修羅の群れは東映版が良い

続いてまたAmazon Prime Videoからの話で恐縮であるが、修羅の群れの2002年リメイク版を見た。


これは単純に俳優の豪華さが全く異なることが原因と思われるが、圧倒的に84年東映版の『修羅の群れ』が良いのだ。

松方弘樹はもちろんのこと、北島三郎、菅原文太、小林繁、北大路欣也、張本勲、清水健太郎、錦野旦、鳥羽一郎、丹波哲郎、鶴田浩二、若山富三郎、小林稔侍……。ざっと思いつく限りの俳優陣(一部野球選手など、俳優が本業ではないと思われる方々もいるが)を列挙したが、これほど豪華なものがあろうか。

何より鶴田浩二が良い。
「馬鹿で成れず、利口で成れず、中途半端じゃ尚成れず」というセリフが出てくる。非常に含蓄のある言葉だ。

一定のルールはあるだろう。それは法律であり、しきたりであり、社会的規範であり、と様々なものがある。
元々自警団として始まっているということを考慮しても、ある意味で法律を超えているが、社会的規範を保つという役割があったということは否めない。

これらを正しく維持運用していくためには、馬鹿ではだめ、だが全て厳守というのもまた硬直的になり、これもだめである。そして、一本独鈷という言葉で表現されるように、独立独歩で運営するものがいる一方で、中途半端にやっているのでは、その差は埋まらないということだと解釈した。

これは別に任侠道だけに関係のある話ではなく、我々一般人にも共感のできる話だ。結局、社会悪としてその存在を定義される現代に於いて、このように輝く言葉や、行動の数々だけが称賛されたとしても、悪行(もっとも何を照らして悪行と言うかは議論の余地がある)がある限りは正統化はされない。

しかし、この部分だけを抜き取って考えれば、燦然と輝く素晴らしい言葉なのである。
また、我々一般人がその恩恵を正確に把握していないということもまたこういった認識を生む要因になることも間違いはない。

いずれにせよ、映画は映画であるので現実とは区別シないといけないということは念頭に置かねばならない。


ストーリーの重厚さについて、生命を賭けて戦ってくるという、我々一般人とは全く違う場所にいるからこその男臭さを感じる。少なくとも現代でこのような作品を作ることは難しいだろうと思われるが、ぜひ一度ご覧いただくことをおすすめしたい。


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