITSとはどんな作品なのか?」と聞かれれば、2022年現在も連載中の作品に対して総括めいたことを言うのも気が引けるのだが「幸せな共同幻想」だと、私は思う。
アナログ特撮の限界や技術や予算の都合等々で、決してすべての表現がうまくいっていたとは言いがたい昭和の仮面ライダーを、村枝賢一氏という作家の思い入れというフィルターを通して、格好良く・美しく再出力されたライダーたちの活躍に、確かにあのとき大勢のファンが共感し熱狂したのだ。
そしてSPIRITSには、直接昭和のライダーに触れてこなかったであろう世代の若いファンまでをも巻き込むパワーがあった。
それが皮肉にも、SPIRITSを読んだ若いファンがその熱気のまま実際に昭和ライダーを視聴して、その映像や内容に失望してしまうという悪循環を発生させてしまうほどに。
仮面ライダーSPIRITSから摂取できる「なにか」は、仮面ライダーSPIRITSの中にしか存在しなかったのだ。

今、実感として2000年代当時に比べて仮面ライダーSPIRITSの話題を見かける機会は少なくなっているように思う。
中には「まだ連載してるの?」なんて半笑いで嘯くかつての読者もいる。
まぁ、確かに連載22年目という事実を冷静に考えると驚かされる。
昭和のヒーローを題材にした作品が、平成の世を超え令和の現在でもいまだ連載中なのだから。
よほど熱心なファン以外は自然と離れていくのも無理のない話だ。
しかしそれは、この作品にとってはむしろ良いことなのかもしれない。
世代間の対立を煽る材料にされたり、過度な期待をオリジナル作品に抱いた末、勝手に失望した責任を本作に押し付けられるような不幸な事態も、もう起こりようもないほど時間が経ってしまったということなのだから。

このまま、仮面ライダーSPIRITSは緩やかに穏やかに完結してくれることを一読者として願ってやまない。

注釈

※1 
本作のZXに対する貢献度は計り知れないが、昨年のNHKの某投票企画の結果を見るに作品の位置づけはいまだそう変わりないのかもしれない。
そして昭和の作品の順位に、残酷な現実が見え隠れした興味深い番組でもあった。

※2 
特に平成ライダーの演者のロン毛(死語)への批判が多かった。
V3の宮内洋氏は製作側から「長髪のほうが受けが良いから」と頼まれ、番組初期は単髪にヘアピースを着けて演じていた事実などは無視された。

※3 
ドラマ中の時間の流れが現在と過去に前後していると認識できる年齢という意味。
それ以前の年齢ではドラマはすべて現在進行形としか受け止められないという。

※4 
スカイライダーの頃から既に青年層のファンの意見を取り入れようとする動きはあったようで、初期のダークな体色等は言うまでもなく旧1号を意識している。だがやはり子供たちへの訴求力はいまひとつで、先輩ライダーが続々と客演するシリーズに変化していく。
Blаckに関しては、ダークな雰囲気は要所要所では維持したものの、やはり作劇上の枷は多かったようで、次作RXでは一気に華やかになる。

※5 
たとえばSPIRITSにおける一文字隼人は感情が高ぶると顔に改造手術痕が浮かび上がるのだが、これは石ノ森萬画版の本郷の設定を取り入れたもの。

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