パラレルスペック
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ここ数日、雨が降り続いている。
街の湿度がどんどん高くなり、俺のアパートの壁紙も水分を含んで質量を増す。ベッドの布団も、俺の汗と湿気を纏って重たい。
もう昼過ぎだというのに、俺はこの重たい布団から出る気がしない。頭の片隅で一限の心理学の講義に出席しなかった事を思う。確か、先週も休んだ。なんであの講義を一限目に取ったんだろう、あの教授が出席にうるさいのも聞いていたのに。
四月から始めた塾のバイトのことを思う。バイト終わりの時間が、思っていたよりも遅かった。仕事に慣れるほどに知り合いも増えていき、余計に帰宅が遅くなった。 昨日も、この部屋に戻ったのは深夜の2時だ。
理乃がこの部屋に遊びに来たのは、10日も前だ。バイトではよく会うのに、この部屋にはもう10日も来てないんだな。俺は枕に顔を埋め、わずかに残る理乃の髪の香りを探す。思い切り吸い込むと、遠くに理乃の香りを感じて、少しホッとして起き上がった。
「藤本、おまえの授業さ、前も注意したろ!この因数分解は、もっと量を増やせよ。こんなんじゃ足りないだろ。この程度の量で次の2次方程式に進めるのかよ。一日だよ。生徒たちの頭に定着してるのは。来週の授業では、半分以上の生徒が定着してないよ。そしたら、もう一回授業やるの?期末までに、授業日数たりねえ。」
専任講師の柴田は、俺と3つしか変わらないくせに、いつも偉そうにしてる。この塾に中学生の頃から通って大学生からバイトを始めて、そのままこの塾に就職したらしい。説教が細かく煩い。俺は、仕方なく返事をする。
「いや、だから、…宿題で補おうと思ってます」
こんなの難癖だろ。そんなに長くこんな簡単な因数分解なんかやらせてたら、落ち着きのないガキどもは、飽きていたずらを始める。その先の授業は騒ぎを収めるための時間を取られるんだ。俺の気持ちを見抜いたのか、柴田の声に力が入り、声がいちだんと高くなる。
「あのさ、基本は授業時間内にどれだけ定着させるかなんだよ。授業中にマスターできないことを、どうやって生徒たちが自宅でできると思う?答え見ちゃうよ。答え見て、写して持ってくるだけ。そんなことでは学校と同じだろ。俺らは、得点を取らせるために何をやらせるかなんだよ。とにかくダメ。今日の藤本先生の授業は見学させてもらうから。しっかりカリキュラム立て直して」
柴田がそう言い終えると、扉が開いて理乃が入って来た。柴田は嬉しそうに理乃を見る。
「理乃ちゃん、昨日、高田先生が褒めてたよ。授業の展開が素晴らしいって!」
理乃は嬉しそうに柴田を見つめる。
理乃は、どんな男と話す時も瞳をうるます。無意識なのかもしれないが、それは男を誤解させる。
そういう瞳は、俺と二人の時だけにしろよ。
ひとしきり理乃を褒めちぎると、柴田は俺を振り返る。
「あの子はいいね。素直だし、かわいいし。生徒にも人気がある。おまえも頑張れよ。」
柴田は、俺の肩をぽんと叩くと行ってしまった。
バカめ、理乃は俺と付き合ってんだよ。そんなことも見抜けないで子供たちのなにを見てるつもりなんだよ。
俺は柴田の背中に悪態をつくと、授業プリントの作り直しを始めた。理乃はコピー機の前で、講師たちと話している。気になるけど、構っていられない。
授業が終わると、柴田のダメ出しを10分聞かされた。そして、来週の授業前に今日より一時間早く出るように言われた。授業時間外の時給は安い。柴田は、
「いい授業してもらうための高い時給なんだよ。授業のための努力はしてもらわないと。おまえの代わりにバイトしたいって学生はたくさんいるぞ。」
柴田は俺と話しながら、スマホの画面をタップして笑った。自分の態度は、それでいいのかよ。俺とおまえの違いは一体なんなんだろう。そう思いながら、『理乃、俺の部屋に来ないかな』なんて事を考えてる。俺は時計を見る。理乃の授業終わりを待つ。
外の雨は一層激しくなり、教室から出て来た生徒たちの声が雨のなかに吸い込まれて消えた。雨にうたれて、エナメルのように光るアスファルトを蹴って、男子生徒の塊が街灯めがけて駆け抜けていった。
理乃は俺を見ると笑いながら手を降った。手には二本のペットボトルを持っている。
「はい、藤本先生はコーラですよね?」
いたずらっぽい笑顔が、俺をホッとさせる。理乃は、
「雨すごいねー」
と、窓の外を覗き込んだ。理乃の細く長い指が、ペットボトルの白い蓋を回す。無色透明な炭酸水のボトルを唇に当てると、小さく一口だけ飲み込んだ。
「今日、うち来るか?」
俺がそう言うと、炭酸水で濡れた唇が微笑む。
「着替えがないもん。藤本くんのアパートのたどり着く前に、洋服が濡れちゃうでしょ」
乾かせばいいじゃないか。と喉まででかかってやめた。
「それに、柴田先生が陽子と私を車で送ってくれるって」
理乃は嬉しそうに言う。おかしな焦燥感に捕まる、一瞬で余裕をなくした俺は口調が尖る。
「今日、柴田のヤローが理乃のこと褒めてた。その柴田のヤローが理乃を車で送るって、それはどういうこと?」
と思わず問いただす。
「僻んでるの?英語の高田先生も一緒だけど?女性三人だし、私は自宅だし。」
更に怒った理乃は、俺よりもっと尖った口調になった。俺は慌てて理乃に謝る。理乃に嫌われるのは嫌だ。なんとか不機嫌の理由をわかって欲しくて、柴田の説教の愚痴を理乃にした。
「なんかさ、教育産業って、教育理念のかけらも無い気がするんだ。得点取らせるためのテクニックを教えられた子供達はどんな大人になるのかな?と思って」
理乃は、とても冷淡な表情をした。
「この塾出身の慶応大教授、大沢総一郎とか、タレントの水野麗華とか?あと社会学者の古川智人とか?みんな教育産業出身じゃない?それに、私もあなたもよ」
俺はうつむく。
「否定ばかりしていたら、人は成長しないよ。それに、テクニックを本当に自分のものにする人と、表面だけに囚われてしまう人の差は、どれだけ素直に掘り下げることが出来たかじゃない?それをきっかけにしか過ぎない塾のせいにするなんて、考えが短絡的じゃない?」
何も返す言葉が見当たらない。沈黙を破るように理乃が続けた。
「私は、柴田先生の考えが合ってると思う。」
雨は更に激しさを増す。
「俺たち、何なんだろうな?」
理乃は炭酸水を飲むと「わからない。」と言った。
「明日かあさっては、俺の部屋に来る?」
理乃は泣き笑いのような顔をして、もう一回、「わからない」と言った。
理乃は、簡単に俺と付き合った。
可愛いのに簡単に彼女になって、簡単に俺と寝た。
簡単な軽さが俺を不安定にさせた。潤んだ瞳が俺を焦らせた。
簡単な簡単な簡単な女は、大人たちに評価されて瞳を潤ませて、みんなを簡単にその気にさせる。
俺もだ。簡単に堕ちた。そして、簡単に、何かのついでみたに、簡単に終わりそうになってる。
まるで、何にかに仕組まれたゲームみたいだ。そしてこのゲームには、終わりがない。生徒たちを受け持った限り、姿を消すわけにいかない。簡単に消え去れない。
理乃は俺より大人なんだろうか、理乃の心はいつから終わっていたのだろうか。
「わからない」
雨に打たれながら、どこかで来週の2次方程式の出題方法を考える。
雨に流されて、2次方程式を頭に思い浮かべると、今は忘れられる。
理乃にメールをするタイミングを思う。
遠くに、高い鉄塔につながれたパラレルな送電線が、雨に打たれているのが見えた。
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