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二重らせんは見ている 第3話

          第3話 

 京都の近鉄電車丹波橋駅から徒歩五分のワンルームマンションで暮らす柏原祐樹かしわばらゆうきは、スマートフォンの着信音でたたき起こされた。午前3時を過ぎたところだ。
 眠りについて2時間ほどしか経っていない。佐々木ささきという着信表示を確認すると、諦念を込めた息を吐き出しながら電話に出た。
「先輩、まさか事件とか言わんといてくださいよ。報告書を仕上げるのに真夜中まで署内にいたんですからね」
《残念なことにそのまさかや。諦めるしかないな。俺がお前の歳のころは3日くらい徹夜でも平気やったで》
「先輩が特別なんですよ。それはそうと現場はどこですか」
《久留米酒造や。お前のマンションから歩いて行けるやろ? 俺は車で現場に向かってるところや。あっちで落ち合おう》と言って佐々木は電話を切った。
 ──久留米酒造。咲ちゃんの実家やんけ。
 事件現場を復唱した祐樹は、心の奥深い場所をくすぐられたような気がして落ち着かない気分だった。

 久留米咲。東京の大学時代に参加していた映画サークルの後輩だ。同じ京都出身ということで意気投合し、いつしか恋心に変わった。親友の浩二にその思いを相談すると、あいつも同じだった。それどころかライバルは数え切れないほどいた。結局、彼女に何も言えないまま大学生活が終わった。
 大学を卒業すると、祐樹は地元の京都で警察官になった。そして2年前に刑事となり、京都府警伏見警察署の刑事第一課に配属された。転勤してすぐ、久留米酒造を訪ねたことがあった。咲が大学を卒業する時に送ってくれたメールを思い出したからだ。
《実家に戻ります。私は一人娘やから、家の仕事を継がなあかんのです。杜氏の勉強もやるつもりです》
 店の従業員に友人だと説明しても、いきなり訪ねるなんて不自然過ぎる。そう思って出入り口で躊躇した。友人として会いたいというのは建前であり、本音は結婚しているかどうかを知りたかった。結局は扉を開ける勇気が持てず、そのまま引き返した。
 しばらくして東京の友人から咲に関する情報を手にした。店の後継ぎとの結婚を勧められた彼女が家出したらしい。好きな男がいたようだ。
 
 2年前のことを思い出しつつ厚手のコートを着込んだ祐樹は、底冷えする夜明け前の街を急ぎ足で歩いた。3月の声を聞くにはまだ半月ほどあり、連日強烈な寒波が続いていた。
 10分ほど歩くと古びた土塀が見えてきた。この周辺には大手の酒造メーカーが軒を連ねている。久留米酒造は比較的新しく、戦後に創業した家族経営の造り酒屋だ。それでも日本酒の通たちには名が知られているらしい。
 パトカーの赤色灯があたりを照らしていた。救急車も到着しているが、現場保存が優先されているので待機しているようだ。野次馬の波を駆け抜けると、佐々木が手招きしていた。
「おう、お疲れさん。目は覚めたか」
「はい、大丈夫です。殺しですか」
「まだ殺人と決まったわけやない。遺体で見つかったのはこの酒蔵の後継ぎやった吉岡純也よしおかじゅんや。年齢は38歳やな」佐々木が手帳を見ながら眉根を寄せた。
「自殺なんですか」祐樹はそう訊ねながら、死んだのは咲が両親から強引に勧められた縁談の相手だろうと想像した。
「いや、そうとも言い切れん。とにかくホトケさんを見てくれ」
 普段と違う佐々木の様子に妙な胸騒ぎがした。
 佐々木の背中を追ってやってきたのは、杉の木で作られた仕込み用の大桶が置かれている場所だった。時期的に新酒が出荷されたばかりなので、独特の香りが充満している。
 吉岡の遺体は従業員の控え室になっている間仕切りの中だった。小さな台所と手洗い用の洗面所が用意されている。そこへ一歩踏み込んだとたん、祐樹は思わずうめき声をあげた。
 男が洗面所に水を張り、そこに顔をつけて息絶えていた。もだえ苦しんだのか、両手には引き抜かれた髪が握られている。洗面所の周囲にも髪が散らばっていた。「多分溺死やろう。遺体を確認した鑑識によると両目に点状出血があったそうや。死因は窒息やな。そやけどよう見てみ。自分の髪の毛をむしり取っているだけで、誰かに襲われた形跡があらへん。防御創らしき傷あとも見つからん」
 祐樹は遺体に近づいて、佐々木の言葉を確認するように注意深く観察した。確かに単なる自殺に見えない。
「こんな遺体は初めてです。髪の毛は鑑識が調べてくれますよね」
「DNA鑑定をするそうや。そやけど侵入者の形跡もある。ほら、よう見てみ」と言って佐々木が間仕切を指差した。
 祐樹は手にしていた懐中電灯を言われた場所に向け、じっと目をこらした。そこには異様なものが残されていた。
「何ですか、これ?」祐樹は思わず腰が引けてあとずさった。
 木の格子で組まれた古いガラス戸に、くっきりと複数の小さな手形が残されていた。水分を含んでいるのか、ガラスを伝って水がたれている。ガラス戸の下には、泥まみれの裸足で歩いたような跡が残されていた。被害者は靴を履いているから別の人間だ。
「これは何です……」祐樹は佐々木の説明を期待してふり返った。
「わけがわからん。このクソ寒いのに、疎水で泳いでいた奴がそのままここに来たとは思えへんしな。その手形の指紋も調べなあかん。それはそうとこれを見てくれ。ホトケさんの財布に入ってたんや」佐々木は証拠品用のナイロン袋を祐樹に手渡した。
 そこには1枚の名刺があった。《久保田研究所 所長 久保田謙三》と印字されていた。住所は長野県の諏訪市だった。
「くそ寒い時期やけれど、長野まで出張せんとあかんようやな」
 佐々木に顔を戻して祐樹は首肯した。

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