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多面的だから愛しいの。

月はお好きでしょうか。
私はとても好きです。大好きです。

中秋の名月、みんなお月様upしてて愛おしかったですね。私もツイートしました。へへへ。


太陽は「燦々(サンサン)」、月は「皓々(コウコウ)」。

惑星の輝き方の名前も違うなんて日本語って美しいな、と白く浮かぶ月の光を浴びながら思ってました。


「雨の表現は400種類以上」とか、

「あーあ、明日も仕事だな」とか、

「白って、200色あんねん」とか。

いろんなことをぼんやり考えながら飲んだスタバの新作のフラペチーノがゆっくり溶けていきます。

雲の隙間から顔を出して目があったの。可愛いね。


月が好きなのはいつからだったろう、と思い返してました。

静かに夜を照らすからか、子どもの頃大好きだったあのエリックカールの絵本の影響なのか、地球を見つめながらくるくる回るいじらしさなのか、午前二時に望遠鏡を担ぎたくなるあの曲のせいなのか、あなたと同じ空を見上げることができるからなのか、な。

(月が回っているのを考える時、有村泰志さんの「月の散歩」を思い出して愛おしい気持ちになります)


10代で眠れない夜に何時間も月を見ていたことを思い出します。

オトナになるのが怖かった。
いつまでも子どもでいたかった。
「今」が「今しかない」と知っていた。

両親がいつか死ぬこと。
卒業したらこんな頻度では会えなくなる友達。
駅の近くでこっそり待ち合わせして手を繋いで帰った、制服姿の恋人との無垢で甘っちょろいおままごとみたいな未来。

周りに恵まれているはずなのにどこか寂しくて心に隙間が空いていて、でもそれを誰かに吐き出すことはできなくて、夜な夜な鉛筆で書いていた拙い小説やマインドマップ。悲しい出来事や辛い出来事。”私”に求められていること。生まれてきた意味。死んだらどこに行くのか。とか、ね。



色々勝手に考えて、不安に枕を濡らす日があるなんて言えなかったんです。期待に応えたかった。がっかりされたくなかった。一番弱くて柔らかい心を抱えていたあの頃、誰かに弱さを見せることや、さりげなく甘えることが、とても、とても、とても、難しくて。


"私らしさ"を探す私も、きっと、らしかったんだろうということに気付くのは、もっと、うんと、後になってからでした。



なぜ人は月が好きなのでしょうね。

「お月様」と、天体に様をつけて呼ぶのは月だけな気がします。「お日様」とか「お天道様」とはいうけど、「お太陽様」とは言わない。「木星様」も、「土星様」も。

我々が太陽に照らされて地球に生きているように、月にもウサギやカニや本を読む人がいるように見えてしまうなんて、なんだかロマンチックですよね。

暗い空に指針のように浮かぶ月が、毎日同じ面でこちらを見つめているなんて、人類はいつ知ったのでしょう。

私ばかり、月に後頭部も寝顔も見られててずるいな。

でも、月が私に一方向しか見せていないように、私も一方向の面しか見せてない人がたくさんいます。



人間って多面的です。
関係や立場や状況や、ときにはその日の気分で、その人が見せてくれる面は違う。

「優しい人だと思ってた」人を信じた結果、そうじゃなかったとしても、本当に「見る目がない」なんて言えるのでしょうか。だって、優しい面しか見えてなかったなら、優しい人だと思ってしまうのは仕方ないことじゃないですか。

人間が多面的であることを、誰しも知っているはずなのに、つい忘れがちです。
いま自分に見せてくれている顔こそが、"この人の真の顔"だと思ってしまう。自分だけが特別なのだと思いたい気持ちを、誰しもが抱えています。
「そんな人には見えなかった」人が、見知らぬ人に刃物を向ける世界です。


あの頃、月を見上げて眠れない夜を過ごしていた私の友達はきっと誰1人、私が感情を文字にして整理していたなんて、知らないだろうな。

いや、いま仲の良い友達も、私が美術館や博物館が好きなことは知っていても、こういう風に文章をしたためているなんて、思いもしないだろうな。



Twitterで、「ツイートとスペース(おしゃべりする機能)で印象が全然違う」と言われたことが多々あります。なんなら自分でもそう思います。

意図して変えているつもりはないのですが、なぜこうも差があるのか考えると、見えている面が違うからなのでしょうね。


SNSで誰かと話している時も、実際対面で誰かといる時もそうなのですが、仲の良い人の前では私は犬のようにはしゃいでしまうし、いつもけらけらと笑っているし、良くも悪くも「悩みなさそう」と言われたことは一度や二度じゃないし、人前で泣くのだって、映画を見た時くらいです。


でも1人のとき、こうして自分の心を文字に落とし込んでいるのも私です。
どちらも無理をしているわけはないです。どちらも自然体。多面的な私を、ほんの少し違う角度から見てるだけ。

ツイートは、”1人で思考を巡らせている私”で、
スペースは、”誰かといるときの私”です。

どちらも私なのですが、"1人の時の私"はどうやらとても恥ずかしがり屋。誰かといる時にはなかなか出てきてくれません。

リアルで仲の良い友人たちは、この"1人の時の私"を知りません。
まじめな話をすればその私がちらりと顔を出すこともあるれど、基本的にはどんなに仲良くても、”よそ行きの私”がしゃべっています。

これはその人を信頼しているとかしていないとかではなく、そういう私の生き方であり習性なんです。

でも、”ぐみたべる”を知っているあなたは、”1人の時の私”を知っています。

私の心の奥の奥、普段は日の目を見ない、私の思想や価値観や言葉を、ツイートだけでなく、こんなにだらだらと綴ってしまうnoteまで、あなたはこうして追ってくれているわけです。



あなたはいま私の心の一部に触れているのです。
くすぐったくて、嬉しいです。私の思想をなぞってくれてありがとうございます。



普段は人に見せていないような私の心を知られているから、"ぐみたべる"で人と交流すると、なんだか深いところで繋がっている気がします。

私の善も悪も知られていて、その上で受け入れられている気になってしまうのです。

仲の良い人が増えると、私のことをもっと知って欲しくなります。
アイコンを変えたのだって、”わたし"を認識されたいという欲求からでした。


どんな音楽を聞いて、どんな本を読み、どこに住んでいるのか、どんな顔をしているのか、知ってほしくなります。


知った上で、それでも好きでいてくれるのかな、という甘えているのでしょうね。

自分のカケラを見せることで、無意識に許容してほしいのかもしれません。

1滴ずつ、私を落として、あなたの色と混ざり合いたいのかもしれません。

正直なところ、リアルで”わたし”とめちゃくちゃに仲が良い友達に”ぐみたべる”を知られることよりも、”ぐみたべる”で仲良くしている人に"わたし"の名前を明かすほうが抵抗ないです。


でも、心のうち全部をお見せすることができるほど私は良い人間ではなく、数多の後悔やコンプレックスをぐずぐずに煮込んだ歪んだ部分もあるわけです。




自分でも見たくない部分は見せたくないし知られたくない。
多面的な私の、全部なんて見せられない。
でも、そもそも全部の面を見せれる人なんて、きっといない。



私はSNSの名前さえ自分の一部だと思っているし、私が関わっている誰かもそうかもしれないと思うからこそ大切に呼びたいけど、全員が全員そうではないことは知っています。



SNSの名前を性器をもじった名前にしてる人にとっては、なんのこだわりもないただの記号なんでしょう。


そしてそれはその人の価値観だから、理解できなかったとしても否定してはいけないと思うのです。私から見ればクレイジーな彼らも、どこかの誰の子どもであり、誰かの大切な人なのかもしれない。



ご存じの通り、私はめちゃくちゃに性格が良いのですが、基本的には口は悪い方だと思います。嫌いなものに対しては暴言のデパートみたいにすらすらと貶す言葉が出てきます。


丁寧そうに見える言葉遣いの鎧をまとい、口の悪さを隠しているだけで、上品や清楚とは程遠い生き物です。

それでも仕事中の私ときたら、後輩の言葉遣いや言葉選びを、さりげなくたしなめる日さえあるのです。弁えるべきTPOが存在する限り。

口が災いの元であり、わずかなニュアンスの違いだけで積み上げてきた信用が地に落ちてしまうことを知っているから。

「若いから」「知らなかったから」「そんなつもりではなかったから」では済まされないことがあるから。



好きな人たちへ向ける言葉は暖かく優しくありたいし、根本的には善人でいたい気持ちの方が強いです。

ただそれさえも、多面的な私の一面に過ぎないのです。


多くの人を愛し愛されたいと思いながら、「初めまして」で下半身を送ってくる人の「仲良くなりましょう」には一生寄り添えないし、欲しがってもないのに「あげる」とQRコードを送ってくる業者に心底辟易して消滅を祈ったりもします。心のギャルが舌打ちしながら通報→ブロック、通報→ブロックを繰り返すのです。(ちなみに私自身は舌打ちが下手です)




綺麗な言葉ばかりを残していけば、都合よくなにか"良いもの"になれる気がしてしまいます。

多面的なわたしの一部の闇を打ち消す、真っ白な光の部分ばかりになれる気がしてしまうのです。

ぬかるんだ校庭でも石灰をかければ白線は引けるのです。

光があるからこそ影が色濃く深く見えてしまうのでしょうか。それとも、影があるからこそ、照らされる光が暖かいのでしょうか。



たかだか人ひとりの人生の数十年で、あの頃は、と振り返る時間をどれくらい持てるのでしょう。

気付いていないだけで、パソコンやスマートフォンみたいに私の脳も、思い出を保存できる容量が限られているかもしれない。

死について考えたこともあったあの頃も、振り返ればその弱さ脆さも含め、楽しかった記憶も多いし、愛おしい日々ばかり。

人に言えないような出来事や、やり直せるならもう経験したくないような出来事も、すぎれば今の私を作る糧になっていると思えるんです。思いたいのです。
浅はかではない、深みのある人間に成長するためのものだったと。


リアルでもSNSでも、素敵な人と沢山関われて、私はとても幸せ者です。
人に恵まれることは、私の生まれ持った才能だといえます。

努力しても、人とのめぐりあわせは、偶然が折り重なった奇跡であり、必然的なタイミングで出会うべくしているという、運命的な何かが働いていると思っています。

こうして私の文章を読んでくれているあなたに出会えたことが、今日も私の身に起きている尊い奇跡なんです。
毎日の奇跡を感謝して、今日も大好きのハグを贈ります。



本日、9月26日は、一年の後半の始まりを告げる新月です。

新月は人々の願いや誓いを吸い込む真空らしいですよ。知ってましたか?

さて、私はわざわざ新月の日に満月の話をするようなひねくれを抱えているわけですが、そんなところも可愛いですね。

同じ真空に、ふたりで何を願いましょうか。それともなにか、誓いましょうか。

明日もあなたにおはようが言えるように。

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