グラジオラス

唐菖蒲

※最後まで無料です。


空気が動かない。空を見上げても重たい水蒸気を含んだ雲に覆われている。

時折、雲の隙間から太陽が光を反射させてアスファルトに熱を送り込む。熱を吸収したアスファルトが、空気を熱くする。熱くなった空気は、あたりにある水分とともに上空へと還ろうとする。 

その熱い透明な塊が、私の頬と重なる。首のあたりから汗が滴る。汗を拭うタオルも湿っていて、拭うことに意味などなくなっている。


数メートル先の、グラジオラスの赤い花の群れ。その生垣の向こうで、彼が待っている。ためらいが私の内側から湧き上がり、それと同じだけの高鳴りが湧き上がる。


何もないと思っていた、あの頃に帰りたい。


あの頃は孤独だった。

孤独という言葉を、本当に孤独な人間は使わない。強がって大丈夫なふりをして、必死で立っていないと、飲み込まれてしまう。孤独という言葉を口にして、気が付いてしまったら捉えられてしまう。それに屈して孤独から逃げたら、もう一度強がる自信は、私にはない。 

だから、孤独でよかった。強がって空を睨んでいれば、それでよかった。


もう強がれない。もう空も睨めない。

私はこの高鳴りと引き換えに、二人で生きる孤独を手に入れる。


グラジオラスが揺れる。あの人の暖かな眼差しが、燃えるようにそこにある。


彼は、私を招き入れる。彼の部屋には、何もない。生活が消え去った古い家は、さびしげに佇んでいるだけだった。


「全部持ってかれた。家財道具一切に、可愛い娘たち。それと、生活の中にある俺なりの歴史のようなものも全部」 

彼は目尻に深い皺を刻みながら、笑った。

「そして、君が来てくれた。全部失くしても一番大切な君」

愛しそうに両手を広げて彼は私を抱き寄せる。

「気分はどう?」

抱きしめた私の髪に、彼が囁いた。

……私は孤独を捨てて来た。あなたと二人の孤独を選んだ。それはどんな人生よりも恐ろしく、そして魅力的だった……

心の中で響く極めて冷静な私の言葉が、彼に聞こえるはずもない。私は何も言わないで、彼の鼓動を聞いてた。 

彼は私の頬を包みこむと、口づけた。柔らかな唇が、不安を消してくれる。こうして、いつも乗り越えて来た。

今日からは、ただ安心するための行為に変わる。彼の手が私の白いブラウスの上に伸びてきて、息づかいが速くなる。青いスカートから私の脚が露わになる。 

「君の全部が、綺麗だ」

彼はそう言いながら、私を膝の上にすわらせる。庭に面した硝子戸越しにグラジオラスの群生が見えた。彼は、私の耳に口づける。

「グラジオラスが、今年も綺麗に咲いている。燃えるようないい赤だ」

ブラウスのボタンが丁寧に外され、彼の大きな手が私の胸を覆う。心のどこかで、このグラジオラスは彼の奥さんが植えたのだろうか、と不安になる。彼の指が大きく円を描くように、私を探り当てた。 

「俺が手入れして群生させた。赤い花と木製の硝子戸の色彩が、夏の暑さを余計に掻き立てる。今日の君の青いスカートに良く似合う。そして、君の白い肌にはもっと似合うと思う」

彼は、しだいに甘えるような口調でそう言った。私は『全部脱いで、君を全部見せて』そう言われたような気がして、彼の唇を指先でなぞる。


体が宙に浮いたように、私は立ち上がる。青いスカートが床に滑り落ちた。

私はグラジオラスを眺めながら、ブラウスを脱ぎ捨てる。背後から、彼が私を包む。

何もかもが孤独と引き換えに、ここにある。むせかえるような、赤の群れに酔いしれる。このグラジオラスに水を撒き、雑草をむしる彼の姿が見えた。汗が滴る彼の額や眉間の皺、まだ咲かない青い葉を見つめる彼の瞳を、私は知っている。

それは、私を見つめる彼そのものだ。だから、彼が手をかけた赤い花たちは、私に似ている。 

木製の重たく見える木枠には、収まりきらないほどの赤い花が咲き誇る。

まるで空を突き刺すように、咲き誇っている。

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