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名古屋散歩記

名古屋を出てもうだいぶ経つ。15で上京して今年33になるのだから、もう人生の半分以上は東京で暮らしたことになる。
私が住んでいた頃の名古屋は車社会だったので、幼少期の移動は全て車だった。(今もそうなのかもしれないが、私は名古屋の今を詳しく知らない)個々の場所の記憶はあるが、その場所を繋ぐ通りや、方位感覚など、面的な記憶が完全に欠落している。

一方、学生時代を過ごした上野や北千住、初めて一人暮らしした月島、愛してやまない遊び場たる銀座などは、全ての通りや建物ごとの方位の関係が頭に入っているので、もはや東京の方が自分にとって馴染み深い街である。

今日は数年購読し続けているお洒落なエッセイスト SUISUIさんの企画してくださった、「古着屋さんでSUISUIさんと買い物をする」という最高イベントへの参加のため、名古屋に来たのだが、それ以外には敢えて予定を入れなかった。
街を歩き回り、幼少期に過ごした、点々の記憶を街から探す日にすることとした。

名古屋駅から歩き続けること20分、名古屋市科学館の大きい球が見えたので、右折した。すると、見覚えのある看板を見つけた。

ぶらり広小路

この看板を見た瞬間、確かにこの通りを何度も歩いたことを思い出した。祖母と手を繋いで歩いたり、姉に先導されたり、母と車で来たこともある。近くに電気文化会館としらかわホールがあり、その舞台に立つために、何度も通っていた。むしろよく忘れていたな。

電気文化会館に入る通用口
電気文化会館 でんきの科学館はお休み

私が小学生の頃に亡くなった祖父は、電力会社に勤めていた。祖母はこのホールに立つ私を何度も見たはずだ。電気文化会館も白川ホールも、大きく、暗く、クラシックにおける権威の象徴として見えていたが、改めて訪れると、意外と小規模なものだった。来たことは思い出せるのに、何を弾いていたのか、何を歌っていたのか、微かにしか思い出せない。
再開発されず、どちらも古めかしい空気を纏いながら、そのままに残っていた。

しらかわホール SMBCの施設だったとは知らなかった

父は長者町に勤めていた。繊維業とは全く関係がなかったが、父の勤める会社の名古屋支店が長者町にあったのだ。母とお昼ご飯の時間に長者町まできて、仕事を抜けてきた父と一緒にカレーうどんを食べた記憶がある。しかし、カレーうどん屋さんも、父の会社も、ついぞ見つけられなかった。(もちろん検索すれば見つけられただろうが、そうはしたくなかった)
その代わり、どんどん庵を見つけた。

東海地方にしかないこのうどんチェーン店は、店内で自ら麺を茹で、水切りし、最後にスープの味が2種類から選べる。都内のうどんチェーンのランチタイムの激混みを思い浮かべると、なんとも悠長なシステムである。赤色のスープを選んだ。口にした瞬間、笑ってしまうくらい味が変わっていないことに気づく。家族でどんどん庵を食べに行くことが決まると、いつも嬉しかった。

画像の向きを変えるのが面倒なのでそのまま載せます

今日のメインイベントである古着屋=SOMEへ向かうため、上前津に向かって歩き始めた。しかし、方角を間違えたようで、名古屋城の近くまで行ってしまった。ただ、(名前が思い出せないが)中学校の成人式・同窓会が開かれた場所を見つけた。

本当にここどこだっけね

道を間違えたせいで遅刻しそうなので急いで歩く。汗だくになり、コンビニで汗拭きシートを買って三越に飛び込み、トイレで汗を拭う。急ぎすぎて付けてきたネックレスを引きちぎるが、家で修理できそうな破損なことを確認できたので、急いで仕舞い混み、地下鉄栄駅に向かう。
これ以上歩くのは無理だった。暑すぎる。名古屋は地下が便利なのにすっかり忘れて地上を歩き回ってしまった。

月曜は休館、ということさえ忘れて近寄った名古屋市美術館。大好きだった
御園座の再開発。祖母と母がたまに歌舞伎を見に行っていた
足元商業としての御園座は豪華すぎて羨ましい。特に調べていないが、立地もよく当然即完だったのではないか。店舗はトップバリュに運営委託されているからか、あまりに庶民的で驚いたが利用比率は(観劇者ではなく)居住者が最も高いはずなので当然か

私と姉を連れて東京に出た母と父、自分の娘が東京を離れることを決めたことを知った祖母、それぞれの当時の思惑は想像するしかなく、想像しても詮無いことなのだが、私はといえば名古屋という街がとにかく嫌いだった。
閉鎖的で、一つ一つの思い出が本当に苦しかった。今思えば小さな世界だったが、その世界の中で自分が匿名にならないことが嫌だった。東京に出てきた時、自分が匿名のまま好きに生きていいことが、本当に自由に感じたものだ。

嫌いだが、味覚は全て名古屋ナイズされているし、方言もずっと抜けないし、嫌いになれきれない。東京に出てきてから、祖母に会う時や仕事の時は名古屋に来ることがあっても、もうずっとプライベートでは来ていなかった。来たくなかった。祖母にも長らく会っていない。
15の時、30歳を超えたらもう自分は東京の人間になれる、と思ったことを覚えている。

母は結婚して仕事を辞めた。そのことをずっと後悔している母に育てられ、私は己の才能のなさを強く自覚した後は、自然と大企業で働き続けることを選んだ。一定の給料を得られることを最低条件として、都会で働き続けられる職で、もはや死語だがバリキャリと言われる働き方を選択し続けた。この4月から働き方を変えて、キャリアを向上させることだけが人生じゃない、と腹を括ったが、「あんなに必死に名古屋を出て、東京でなんとか勝ち取ってきたものをみすみす捨てるのか」と囁くことをやめられなかった。

しかし、大前提として、名古屋は悪くないのだ。名古屋は意外と過ごしやすい。美味しいものもたくさんあれば、道も広く、都市機能がコンパクトにまとまっていて、暮らしやすい。一駅変われば全く違う街、というような、都内で感じる街の多様性を、名古屋でも感じることができる。
私がただ自分の人生を選び取ってきたのだ。選び取れるように、家族が支援してくれたのだった。名古屋で、何を恨んでいたのか、何を苦しんでいたのか、詳しく思い出せない。街角に残る家族と過ごした記憶を、懐かしく眺めた。

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