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おっさんずラブ-in the sky-が描き出そうとしたものは何なのか、天空不動産編と比較しながら考えてみる(後編)

 この記事では天空不動産とin the skyを比較し、特に2019年に制作されたin the skyでは何を描きたかったのかを明らかにすることを目的としている。また、多くの熱狂的なファンを生み出した2018年の天空不動産とin the skyは何が異なっていたのか、その議論の糸口を見つけることを従たる目的としたい。(前編の続きとなります)


■おっさんずラブが描き出そうとしたもの

 おっさんずラブは天空不動産の前に単発のドラマが作られている。この単発から天空不動産にかけて、何か変化はあったのだろうか。

 プロデューサーである貴島彩理は、単発から天空不動産を描くにあたっての環境を次のように捉えている。

「単発ドラマを放送してから1年半くらい経ちましたが、その短い間でLGBTの方々を取り巻く環境は大きく変化したように感じます。」

 そのうえで、「急激に、何かとてもホットな題材になっているという感覚はありましたが、だから『おっさんずラブ』を制作したというわけではまったくありません」と語っている(GALAC 2018年9月号)。

 彼女が作り出そうとしたのはあくまでも「とにかくまっすぐ“人と人との恋愛ドラマ”であり“人間ドラマ”」だった。

 貴島氏が言うように、近年急速に「LGBTの方々」を題材としたドラマが増えている。また天空不動産をきっかけとして「ボーイズラブ(BL)のドラマ」も増えてきたように思う。

 しかし、in the skyで描いたのは「男同士の恋愛ドラマ」ではなく、「恋愛ドラマを男同士で描く」ものだった。こうした中、製作サイドは一体何をもって「おっさんずラブ」にしようとしていたのか。また、単発、天空不動産、in the skyと異なる世界を作り出してきたおっさんずラブだが、何をその軸にしようとしていたのか。

 それは「役者の力」「役者同士のセッションの魅力」、もっと言えば「役者からリアルな感情をいかに引き出し、それを作品に生かすか」ということだったのではないかと思う。

 例えば、演出スタッフの一人であるYuki Saito監督は、in the skyの6話のラストシーンについて、次のようにツイートしている。「シノさんとシゲさんが重なり一つになった気がして、ボク史上最高のシゲさんが撮れました」。また、主演の田中圭は公式本をはじめ、様々なインタビューで「嘘の無いシーン」「嘘はつかないように」と語っている。

 おっさんずラブは、単発、天空不動産、劇場版、in the skyとシリーズを重ねるごとに、こうした役者のリアルな感情、その場の嘘がない感情をいかに引き出すか、それをスタッフが確実に撮影するか、という点に重きを置いていったように感じる。

 「LGBTQ」「BL」様々な文脈で語られるおっさんずラブだが、製作陣がこのドラマで表したかったものは、あくまでも「人が人を好きになること」をいかに嘘が無く撮ることだったのではないだろうか。そして、その「嘘の無さ」を「作る」ために、徐々にスタンスや手法が変わっていったのではないかと思う。

 しかし、個人的にはこうしたやり方にも良い面と悪い面のふたつがあったのではないかと思う。


■おっさんずラブにおけるリアルな感情の動き

 まず良い面について。おっさんずラブで無ければ見られないような、リアルな感情の動きが見られることである。これは天空不動産での田中圭を中心とした林遣都、吉田鋼太郎の芝居をきっかけとして、劇場版、in the skyとシリーズを重ねるにつれて、最も特化していった部分だと思う。

 in the skyにおいて特出すべきものは、田中圭と千葉雄大の間に生まれた感情と、田中圭と吉田鋼太郎の間に生まれてたものであると感じた。

 前者については、成瀬竜が春田創一に対しキスしたことをきっかけとして、春田は成瀬を意識し始め、いつしかその感情に「恋」というラベルを付けていく。「嫉妬」をきっかけにして「恋」に気付くという作りはまさに従来からの「おっさんずラブ」の「お約束」であり、田中圭の嫉妬という感情の作り方も非常に上手い。一方で、成瀬自身は、当初はキスしたからこそ春田が馴れ馴れしく接してくるのだと疎ましく感じていた。しかし、父親の死という自らの弱い部分を春田に受け止めてもらったことをきっかけにして、キスしてもなお一夜限りの恋、一回寝るような関係になるのではなく、仲間として自分のことを受け止めてくれる春田の大切さに気付いていく。誰とでもキスができて、「一回寝たくらいで」と言えてしまう成瀬だからこそ、キスしてもなお仲間として接してくれる春田が大切で、春田のキスを受け入れなかったのだろう。

 私は天空不動産をリアルタイムで見終わったときに、春田創一が他でもない自分自身への「言い訳」を乗り越えて、好きな相手にただ好きだと伝えキスをしたラストに感動した。「人を好きになること」「好きな人に好きとただ伝えること」の素晴らしさがまっすぐに伝わってきたと思った。

 だからこそ天空不動産では描けなかった「恋ではない特別な想い」を、in the skyで描けたことは評価に値すると思う。「恋」を先に描いたからこそ、ラストに「恋」と並ぶ特別な想いが描けたのだ。成瀬が最後にたどり着いたのが「恋よりも大切にしたい特別な相手」というのも共感ができたし納得した。

 ただし、天空不動産が念頭にあったからこそ、春田創一は最後に「恋する相手」を見つけるという先入観があったし、その相手を8話かけて探してしまった。また、春田と成瀬の関係性も進展が見られたから、この二人が結ばれるエンドも考えないわけではなかった。そうした台本を超えた感情を見ることができるのは、やはりおっさんずラブならではだと思う。

(なお、田中圭が成瀬との関係性の深まりを感じて台本を変えて欲しいと願い出たそうだが、そこがまさにおっさんずラブがおっさんずラブたる源泉だと思った。他でもない、自分の演じる役柄を客観的に語ることのできる田中圭が、そこまで感情移入して主観的になってしまう。

 田中圭が黒澤武蔵とのラストを知っていたから、成瀬への気持ちは嘘だったと語ってしまったら、それこそ「嘘のなさ」を追求するおっさんずラブでは無くなってしまう。

 ラストまでの展開を知っていてもなお、田中圭は春田創一として成瀬竜のことを本気で好きになったのだろう。春田の成瀬への気持ちが嘘になってしまうと、成瀬の決意が嘘になってしまう。また四宮の春田に対する切ない想いも、嘘くさくなってしまう。

 また、それができると分かっているからこそ、貴島氏をはじめプロデューサー陣は、田中圭にラストをあらかじめ教えたのだろう。)


 次に、田中圭と吉田鋼太郎の間に生まれたものについて触れたい。

 in the skyでは、おっさんずラブというシリーズを通じて、二人が春田と黒澤として過ごした時間の長さを感じさせられた。私が最も心を揺り動かされたシーンは、7話で黒澤が「ファイナルアプローチ、OK?」と春田に尋ね、春田が「駄目ですって」と涙を流すシーンであるが、正直、ドラマの展開上、春田はそこまで感極まるシチュエーションではない。それでも春田が涙を流したのは、それが他ならぬ田中圭と吉田鋼太郎だからである。黒澤からの真剣な告白を受けた春田の中に、喜びや安心感すら感じさせられた。それはin the skyにとどまらず、これまでのすべての春田創一に通じる想いである。春田創一は、黒澤武蔵に真剣に向き合い、愛してもらえることが嬉しいのだと思わされた。

 同じことは8話のラストシーンでも感じた。正直、このシーンもin the skyの文脈で見ると春田の感情を理解しづらい。私は、春田が告白したのは、恋愛感情によるものではないと思っている。むしろ、自分の大切な人が突然いなくなってしまう喪失感を「特別な気持ち」で埋めたものであるとすら感じる。それは恋愛感情とは全く別物だ。黒澤が退職することをきっかけとして、春田の中に生まれた胸のざわつきに対し、彼はそれを的確に表現する言葉を持っておらず、ああいった形で告白せざるを得なかったのだと理解した(in the skyの春田は、「好き」の意味を掘り下げず「恋」に直結させるため、「恋」と「特別な想い」の違いが分かっていない。)。

 ただし、やはりin the skyというドラマの枠で見ると、春田がそこまで気持ちを爆発させるような想いを黒澤に寄せるという過程の説明が難しい。春田の黒澤への感情はせいぜい7話の「ファイナルアプローチ、OK?」からであり、そこまで大きな感情の変化がどうして起きたのか、その間を埋めることがなかなかできない。

 しかし、in the skyという枠組みではなく、おっさんずラブシリーズ全体を俯瞰したうえで、あのシーンだけ切り取って見るととんでもない熱量のこもったお芝居であり、見るたびに震えるものがある。あらゆる春田創一の、自分を愛してくれた黒澤武蔵への想いが感じられる。春田創一から黒澤武蔵への感謝の想いが溢れ出しているのである。そこまでの感情を出してしまう田中圭にも、それを受け止めてしまう吉田鋼太郎の凄まじさをも同時に感じるシーンである。


■俳優陣の感情に頼りすぎる作り

 一方で、シリーズを重ねるごとに、俳優陣のリアルな感情を重視しすぎるがゆえの弊害も出てきたと感じていてる。それは、俳優陣の感情を信頼しすぎるがゆえの脚本上における心理描写の省略と、アドリブの多用である。

 私は心理描写の省略が必ずしも悪いものだとは思っていない。むしろ、おっさんずラブを好きになる中で感じたのは、感情は必ずしも言葉に表れないということである。例えば、「好きだ」という台詞一つとっても、その裏側にどのような感情があるのかによって意味は全く変わってしまう。このドラマは、そうした裏側をほとんど言葉で説明しない。その部分は、俳優や演出スタッフに考えさせる脚本となっている。田中圭はもちろんのこと、林遣都にしろ、内田理央にせよ、千葉雄大にせよ、戸次重幸にせよ、吉田鋼太郎にせよ……俳優の良さ、特に俳優自身の解釈を生かす脚本だと思う。

 だからこそ、劇場版では春田と牧の関係性がドラマに比べてずっと深まるのだろうし、in the skyでは春田と成瀬のが当初彼らが予想していた以上に向き合うことになったのだろう。

 ただし、劇場版、in the skyとシリーズを重ねるごとに、俳優陣を頼りにしすぎる傾向が出てきたのではないかとも感じるようになった。その結果、どうしても言葉で説明する部分が減り、分かりづらいドラマとなってしまったと感じる。

 また、俳優の解釈が生きる点が面白さであるからこそ、どこまで脚本で説明するか、そのバランスが難しいことは間違いない。しかし、特にin the skyでは、俳優陣の解釈の手助けとなるよう、もう少し全体をつなげるための軸があっても良かったのではないだろうか。

 一般的に、一話完結ドラマの場合、各話でエピソードを完結させつつも、ドラマ全体をつなげるための軸を用意する。ところがおっさんずラブの場合は、この軸が「恋愛」しかない。本来ならば、数話渡り引きつけることが可能となる題材が、この「恋愛」の飾りとして一話の中で消費されてしまった。例えば成瀬の父との確執や、四宮の家族への想いがこれに該当する。ここに唐突感が否めなかった。こうしたドラマ性の高いエピソードを取捨選択し複数話かけて描くことで、物語に一貫性が出るとともに深みが増したのではないかと考える。

 繰り返しになるが、おっさんずラブの良さは俳優陣の生きたお芝居である。だからこそ、それを生かすために心理描写が少なく、解釈に余地がある脚本になっている。また、演出もそうした俳優陣の一瞬の生き生きとした表情を映すことを大事にしていると理解している。先が見えてしまう脚本と俳優の嘘の無い芝居は時に対立する。嘘の無い芝居を優先するがあまり、展開を教えないこともあるのだろう。

 ただし、多くの人に届けることを目的とした「テレビドラマ」という枠組みで作っているからこそ、ある程度の分かりやすさが必要だったのではないかと思う。
 この点、天空不動産は春田のモノローグの多用、恋愛ドラマのお約束を踏襲した展開と、どこを見たらよいか、今どういう気持ちかが追いやすく、分かりやすかったのだと思う。

 また、キャラクター造形の部分では、どうしても「パラレル」という手法を取っているがゆえにハイコンテクストになりがちで、分かりづらさはある程度避けられないと思う。

 制作陣の中で、全シリーズに共通する春田創一、黒澤武蔵については、キャラクター像の共通認識がある程度出来上がっていると感じる。もちろん、パラレルという設定ゆえに、春田創一も黒澤武蔵も作品ごとに同じ名前の別人となる。しかし、それでも「春田創一」という名前を使うのは、その名前にイメージがあるからだ。例えばお人よし。困っている人はほっておけない。仕事の成果よりも人助け。だからこそ、in the skyでは春田創一という人物に対する説明が極端に少なくなったのだと理解している。しかし、設定を変更するも常に主人公を「春田創一」とするならば、視聴者に対し「in the skyの春田創一」がどんな人間なのかをもう少し丁寧に説明しても良かったかもしれない。

 また、言葉に頼らない、受け手にゆだねた解釈にはどうしてもばらつきが生じる。受け取り方を視聴者に任せる、そこがおっさんずラブの良さだ。「正解」は視聴者にゆだねられており、答えは視聴者の数だけある。そういう器の大きい作品だと思う。しかし、受け手の解釈に頼りすぎてしまうことで、製作側が真に届けたいテーマが届かないという残念な事態にもなりかねない。

 ただし、繰り返しになるが、in the skyは、そうした言葉によるその説明が少なかったからこそ、俳優たちは関係性を考え、脚本を超えた関係性を観ることができたのだと思う。

 どこまで脚本上で説明するのか、そしてどこまで俳優の解釈とリアルな感情を見せていくのか。そのバランスは、非常に難しい問題である。


■おっさんずラブの行く末

 単発と天空不動産のストーリーが似ていることもあり、当初in the skyについても同じフォーマットのドラマを作るものとばかり思ってきた。しかし、これまで述べてきたように、天空不動産とin the skyは描こうとしているものが全く異なる。恋愛ドラマでパラレルとしたがゆえに批判も多いシリーズとなったが、個人的には天空不動産/in the skyの絶対性・唯一性は、他でもないおっさんずラブの中で同じ立ち位置のキャラクターは存在しないことで担保されていると思う。端的に言えば、牧凌太の二番煎じとなるキャラクターはin the skyに存在しないし、また成瀬竜や四宮要は天空不動産のキャラクターを焼き直したものではないのである。

 昨今、テレビの世界は「リアル」を求めているとよく言われる。おっさんずラブも取り上げられた新春テレビ放談では、テレビ東京の佐久間宜行とヒャダインが繰り返し語っている。

 こうした時代において、他でもない「嘘のなさ」「リアルさ」を追求する製作陣は、in the skyを経て果たしてどのような作品を作るのか、私はそれが非常に楽しみである。

 また願わくば、それが俳優たちの脚本への深い解釈とリアルな感情をテレビ越しに楽しむことのできるおっさんずラブであって欲しいとすら思う。

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