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紫陽花の季節

紫陽花の花言葉に、「移り気」や、「浮気性」というのがある。
紫陽花には、他にもたくさんの花言葉があるのだけれど、この言葉は特に印象に残っている。いいえ、本当はこの2つの以外の花言葉は覚えていない。

私が学生だった頃、あまり美しいとはいえない2,3歳年上の女性がいた。彼女とは、同じアルバイトをしていた。


ある日、探していた本を彼女が貸してくれると言うので、彼女のアパートを訪ねた。彼女はアイスコーヒーとともに、その本をテーブルの上に出した。テーブルとベットと本棚、それ以外、何も無い部屋だった。そして、色彩がない部屋に見えた。若い女性の部屋には見えないのに、その人の雰囲気には合っているように感じた。
そして、閉め切った窓はベージュのカーテンで覆われていた。そのカーテンの端に、やはりベージュの紫陽花のドライフラワーが、逆さまにぶら下がっていた。何も無い部屋で、所在なくしていた私は、その紫陽花のドライフラーに目を止めた。すると彼女は、そのドライフラワーをカーテンから外すと、自分の顔の近くに寄せて、紫陽花の花言葉を口にした。
「移り気」も「浮気性」も彼女に似つかわしくない。私は返す言葉が見つからず、ぼんやりとその人を眺めていた。


次の日、アルバイト先で彼女から本を貸してもらったことを、パートのおばさんに話した。すると、そのおばさんは小声で、
「あんな人と付き合ったらダメよ!」と言った。
「あの子、誰とでも寝るって有名なのよ!」
「この間なんて、二人同時に相手したとか…」
クラクラした、彼女の紫陽花とおばさんの言葉が一致してしまった。
おばさんは、「あの子は、自分が侮辱されてることに気付いていないバカな女よ」と最後に吐き捨てた。
私は、慌てて彼女に本を返した。


冷静に見つめると、彼女は何か一つ感受性が欠けている、ある種の鈍さを身に付けているような表情をしていた。それは、彼女自身が本当の自分を見ない為の装置なんだと、私には思えた。


紫陽花の紫色には、アントシアニンが含まれいて、土壌によって色が変化する。
土壌が酸性の時には、花弁が青色になり、アルカリ性の時には、赤味が増すという。

今思えば、彼女の立っていた場が、彼女を余計に孤独にしていたのだと思う。場が違ったのなら、彼女の表情はもっと研ぎ澄まされていたように思う。あの時の私には何も分からなかったけれど。

紫陽花の季節になると、ふと思い出す。
彼女の名前も顔も、借りた本のタイトルも思い出せないのに、ただ、紫陽花のドライフラワーを少し背伸びして取っていた、ふくらはぎの白さだけを思い出す。


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