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【小話】私のため?子供のため?港区で子育てをするということ

広尾の某人気幼児教室に通い始めてしばらく経ったある日、いつものようにクラスで子どもを見守っていると、一人のママが話しかけてきた。とても親しげな様子で、すぐに私たちはお互いの子どもの話題で盛り上がった。


「うちの子、最近夜泣きがひどくて…」

彼女の何気ない悩みを聞き、「わかります〜」と相槌を打つ。この人もまた他のママたちと同じように、育児に真剣に向き合い、未来を見据えているのだと思っていた。けれど、会話が進むにつれて、彼女が口にした言葉に私は驚きを隠せなかった。




「実は、埼玉から通っているんです。」



その一言で、私の心はざわついた。



埼玉から?

0歳の子供を連れて?



彼女は毎週電車で1時間半かけてこの教室に通っているというのだ。

ここの教室は全国展開しているのできっと埼玉の方にもあるはず。それにもかかわらず、広尾校にこだわる理由とは。広尾や港区のママたちが多く通うこの場所にわざわざ遠方から足を運ぶという行動に、彼女の強い執念と意志を感じたが、それがどこから来ているのかは掴みきれなかった。


「なぜ、そこまでして?」
私は心の中で問いかけたが、口には出さなかった。なぜなら彼女はどこか誇らしげに見え、彼女自身は違和感を感じている様子が全くなかったのだ。むしろ、彼女はこの教室で、周りの親たちと同じ立場であると強く信じているようだった。

港区の華やかな生活に憧れているのだろうか。それとも、何か強いコンプレックスが彼女をここまで駆り立てているのだろうか。


その時、彼女がふと静かに言った。



「港区で育った子どもたちは、特別な未来を手に入れられると思う。だからこそ、ここで学ばせたいの。」


その言葉は私の心に鋭く刺さった。
確かに、この場所には子どもの未来に繋がる多くのチャンスがあり、親たちはそのために全力を尽くしている。だが、彼女の言葉には、どこか違う重みがあった。

彼女が追い求めている「特別な未来」とは、一体どんなものなのだろうか。

それは、私自身が思い描いているものと同じなのだろうか。


その答えは見つからなかった。


私たちは、その後も何度か顔を合わせた。けれど、言葉を交わすことは徐々に少なくなり、次第にすれ違うようになった。彼女は、あの時と同じように「正しい場所にいる」と信じ続けているのだろうか。


広尾の教室では、親たちは表面上静かに微笑み合いながらも、どこかで冷静にお互いを見ている。彼女はここで居場所を求めているようだったが、周囲はどんどん次のステージへと進んでいく。この場所で自分の存在を証明するには、何かしら「与えるもの」が必要だ。それを持たない者は、自然と淘汰されていくのかもしれない。


彼女との会話が減り、会うたびに感じる違和感が増していく一方で、彼女は変わらぬ様子で子どもを連れて教室に通い続けていた。

そんなある日、突然彼女の姿が教室から消えた。誰も理由を知らない。最初は単に都合が悪かったのだろうと思っていたが、数週間経っても彼女は戻ってこなかった。

ある日、広尾の駅近のカフェでたまたま彼女のことを知っている別のママと話す機会があった。

「彼女、最近見ないけどどうしたんだろう?」

その問いに、そのママは少し呆れ顔で答えた。

「麻布台ヒルズの方に顔を出してるらしいよ。」

その一言に、私は妙に納得した。彼女にとって、広尾の教室も「正解」の場所だったはずだ。しかし、その「正解」は常に彼女にとって通過点でしかなく、彼女はさらに高みを目指している。麻布台ヒルズという新たな場所で、彼女はまた別の「特別な未来」を求め始めているのだろう。

結局、彼女が何を求め、どこへ向かおうとしていたのか、その答えを私は知ることはできなかった。ただ一つ確かなのは、広尾の教室に流れる見えない競争とプレッシャーの中で、彼女は自分の居場所を追い求め、次のステージへと進んでいったということ。

その姿を思い浮かべながら、私はふと自分自身に問いかけた。


私は、何を求めてここにいるのだろうか?

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