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子守唄

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母の声が階下から聞こえてくる。
「紗英ちゃん、起きなさい。朝ご飯よ」
時計はまだ八時だ。

カーテン越しの朝の光は、晴れているのか曇っているのか、わからない。私の部屋の窓が西向きで、隣の家と壁がつきそうなほど隣接しているためだ。
日曜日の朝に、外の天気を気にしても仕方ない。用事があるわけでもない。
でも、今日がよく晴れた日なら、一日は憂鬱でしかない。こんな退屈な日曜日を過ごすのは、私だけだと思ってしまうから。
私のそんな気持ちなどお構いなしに、母はまた私を呼ぶ。
「紗英ちゃん、お父さんが早くしなさいって」
嘘だ。父はそんなことを決して言わない。母は言いにくいことを家族のだれかのせいにする。親戚や近所の奥さんにもよくそんな言い方をする。
「あぁ」
と意味もなく声が出る。
食卓に年老い始めた両親が、三十になろうとする娘を待っている。カーテンを開くと、空は薄曇りの初夏の朝だ。
父は朝刊とニュース番組を交互に見ている。
母はそれぞれのご飯を茶碗によそう。
食卓に私が座ると、
「紗英、またパジャマのままなの?おかしいわね。ね、お父さん」
と言う。父は新聞に目を落としたまま何も言わない。
「いただきます」
私は、わざと大きな声で言うと、味噌汁を飲む。
母親は近所の奥さんから頂いた、わさび漬けを食べろ、としきりに言う。私のタイミングなどお構いなしだ。
朝からずっとうるさいだけの母に、苛立ちが喉まで出かかる。でも、口に出したら余計に面倒なことになる。私はたいして食べたいわけではないわさび漬けを、箸先でつまみ上げた。母は、
「そうだ、洋輔が遊びに来るって」
と3年前に結婚した弟のことを言う。洋輔は大学卒業と同時に、できちゃった婚をした。
「海斗くん預かって欲しいって」
「何で?」
海斗は、三歳になってから急に生意気なった。預かるということは、私が面倒を見るということだ。
「イベントって言ってたわ。何だかのイベント」
どうせライブハウスだ。
洋輔は大学時代からバンド活動をしていた。お嫁さんも同じバンドでキーボードを弾いている。たいして上手いわけでもないし、コピーばかりでオリジナル曲もほとんどない。
「何歳までライブ活動続ける気なのかね」
私が言うと、母は、
「いいじゃない、ライフワークなんでしょ」
と笑う。洋輔が結婚するときには、バンド活動も含めて散々反対していたのに。
『うわっついてるのよ』
と、洋輔に向かって叫んでたじゃない。それに、海斗を可愛がる割には、持て余してすぐ私に子守を押し付けて逃げる。
母は、
「お昼頃、海斗くん置いて行って、夜10時頃に迎えに来るって。明日は保育園があるから寝かせておいてだって。紗英ちゃんは、どうせ家に居るんでしょ?」
と言う。私は小さく「うん」と答える。早く食べ終わらないと、また母が余計なことを言い出す気がした。ご飯を頬張り、味噌汁のお椀をお持ち上げると、
「紗英ちゃんは、デートの約束とかないの?」
ほら来た。TVを見入っていた父親が、ふいに私を見る。つい苛立つ。
「うるさいなぁ、人のプライバシーに無神経に踏み込んで来ないでよ」
父も母も、少しうろたえたような表情をした。母は、
「紗英ちゃんにも早く幸せになって欲しいだけよ。ね、お父さん」
母の話がこれ以上長くなる前に、私は茶碗を流しに運ぶと自室に戻った。

昼過ぎに、弟たち一家がやって来た。
海斗は、
「紗英ちゃん、こんにちは」
と笑う。『紗英おばさん』と呼ばれそうになったのを必死に止めて、『紗英ちゃん』と呼ばせたのは、私だ。
洋輔とお嫁さんは玄関先で海斗を預けると、すぐに出て行った。私たち家族は、あまりお嫁さんと話さない。海斗とは親しいが、お嫁さんとは距離感があった。でも、その方がお互いに気が楽だ。
海斗は居間にリュックを放り出すと、ジュースをせがむ。母は、
「海斗くんとファミレスに行ったら、帰りに近くの森林公園の子どもプールに連れて行って遊ばせて」
と私に言った。

母が決めたスケジュールに従って、今日が過ぎて行く。森林公園で海斗は水遊びを始める。「紗英ちゃん、水鉄砲におみじゅ入れてよぉ」
待ち切れない様子で、海斗は私が水を入れるとすぐに、私の手から水鉄砲を奪っていった。そして少し離れると、私をめがけて水鉄砲を撃った。私の顔に水が跳ね返ると、海斗は声を上げて笑った。

木漏れ日が降り注ぐ。木々の緑が、なぜか懐かしい思い出を蘇らせる。
恋をしていたのは、もう二年も前だ。その彼は結婚していたから、不倫ってことになる。でも、私たちが始まったのは彼の結婚より一か月前だったし、彼は最後まで彼女との結婚を迷っていたわけだから、一般的な不倫とは違う。彼は、上司にまで出していた結婚式の招待状に勝てなかっただけだ。
結婚式で彼女を見たとき、私の方が魅力的だと思った。

彼との関係は、結婚式後も続いた。彼は、
「一年経ったら離婚するから、待っていて欲しい」
と私に言った。
私たちは、会社帰りの代々木公園で何度もキスをした。デートが出来ない日も、キスだけして別れた。
見上げると、木々の隙間から暗い空が見えた。そして、この暗さが私たちの日常のようになった時、彼に『子どもが出来た』と聞かされた。
彼は、泣いていた。
泣きながら、私に謝った。
私も、声を出さないで泣いた。
彼との結婚を、夢見ていた。二人で泣きながらキスをして、明日も会う約束をした。私は結婚という形にこだわるのを辞めようと思った。
でも、翌日、彼が上司と嬉しそうに子どもの話をする姿を見て、これ以上何もないのだと悟った。
自分が惨めで可哀想だった。自分の素直さに負けてしまったと思った。それで終わった。
今ごろ、彼の子どもは一歳と少しだから、こんなふうにプールで遊んでいるのだろうな。

私は、あれきり自己嫌悪から立ち直れない。
時々思うのだ、どこかで、彼と彼女が別れないことに気が付いていたんじゃないか、どこかで、自分が人の物を奪い取る優越感に溺れていただけなんじゃないかと。
水面が光を反射して揺れた。こんなこと、きっと私だけが考えている。彼は、子育てに夢中だろうか。

海斗が泣き出した。
滑って尻餅をついたようだった。近くにいた、女の子の母親が海斗を抱きかかえてくれた。「すみません!」
私が近づくと、
「あら、お母さん来てくれたよ」
と海斗に声をかける。海斗は私を見ると、
「違うもん、紗英ちゃんだもん、ママじゃないもん!」
と、いっそう激しく泣いた。慌てて私が抱きかかえると、
「ママは!ママは!」
と叫ぶ。
「ママはお出かけでしょ?」
と声をかけると、海斗は急にケロっとして、
「紗英ちゃんは、なんで結婚しないの?彼氏いないの?」
と大声で聞いた。今プールにいる全員に、見られてる気がした。いたたまれなくなった私は、海斗を抱き上げるとプールを後にした。

木漏れ日の中を、海斗と二人で手をつないで歩く。
海斗は『結婚』も『彼氏』も、言葉の意味などわからない。これは、弟たちの会話だ。私の結婚のことなど余計なお世話なのに、私という人間を話題の俎上に載せるときは、私の意志とは関係なく、私の結婚が話題の中心になるのだろう。
「結婚か」
と声に出してみる。海斗が私を見上げて、
「紗英ちゃん、結婚する?」
と質問する。
「…しない」
私が言うと、
「ふぅん」
と興味なさそうに返事をした。

自己嫌悪を抱え続けたままで次の恋など出来ない。結婚なんてさらに遠い。
もし、私があの時、不倫によって生み出される甘美で切ない気持ちに溺れていたとしても、それは私自身を守るために必要なことだったんじゃないか。これ以上、意味もなく自分を責めても仕方ないんじゃないか。

私は、海斗の手を強く握る。小さな掌は、びっしょりと汗で濡れている。海斗は、ただ歩いている。子どもの行いは、なるがままで素直だ。

私も、あの想いを手放して忘れたらいい。なるがまま、とにかく未来だけを見つめてみよう。その先にある答えは、結婚でなくてもいいのだから。誰かに流されていても、答えは見つからない。

森林公園をぬけて、大通りのガードレールを歩く。
ガードレールの横の通りから、父と母が顔をだす。海斗が、
「おじいちゃんとおばあちゃんだ」
と言い出すと、私の手を振りほどき駆け出した。
父の更紗の紺色のシャツと、母の麻の水色のワンピースが、風にふくらむ。海斗は髪を逆立てて、そのふくらみめがけて全力で駈けていく。

私も、白いシャツを膨らませて走る海斗のあとを追いかけた。

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