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家族の風景

合鍵をドアノブに差し込む。鍵を廻そうとすると、少し圧力がかかり重くなる。そして金属のこすれ合う音がして、滑らかに廻った。鍵を引き抜くと、誰もいない家の玄関の扉を開ける。

誰もいるはずがないのに、「お帰りなさい」、母親の声が聞こえる気がする。
「ただいま」とつぶやくように言うと、カバンは玄関のマットに置きっぱなしで、洗面所に向かう。
適当な手洗い、母親に見つかったら絶対に「もう一度洗い直しなさい」と言われるだろう。今はそれよりも喉が渇いてる。
冷蔵庫のドアを開ける音が、誰もいないキッチンで響く。洗いカゴにふせてあるグラスに、ガラスポットの麦茶を勢いよく注ぐ。グラスを手で掴んだ瞬間に、もう喉が潤った気持ちになる。喉の音をたてるように、麦茶を一気に飲み干す。グラスもガラスポットも、水滴で曇る。ガラスポットの水滴を意味もなく指でなぞると、ガラスを伝ってテーブルに水の跡が残る。

足元に飼い猫のミーコがまとわりつく。僕の顔を見ると鳴いた。
綺麗に片付けられたキッチンには、猫が食べられるような物はない。二階の猫の出入り口のトレーに、水が置いてあるだけだ。
鳴いているミーコを抱き上げる。チャコールグレーの縞模様の首の辺りに、鼻を押し付けて匂いをかぐ。外で遊び回っていたミーコは、自由のいい匂いがする。
「お腹空いたの」と聞くと、鳴きながら体をよじらせて、僕の腕から床に飛び降りた。棚の上に手を伸ばすと、缶の中に煮干しの袋がある。それを取り出すと椅子に座って、僕とミーコで食べる。ミーコは僕が床に落とした煮干しを二つ三つ食べると、もっと欲しいと鳴いた。

僕が声変わりしたのは、中学二年の夏の終わりだった。
父親が「やっと声変わりしたの?」とバリトンのいい声で、笑いながら聞いた。僕は曖昧に笑う。母親がパートに出ると言い出したのも、その頃だった。不動産会社の知り合いに、事務員を頼まれたと言った。
部活と週三回の塾で僕は忙しいし、母親が家にいないことは平気だと思った。
ミーコが日中、独りぼっちになってしまうことが寂しい気がしたが、母親は「外で遊んでいるから大丈夫よ」と言った。

秋も深まり、陽が落ちるのが早くなる頃、僕は合鍵を渡された。
夕方の真っ暗な玄関は少し怖かった。母親が家にいないことに慣れるのに、しばらくかかった。ミーコは、はじめの一日だけはじっと部屋の中でうずくまっていたけれど、翌日には僕が帰って来ても姿を現さなかった。不安になってミーコを呼ぶと、猫の出入り口が勢いよく開いて部屋に飛び込んできた。安堵よりも、自分の臆病さを情けなく思った。

学校では、知らなくてもよかったような大人の世界の話をたくさん耳にする。夕暮れの公園では、大人びた友達が女子と一緒にいるところを見たりする。
大人びた話は、知りたくないと思う一方で、強烈な好奇心をそそられる。お化けの話と少し似ている。僕は、学校からいろいろな話を聞いて戻って来る。しかし、家に帰ると母親の態度が小学生の頃と変わらないことを、どこかで嫌悪した。僕はもう、何も知らない子どもではない、と思った。
しかし、母親が外で働くようになってから変わった。
僕は、自分が思うより子どもだった。そして、生意気だった。家族の中で、僕の立ち位置はずっと決まっていて、それは夕方の数時間を独りで過ごしたところで、何も変わっていない。親から見た僕は、今でも、いつまでも子どものままだ。

もうあれから三年経って、僕は高校生だ。
既に父親の身長も抜いた。
冷蔵庫にガラスポットを戻し、グラスは簡単に洗って洗いカゴにふせる。玄関にほったらかしのカバンを自分の部屋に戻すと、制服を着替えて塾に向かう準備をする。ミーコが僕の部屋の入り口で、僕の様子を伺う。
「お母さんがもうすぐ帰ってくるよ」
そう声をかけると、もう一度玄関の扉に鍵をかけて、僕は出かけた。

「家族の風景」by ハナレグミ

http://www.youtube.com/watch?v=v5boRsZaSbE

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