見出し画像

さよなら27歳

先日誕生日を迎えて、28歳になった。 

世の20代後半は自分の誕生日のことをどれくらい意識するのだろう。

多くの人がメールアドレスやSNSのIDに誕生日ゆかりの数字を入れているから、当然意識してるものだと思っていたんだけど、どうやらそうでもないらしい。

同世代の友達にお祝いメッセージを送ったときに「今日自分が誕生日だったの忘れてたわ笑」とか、「いま何歳かわからない」みたいなことを返してくる人に対し妙な憧れがある。

飛行機の離陸に全く心を踊らせずに寝てる大人を見るような感覚。

大人ってつまんなそうだなと思うと同時に、クールだなあ、人生慣れてるなあっていう、あの種類の憧れ。

いや、みんなほんとは恥ずかしくてあんま言わないだけでめちゃくちゃ意識してんじゃないの?って思ってる。

私は正直誕生日を毎年めちゃくちゃ意識してしまう。自分の事が大好きな人みたいで恥ずかしいので本当はやめたい。

誕生日の1週間前くらいから意識してるし、誕生日前夜は大晦日のようにソワソワしてしまい、年越しさながら日付が変わる瞬間に時計を眺めてしまう。

だけど誰かしらからお祝いが来るまで、毎年「今日ってほんとに誕生日で合ってるよな」と新設された祝日を初めて迎えた時のような感覚に陥る。

元々私が人の誕生日や記念日を覚えるのが得意で、人よりも日付に対して意識が行きやすいからだろうか。

友達の誕生日の日付のことを「○○くんの日だ」と当たり前のように思う。

だから自分の誕生日近辺は、自分の地元がテレビ番組に取り上げられているような、いつもは自分だけのものがみんなのものになってる気がなんとなくするのだ。

誕生日をやけに意識してしまうのは、自身の誕生日が子供の頃必ず夏休みの日だったから、しかも前半だったから、というのもあるかもしれない。

人生ずっと小学生時代の7月下旬の夏休みのような気持ちで過ごしていたい。

誕生日が平日であることに慣れてないので、社会人になり普通に仕事をして過ごした初めての誕生日はなんだか不思議だった。

学生時代必ず誕生日がテスト週間とか、長期休暇の終わる日とか、そういう人だっている。大学入試の日が誕生日の人も当然いる。

そういう人は誕生日がそれほど待ち遠しくないのだろうか。夏休み生まれ、他の時期より誕生日意識してる説は提唱したい。

子供の頃、誕生日には毎年地元のフジグラン(イオンモールの下位互換みたいな施設)で夏に公開されるポケモンの最新映画を観て、昼は家族でマクドナルドを食べていた記憶がある。

実際この過ごし方をしたのは2,3回しかないかもしれないのに、ポケモンのどの映画を観たかの記憶もあやふやなのに、やたらとその印象がある。

親の手料理の方が手間もかかっており、きっと美味しかったはずなんだけど、たまに食べるファストフードは実に輝いて見えていた。

息子がマックがご馳走だと思ってて、子供の頃の思い出の味がてりやきマックバーガーって親から見たらこれほど切ない話はないだろう。

なんとも親不孝な少年であった。

あれから約20年が経過し、いまやマックが日常であり、家庭料理の方がほんとうに稀にしか食べられないものだ。今実家の晩ごはんを見たらご馳走だと思うだろう。

他には誕生日プレゼントの思い出である。

子供の頃誕生日プレゼントには、毎度ゲームソフトを買ってもらっていた。大抵誕生日の数日前には買ってもらう事が多かった。

で、なぜか「本当に誕生日を迎えるまでは、そのゲームをやらない」とかいう変な縛りを自分で設けていた。

でも我慢できずに先に説明書だけ読んで、想像で楽しんでいたりしていた。

これも多分2,3回しかやってないことだけどやたら記憶がある。誕生日に必要以上にわくわくしたり、待ち遠しさを感じてしまうのは、もしかしてこの体験が影響してるのかも。

そして28歳になったこと。

前の記事でも書いたが、私は母親が27歳で私を出産して親になっていることを、以前からめちゃくちゃ意識していた。ある意味20歳より「ほんとの大人」の基準にしていた。

その27歳を1年間体験した。

体験してみて一番思ったのは、27がまだ精神的には全然未熟で未完成な状態だってこと。

それと年齢と共に人は勝手に成長していくわけではないこと。

もう年齢と共に身体が着実に成長していくことはない。体重は変われど、身長は変わらない。

それに加え大人の人生に年齢別カリキュラムはない。

目の前で行われている授業のレベルが緩やかに上がっていき、定期的にテストで試され、気付いたら成長できていたあの頃と違う。

同世代で綺麗に並べられて競争させられることはもうない。

「高校入試に受からないと中卒になってしまう」、「大学入試に受からないと路頭に迷ってしまう」、「就活でどこかの企業から内定が貰えないと、フリーターになってしまう」

全部を通り過ぎた今、もうそんなに追い込まれることもない。今勤め先が倒産しても、あの頃ほどの追い込まれ方はしない気がする。

あの頃は全部後がない、負けの許されない勝負だと思っていたし、思わされていた。ほんとは違ったのかもしれないが、王道に沿ってると生きやすかった。

そんな強制的に成長させられるイベントが無くなっている代わりに、ノーストレスで生きられている。

就活が終わり、人生を懸けた勝負に半強制参加はさせられなくなってから約6年。

そんな27歳を過ごす中で、自分はまだ人生を利己的に楽しみたいと思い続けた。この話題は前回の記事で散々書いた。

27歳の1年間は「この歳で親をやってたのってどんな感覚なんだろう?」「母は妊娠が分かった時、全面的に嬉しかったのかな?」「働くことに慣れては来たけど、まだ到底家族を背負えるような仕事ぶりではないな」とかをたまに意識してしまう1年間だった。

そんな哲学的なことだけではなく、「今の資産状況で子供の就職まで不自由なく支援できるのか」「今の時代は父親も仕事前に子供の弁当作るのかな」なども頭をよぎってしまった。

周りが着実に結婚していく。王道に沿わないと理由を求められる。

既婚者が多数派を占めるようになったグループでは、まるで自分だけ歳下で混ぜてもらっているような感覚になる。そのことが嫌とかは特にないんだけど。

好き好んで今の人生をやってるつもりだけど、「満たされない人」や少なくとも「変わった人」な感じでいた方が、世の秩序的に良いんだろうなという気もする。

時にニュースでは私より歳下の人が「親の責任」を問われていたりする。最近見たのだと母親は21歳だった。

大概そういうのは育児放棄など許されざる話題なのだが、私はそれを真っ向から批判して良い立場にいるのだろうか。

私は現状責任を背負いたくないし、その覚悟もない。だから大きな責任と向き合わなくて良い人生を選択している。

そんな責任から逃げてるような人間が、人の責任のことは一丁前にとやかく言えるのか。

責任が持てないなら子供を産むな、これはそんな乱暴な結論で終わらせて良い議論なのだろうか。

そんな27歳が終わった。

27になる前から薄々分かっていたことだけど、子供の頃ずっと目の前にいた大人である両親とは、これから全く違う種類の人生を歩んでいく。

28はそんな真新しい人生の第一歩。

これからの人生家庭を持つかもしれないし、持たないかもしれない。

仮に家庭を持っても、それは自分がいた家庭とは全く違うものなんだろうな、当たり前だけどそう思った。

さよなら27歳。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?