見出し画像

#おっさんずラブ がリターンズするので5年前、最初に書いた感想を振り返ってみる

人生の中で圧倒的にドハマりしたドラマが5年ぶりにリターンズします

これを奇跡と呼ばずしてなんと言えばいいのか。

ドラマ「おっさんずラブ」の話である。
2018年4月クールに放送していたこの連続ドラマ。
私は1話からリアタイし、当時びっっっっくりするくらいハマった。
最終回を迎えたその次の日から、ひたすら録画をループ再生し(なぜか全話録画していた。ありがとうあの時の私)、その後、2018年8月の公式本発売、10月のDVD・ブルーレイ発売、12月の劇場版制作発表、2019年1月の連ドラ再放送、4月の劇場版撮影、7月以降のプロモーション、そして8月の劇場版公開とリアルタイムでひたすらドハマりし、駆け抜けていった女である。

おっさんずラブのおかげで、X(旧ツイッター)を通して友達ができ、おっさんずラブのおかげで人生初のオフ会なるものにも参加してしまった。
「おっさんずラブでワーク・ライフ・バランスが整う!!!」とオンオフ問わず発言したのは一度や二度ではない(イベントや応援上映参加のため、しょっちゅう有給使ってました)
最近の出来事としては、おっさんずラブのおかげで職場の役職が2つか3つくらい上の上司と共感しあったことである(今度ランチ行きましょうお願いします)

冗談抜きで、私の2018年4月から2020年3月は大体おっさんずラブで出来ている。
ドラマで人生が変わったと言ったら少し大げさに聞こえるかもしれない。
でも、おっさんずラブに出会わないまま過ごしていたであろう人生と、出会った今の人生は、多分ちょっと違っているはずだ。

そんな思い出深いドラマの続編が、まさかの5年ぶりに制作される。
これを奇跡と言わずしてなんと言えばいいのか。

ドラマのオタクは楽しいけれど、時につらい。
その前はアイドルのオタクをやっていたので、なおさら思う。
ドラマは3か月の放送期間が終わってしまえば、制作チームは解散される。DVDやブルーレイさえ発売してしまえば、新規の情報は出てこない。
ドラマのオタクは永遠に過去を思い出して生きていくしかない。

それがおっさんずラブのオタクはどうか。
2018年6月にドラマが最終回を迎えた後も、劇場版まで盛り上がりはシームレスに続き、コロナを経てまた「続編」という新しい物語が見られるのだ。しかも当時のキャストが奇跡の全員続投で。

え、こんなに恵まれてて良いんです……?

ていうか公式ツイッターでも #レギュラー陣奇跡の全員続投 とか自ら発信しちゃってるし、制作陣的にも(特にキャストをアサインするプロデューサーチーム的にも)「2024年1月クール、全員揃った……!! これもう奇跡でしょ……!!」と密かにガッツポーズしていると解釈しているんだけど、どうかな(笑)

そんなこんなで2024年1月5日の放送開始が楽しみでたまらない。

そんななかで過去に書いた文章を整理していたら、2018年6月の最終回を見終わった後、最初に書いた感想が発掘された。
せっかくなので、このタイミングでこちらに移転しておこうと思う。
「おっさんずラブ-リターンズ-」ではどんな物語を見せてくれるのか、今から楽しみである。

ハロヲタだけど、#おっさんずラブ が素晴らしすぎたので、その魅力を語りたい

4月から始まったテレビ朝日系土曜ナイトドラマ「おっさんずラブ」が6月2日、ついに最終回を迎えたわけですが、見終わった瞬間「私はとんでもないドラマを見てしまった……」と冗談抜きに震えました。

「おっさんずラブ」なんてタイトルだけで出落ちのようですし、吉田鋼太郎の乙女演技だけが面白い、確かにそう、そうなのですが。このドラマの魅力って、それだけじゃなかったんだと改めて感じ、思わず明けた本日、1話からすべて見返してしまったくらいです。(第1話のときに面白そうだと直感で連ドラ予約をしておいて本当に良かった……)

そういうわけで、「ハロヲタだけど、#おっさんずラブ が素晴らしすぎたので、その魅力を語りたい」

第一印象はBLと腐女子受けを狙いすぎているドラマ

まず、このドラマの第一印象なのですが。正直、BLと腐女子受けを狙いすぎているドラマだと思いました。ごめんなさい。
だって、Pixivイラストコンテストを開催する、インスタグラムへの裏アカウント開設等々、狙いに来ている感がありすぎじゃありませんか(私はそういうの嫌いじゃないです。むしろ好きです。ただ、友達にはオススメしにくいな、とは思いますが(笑))。

私は正直、BLというジャンルにはそこまで興味がありません。
BLが嫌いではないけれど、BLだから見るという積極的な動機にはなりません。
一般的に「恋」や「愛」は異性にするのもの、なのかもしれないけれど、自分以外の他人に対して、特別に共感する気持ち、あるいは独占したいと思う独占欲は決して異性のみとは限らないと、そう思うからです。
その気持ちを「恋愛」と定義するのか、「友情」と定義するのか、あるいは「上司と部下」「同僚」「先輩後輩」と定義するのかは、その人の考え方と、カテゴリー分け次第。現在、世間では異性に対しては「恋愛」、同性に対しては「友情」、その他他者に対しては「尊敬」という言葉で定義することが多いかもしれませんが、ただそれだけのこと。
そう、ただそれだけのこと。そう言いきるのは簡単だけど、ただそれだけのことが、各自の考え方と異なるからこそ、私たちはときに大いに悩むのです。
この気持ちは「同性愛」なのか。私は「普通ではない」のか。
異性に「恋」できない自分は人間として劣っているのか。

従来の恋愛ドラマでは、必ず各芸能事務所一押しの美男美女が出てきて、その世間で使われている言葉の意味を悩むことなく、当然のような顔をして使っていました。
結末が変わろうが、根本的なところが変わりません。
「男と女は恋する」「同性は恋をしない」、その前提に疑問を持つことはない。男と女がいたら、必ず恋に落ちるもの。だから私は、あまり恋愛ドラマに興味が沸きません。
なんていうか、自分のなかでピンとこなかったんですよね。テンプレートのようにしか見えなかった、というのが一番近いでしょうか。

おっさんずラブの面白さ=気持ち従来の型で決めつけない

でも、おっさんずラブの面白さは、男と女だからそれが「恋」で、男と男だから「上司と部下」「友情」「同僚」なのだと、決めつけないところだと思います。

当初はステレオタイプに「俺は巨乳ロリが好きなんだ」と「好き」を語っていた春田が、武川主任と牧が手をつなぐ姿を見て動揺する。
武川さんの家に行くのだと出ていこうとする牧に、行って欲しくないと抱きとめる。「春田さんなんて好きじゃない」と涙があふれ出す牧を見て、はらはらと流れ出す涙が止まらない。

春田に芽生えたその気持ちが果たして「恋」なのかは分からず、おそらく、春田自身も分かっていません。
でも、その特別な、相手に共感する気持ち、さらには相手を独占したいという気持ちが同性を対象としても存在することを、このドラマは決して否定しません。
そして、その気持ちを茶化したり、変に否定することなく、まっすぐに向き合う。「愛」として。
なによりも、その点にキュンとするのだと思います。

そういう気持ちは、多かれ少なかれ、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。
幼少時代、「親友」だと誓い合った友達に。青春時代、同じ時間を深く共有した仲間に。
でも、ジェンダー規定の厳しいこの世間で、私たちは意識、無意識関わらずそれを「友情」だとか「憧れ」だとか、誰にでも理解ができて、誰もが(おそらく、何よりも自分自身が)傷つかない言葉に当てはめて生きてきたのです。

でも、このドラマの登場人物たちは、そうではない。
その相手への特別な想いを、自分なりの言葉や行動で伝えようとする。
その言葉や行動が、仮に世間の規定に当てはまらなかったとしても。

林遣都さん=目と表情で語る

さて、少し話題が変わりますが、私がこのドラマで特に心を揺さぶられた点は主に2つあります。

ひとつは、全編を通しての林遣都さんの演技です。
牧凌太がなぜ春田創一のことを好きになったのかは、牧自身の言葉で語られることはありません。
このドラマは、牧と春田の出会いから始まるので、ふたりの関係するエピソードを通して、私たち視聴者はふたりのキャラクターを知り、そして春田と牧の人柄に惚れていく。
まるで、登場人物たちがそれぞれ魅かれあうように、私たちも、彼らに魅かれていく。

牧がなぜ春田のことが好きなのかは、明確に語られることはないけれど、おそらくその「好き」がいわゆる「恋愛」なのだろうということは分かります。それは、牧が春田に対してはっきりとスキンシップを求めるからです。
しかし、それ以上に素晴らしいのは、林遣都さんの目と表情の演技だと思うのです。
感情の多くは言葉にしないのに、目と表情が口以上にモノを言う。

牧凌太という存在の説得力は凄まじいものがありました。
仕事ができるエリートでありながら、家事も完璧にこなし、(だからこそ、なのかもしれないけども)客観的な「普通」、春田の「普通の幸せ」を意識するあまり、自分の幸せを押し通すことができない。
他人から見ればおそらく完璧で、フレッシュで、格好良いのにもかかわらず、どこかほっておけない弱さ、脆さ。
その潤んだ瞳に、すっかりと感情移入してしまう自分がいました。
特に春田と付き合い始めた(「付き合う」という形を手に入れたはずなのに)5話以降の牧の春田への揺れる気持ちの表現には、思わず彼の幸せを願わずにはいられませんでした。

田中圭さん=生きた春田のキャラクター

もうひとつは、最終回の田中圭さんの演技です。

春田創一は巻き込まれ型の主人公。彼自身がきっかけとなって物語が動くのではなく、他のキャラクターたちに巻き込まれながら、またその他のキャラクターをつなげることで、物語は進行していきます。
だからこそ、春田自身の気持ちを自ら表現するシーンが非常に少ないんですよね。
常に、春田は目の前にいる相手の想いを、その人が傷つかないように受け止めようとする。そこに、自分の気持ちはあまりない。
しかし、最終回のチャペルにおいて、神父から誓いのキスを促された瞬間に、我に返ったかのように自分の想いが溢れてきます。
それまで、相手に合わせて、傷つけないようにへらへらと笑っていた春田が、堰を切ったかのようにはらはらと泣き始める。嗚咽が止まらない。
このシーンは、冗談抜きに鳥肌が立ちました。
いつもの春田と、表情すら違って見えて。感情が、自分自身がむき出しの春田がそこにはいました。いつもと全く違う春田の姿。田中圭さんの演技の凄まじさを感じました。

あらためて1話から見返すと、コメディ色で上手く包み込みながら、このふたりの関係性を丁寧に描き込んでいるんですよね。
もちろん、その書き込みだけではなくて、それに当たっては武蔵をはじめとした、きっかけを作りだす、それぞれにそれぞれの想いを抱えたキャラクターがいるわけですが。

自分の気持ちに素直に向き合い、伝える美しさ。そのピュアさ。
そういうのを踏まえたうえで、最後のシーンは、なんでしょうね。あれ。男同士なのに、美しさとか、羨望とか、魅かれるような力とか……強烈に感情を揺さぶるシーンでした。

「普通」を意識しすぎるあまり自分をさらけ出せなかった牧と、自分の中の特別な気持ちに、自分なりに向き合っている春田。
ふたりの抱く気持ちが果たして同じものなのかって分からないと思うんですよね。
春田は「結婚」という言葉で表現しましたけども。それは当人同士も分からない。そんなのは、ドラマでも現実でも、きっと誰にも分からないもの。
でも、おそらく春田にとって牧は大切な存在で、牧にとって春田は大好きな存在で、その特別な気持ちをごまかすことなく、茶化すことなく、否定することなく、素直に伝え合えることに、なんだか心をめちゃくちゃ動かされましたね。
不思議な話ですけど、自分自身も、大事な人に、大事だと伝えたくなった。あったかい気持ちというか。
おそらく、いつかの自分のなかにもあったであろう、誰かへの大切な気持ち……必ずしも「恋」にはカテゴライズしなかった、もしくはできなかったけど、特別な共感、そういうものがカタルシスとなったような。
大げさに言えば、そんなふうにも思いました。

個人的には、あのラストの続きは意外と、春田の方がどうしたらいいのかと、これで正しいのか、これでいいのかと困って、牧の方が苦笑いするような、そんな結末が待っているような気がするんですが(笑)
でも、あのふたりが、そうやってお互いに違うかもしれない、でも大切な、自分たちの気持ちに素直に向き合い続けていく姿を、もう少し見ていたいなと、ふと、そう思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?