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弾性率

 風を蹴っ飛ばすように歩く。空気を切り裂くようにアスファルトを蹴る。

 秋の夕方の空は群青色で金星が遠くに光る。炭色の雲が空いっぱいに千切れて、群青色を横切る。私はアスファルトの上から街並みより少し斜め上を見つめるように歩く。長い坂道を登っている脚に力がかかる。そのせいで空に視線を送っているような気もする。

 でも、本当は違う。この坂を登りきった十字路を左側に曲がった突き当たりに李理央さんの工房があるからだ。坂を登りきらなければ李理央さんの工房の灯りが見えない。私は空を見てるふりをして、うんと背伸びをして李理央さんの工房の灯りを確かめようとしている。

 李理央さんはたぶん、40歳ぐらいだ。金属加工の工房で朝から晩まで1人で仕事をしている。鉄屑が床に散らばり、金属を焼いたような臭いと、オイルの臭いの中で暮らしている。私は李理央さんに金属加工をしてもらったことがある。それは私の名前をひらがなで真鍮に切り出してもらったものだ。『まりあ』と書かれた金属文字は繋げてストラップにした。

「『あ』はちょっと大変だった。」

 李理央さんは静かに笑顔をつくるとそう言って、私の手のひらに小さなひらがなを乗せた。いつから好きになったのかは憶えていないけれど、そのひらがなを受け取った時はもう好きだった。それから仕事の帰り道に、李理央さんの工房に遊びに行くようになった。

 李理央さんは、いつも汗だくになりながら金属と格闘しているように見えた。激しい機械音と金属を切断した瞬間に訪れる静寂。李理央さんの深い呼吸の音が終わりの合図だ。突然、柔らかい表情をつくると李理央さんは、今、切断された金属を持ってくる。

「人工衛星の翼を留めるネジ、こんなたった一個の部品の重さとか、削る厚さ数ミリで、人工衛星の滞空時間が決まっちゃうんだよ。俺のネジを積んで銀河の果てまで旅するのか、それとも大気圏の境目で宇宙ゴミとなって地球の周りを漂うのか…なんて考えるとさ、ネジ1本もさなんだか色っぽいだろ?」

 少し潤んだような切れ長の瞳はネジをジッと見つめて、私はその横顔をじっと見つめた。李理央さんの指は鉄色でゴツゴツとしていた。その手は、色っぽくて卑猥だった。それから、李理央さんが真剣に金属と戦ってる時の少し冷酷な表情も狂気じみた色気を放っていた。卑猥と色っぽいは表現が違うけれどおんなじだ。こんなのは本能だ。好きとか愛してるとかの方がずっと陳腐で嘘臭さかった。私は自分の思いは言葉に出来ずに、唾を飲み込んだり、呼吸が少し荒くなったりしていた。

 だからとかではないけれど。この夏、真夏の暑い日に李理央さんとセックスをした。

 そのセックスで、私の体は自由にさせてもらえなかった。腕にも脚にも固く麻紐が括り付けられていた。手首は痛かった。足首は広げられるとさらに痛みがました。私は声をあげていた。自分の声と油蝉のうるさい程の鳴き声が混ざり合って、私の声は一層激しくなった。それが痛みのせいなのか、喜びのせいなのか今も分からない。

 工房の鉄の扉を押すと引き攣れた音をたて扉が開く。その音をベルの代わりにしているのか、李理央さんは機械のスイッチを切って入り口を見る。それが私だとわかると、機械音は再びうなり、李理央さんは手元に視線を戻す。

 私は工房の給湯室で、李理央さんと自分のために珈琲を入れる。珈琲豆も珈琲メーカーも、私がずっと前に勝手に持って来たものだ。珈琲豆は、李理央さんが常連のカフェジュジュのオリジナルブレンドだ。給湯室に珈琲の香りが立ち込める。機嫌のいい日は、李理央さんはコーヒーを取りに来る。悪い日は来ない。来ない日は、何も話さない。そして、今日は来ない。

 いや、セックスをしてから来たことはない。

 私はコーヒーを淹れて、その横にジュジュのサンドイッチを置くと給湯室を出た。何も話さない李理央さんに、

「ジュジュのローストビーフのサンドイッチがあるから食べて。」

そう、声をかけてみる。李理央さんは片手をあげる。目線は手元のままだ。この間までは、1時間でも2時間でも待った。簡単な言葉も掛け続けた。簡単な言葉は私の独り言みたいになって空間に吸収された。何度そうしても李理央さんは私を見ようとしないので、諦めた。

 私のことが嫌いになったの?

 それとも好き?

 ねえ、愛してる?

 心の中にそんな言葉がいくつも浮かび上がったのは、セックスをして次に会った時だ。何も言わない、近づくことも許されないような距離感が、いきなり李理央さんの周りをぐるりと張り巡っていて、その距離を埋める方法がわからない。それから変わらない。心の中の李理央さんへの言葉はだんだん無気力になって、無機的になって、油蝉が消えた頃に同じに消えた。

 だから、今はコーヒーを飲んだら、私は工房を出る。

「また来るね。」

 そう言うと、李理央さんは頷いて手を上げる。私の顔を見てくれないけれど。もう来るなとか来ないでくれと言われたらもう行かないのに。そうやって手を振るから来てしまう。

 外はすっかり日が落ちて、肌寒い風が通り抜ける。私は背中を思わず丸めると、たすき掛けのショルダーバッグから携帯を取り出した。

 私は真っ黒い、紐で編み上げて止める革靴を履いている。「なんだかくたびれたサラリーマンみたいな靴ね。まりあに似合わない。」会社の同僚の裕子にバカにされた靴だ。センスゼロの裕子にバカにされてもいい、だって私は時間があれば坂道を登るし、こうして坂道を駆け下りるから。

 秋風にカーキ色のロングスカートが揺れる。グレーのスウェットパーカーの帽子に追い風が当たって、パーカーをかぶっているみたいになるけれど、構わない。坂道を下り切ったら、握りしめていた携帯電話から電話をする。金曜日の夜だし。意味のない言い訳を心の中でする。

「須藤くん?今、終わった。うん、これから行くね。うそ!シチュー?寒いしいいね!ビール買ってく。」

 須藤くんは、いつものように定時で仕事を片付けて、マンションに帰っていた。高校時代の同級生で私のことを、高校を卒業しても、大学入学で上京しても、それからそれぞれ就職しても、ずっと好きでいてくれた。たまたま就職先がお互いにこの海沿いの街だったこともあって、昔よりずっと頻繁に会った。私はずっと、須藤くんとは友達でいるつもりだった。須藤くんは、恋人にするには何か足りなかった。

 あの日、李理央さんに向かって2時間近く、会話にならない言葉を投げかけた日、あんまり悲しくて、私は須藤くんに電話をした。人気のない、海沿いの公園で泣き続ける私の髪を黙って撫でてくれた。

 ふと、申し訳ない気持ちになって須藤くんの方を見たら、須藤くんの顔が目の前にあった。

 須藤くんは、私を抱き寄せるとキスをした。泣き過ぎて虚脱していた私は、自然にその唇を受け入れていた。

 須藤くんは我に返ったような顔をして、「ごめん。」と言った。

「キスしておいて、ごめんは失礼じゃない?」

 とっさに不機嫌な顔で私が言ったら、こんどは、全身の力を込めて私を抱きしめ、長いキスをした。お互いの舌を絡み合わせるようなキスだった。

 須藤くんの舌の上のザラザラした感触と私の口の中にツラツラ流れ込んできた透明な唾液、私は何度も須藤くんの唾液を飲み込んだ。須藤くんは堪えるみたいに私を強く抱き締めた。社会人なのに少年のように堪えていた。そうされて、堪えるのが辛くなった私は、須藤くんの唇に今度は自分の舌を差し込んだ。須藤くんはもう堪えなかった。

「うちに来て。」

 精一杯の言葉。

 2人でぼんやりした感じで、そこから歩いて10分くらいの須藤くんのマンションに着いた。

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