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黄晳暎(ファン・ソギョン)「囚人 : 黄晳暎自伝Ⅰ・Ⅱ」(明石書店)~闘う創作者の生き様と民族の歴史と

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韓国では2017年に出版され日本語訳が2020年12月に刊行された、韓国現代文学を代表する作家・黄晳暎の自伝。ここ2週間ほど少しずつ読み進めてきたがやっと読了した。これは質・量共にとてつもなく重厚な、超ヘヴィー級の読み物である。何よりも、1943年生まれの黄晳暎氏が歩んできた道のりが、そのまま韓国(あるいは朝鮮半島)現代史そのものと重なり、「個人の歴史を通して民族の歴史をも振り返る」流れになっているので、一作家の自伝という以上の貴重で重要な著作だと私は思う。著者の最後の言葉によると「時間の監獄、言語の監獄、冷戦の博物館のように分断された朝鮮半島という監獄のなかで、作家として生きてきた私が渇望した自由とは、どんなに危ういものだったか。これが本書のタイトルを『囚人』とした所以である。」とのこと。

「Ⅰ・境界を越えて」&「Ⅱ・火焔のなかへ」の2巻に分かれた本書は、分量も充分に長いが、黄氏自身の生い立ちをそのままの流れで語ってはいない。彼が1989年に北朝鮮を訪問し、その後韓国で国家保安法違反により1993年から5年間投獄されていた時期の体験が「監獄1~6」として各所に挟み込まれている。そして第Ⅰ巻の中心を成しているのは主に北朝鮮訪問とその後の(西)ベルリン・米国などへの亡命記。第Ⅱ巻の核を成すのが青年期の放浪やベトナム戦争従軍、そしてあの1980年5月光州である。ここでは、著者の記述順ではなく、①黄晰暎氏が生まれて今日まで ②北朝鮮訪問に関して ③獄中体験 と大きく分けて、私自身が感じたこと・考えたことを記してみたい。

①「黄晰暎氏が生まれて今日まで」~1943年1月に旧「満州」の首都・新京(現在の長春)に生まれた黄氏。事業を営む父と日本で高等教育を受けたプロテスタントの母の下、当時としてはそれなりに余裕ある家庭環境だったよう。しかし45年日本敗戦と朝鮮半島の植民地支配からの解放と共に、母の実家がある平壌に移住。ここでの幼年期の思い出と母親の「故郷・平壌への強い思い入れ」は、黄氏自身にも強いノスタルジーを刻み込んだようで、その想いは後に国家保安法を冒してまで北朝鮮を訪問した時にも、様々に湧き上がってきている。1945年以降「解放空間」だった朝鮮半島の中でも北ではソ連占領下での社会主義的政策が進行していき、洋装店を営んでいた母と事業家の父にとっては1947年に「越南」することは必然的選択だったのだろう。そして、ソウルで迎えるあの朝鮮戦争。黄氏一家もソウルを逃れ韓国内をあちこち避難・放浪する生活が続くが、それは民族全体の受難の象徴でもある。子供たちがそうした混乱期にも遊びを見つけたくましく過ごす姿は印象的だが、この頃から様々な物語を妄想する癖があったようで、「ストーリーテラー」の才能は天性のもののようである。

そして、学校に通い出しても正規の授業より様々な本を読み耽り、決して「社会の軌道に乗ろうとしない」姿も実に印象的で、私は大いに共感した。高校もロクに出席せず、画家志望の友人らと部屋を借りて「読書と創作」に明け暮れ、放浪の旅を繰り返し。それでも高校時代に文学新人賞に応募して入選するなど、早くもその才能は花開きだしている。そして、1960年「4.19革命」デモ行進参加とそこでの友人二人の死。この頃から「民主化闘争への参加」と「執筆活動」は、もはや切っても切れない混然一体としたものになっていて、それは当時の同世代の多くの文学者・芸術家・学者たちと軌を一にしている。これ以降、80年代後半まで黄氏の活動・交流の中には錚々たる民主活動家・作家など著名人が次々と出てくるが、「熱い政治の時代・暴力と圧政の時代」だった1960~80年代までの韓国の若者・文化人の熱さが、読んでいるこちらにも伝わってくる。私はこの自伝を読みながら、何度も「これはまるでかつて雑誌『世界』に連載されていたT・K生『韓国からの通信』を読んでるようやな」と感じたことである。

1964年、日韓条約反対デモ参加での逮捕とその後の拘束を逃れての各地での日雇い労働の日々~そして徴兵通知無視での逮捕を免れ海兵隊入隊~それがベトナム戦争派兵へと。ここでも韓国海兵隊は米軍の一翼を担う存在としてまさに生死紙一重の過酷な状況を体験している。そこで言われる「植民地時代は日本軍の一員として戦争に加担させられ、今度は米軍の帝国主義的戦争に加担させられ。結局、同じことだ。」という趣旨の言葉は実に重い。

そして1971年の小説「客地」は60年代の激しい労働争議をテーマとしていて、ベトナム戦争の体験を基に書いた作品など旺盛な執筆活動と民主化闘争の両立。既に充分名の知られたプロの作家でありながら労働者の組織化のために労働現場に潜入したりと、「闘う作家」として金芝河らと並びこの時代の韓国を象徴する姿がそこにある。そして、1980年5月の光州抗争。当時妻子と共に光州に暮らしていた黄氏は、この当時たまたまソウルに出ていて戒厳軍による民主化を求める民衆虐殺などの苛烈な状況に巻き込まれることはなかったが、だからこそ、「その場にいなかった」という慙愧の念が、その後の一層の民主化闘争、マダン劇など文化事業を通じての民衆の組織化・意識化活動への邁進に繋がったのだろうと思う。これ以降の流れは書き出すとキリがないのでこれくらいにするが、この自伝のラストが、2016年12月の、ソウルでも200万人以上が結集したという「朴槿恵大統領弾劾ろうそくデモ」の光景であることは、実に印象的だった。

②「北朝鮮訪問に関して」~この自伝で大きなウェイトを占めている、1989年の朝鮮文学芸術総同盟の招待による北朝鮮訪問。同時期に別ルートで北に渡った韓国を代表する民主活動家でキリスト教会指導者・文益換牧師と共に、後に韓国当局に逮捕投獄されることになるが、この韓国法規を破っての北訪問の思い出が実に興味深かった。この時、黄氏は金日成と何度も会食しているが(カンボジアのシアヌーク国王夫妻が亡命生活をしている時期でもあり、シアヌーク夫妻&金日成との会食もある)、そこで金日成の側近から予め「自分から話しかけない。聞かれたことだけ答えるように」と言われていたのに、それにお構いなく堂々と金日成に話しかけ、金日成も笑いながら会話に応じる姿。そこでの金日成の言葉の数々は、なかなか見聞することのない「生の金日成」が表れていて、私には非常に興味深かった。まるで、金日成独特の野太いダミ声が実際に聴こえて来そうな、リアルな会話描写がそこにある。金日成は、黄氏が1974年から10年間新聞連載し、韓国では大ベストセラーになったという歴史大河小説「張吉山(チャンギルサン)」(全10巻)を、2巻までは自分で読み、それ以降は加齢による目や神経の疲れから俳優に朗読させたテープを聴いていたという。

そして在外朝鮮人に関する発言で、「海外に暮らす朝鮮人同胞は、祖国統一運動より、まずその地で成功繁栄することに注力すべき。今後朝鮮半島が平和的に統一されても、全ての海外同胞を受け入れることはできないだろう。朝鮮総連はちょっと左傾化しすぎたね。」という、ある意味驚嘆すべき言葉を黄氏は記している。この金日成の言葉~今の朝鮮総連の人たち、特に中央本部幹部たちはどう捉えるだろう。また、黄氏とその家族が2度目の訪朝後北朝鮮を離れる際に、黄氏自身のパスポートだけ1週間ほど遅れて返された(なので家族だけ先に北から出発)というエピソードも面白い。黄氏曰く、金日成との別れの際に「黄先生、行かないでこのまま我が国に留まってください」と慰留されたのを周りの者たちが「忖度」したのだろうと言うが、かの国では「さもありなん」なお話ではある。

同じ民族でありながら、今なお「他方に訪問するだけで、帰国すると逮捕投獄される」南北朝鮮半島の不条理な政治状況。それにも関わらず身を賭して北に渡った黄氏初め民主人士の数々の英断には、改めて敬意を表したいと思う。

③「獄中体験」~これは黄氏の生涯とはまた別に、韓国での民主活動家たちの在り様と、矯導所(刑務所)内のリアルな日常が垣間見えて、実に興味深かった。韓国ドラマ「刑務所のルールブック」でも描かれているが、矯導所の中でも厳然と存在するヒエラルキー。やはりヤクザものがその頂点にいるようで、政治犯などは一目置かれちょっと別格のよう。そして矯導所内でも自分たちで野菜畑を作ったり運動場を整備したり。しかし、収容者の扱いはやはり酷い状況が当たり前で、その処遇改善や規則改正を求めて黄氏も度々ハンストを決行している。その時の無理が堪えたのか、1998年の金大中政権成立による恩赦釈放後も、歯が何本も抜けるなど健康状況の悪化は免れなかったらしい。そして獄中でも収容者が工夫しながら様々な食品を調達し、こっそり「調理」して少しでも「生きる楽しみ」を得ようとする姿は身につまされるものがある。

このものすごい自伝~あまりに内容が濃すぎて、それについて語り出したらいくらでも語れるような気がする。それくらい、私にとってはある意味衝撃的かつ実に有意義な著作だった。朝鮮半島現代史や韓国現代文学に少しでも興味がある人には、是非読んでほしい、素晴らしい労作である。

<付記1>なお、長年韓国での民主化運動弾圧の法的根拠となってきた「国家保安法」などの「反共産主義・反北朝鮮」法規の多くが、かつての大日本帝国の「治安維持法」の枠組みを参考にしてきた~という著者の指摘は、かなり重要かつ本質的な問題点。

<付記2>この中の黄氏訪朝記部分で個人的に印象的だったエピソード~彼が北朝鮮から西ベルリンに渡った後、あの89年「ベルリンの壁崩壊」も現地でリアル体験していて、それも「分断国家に生きる者」として実に象徴的だったが、その頃、氏は腰痛がひどくなりドイツの医師から「椎間板ヘルニア。手術する必要あり」と診断される。しかし、当時同じくベルリンにいた現代音楽作曲家・尹伊桑(ユン・イサン)に「北朝鮮は東洋医学のいい医者がいるのでそこで治療した方がいい」と勧められ、2度目の訪朝(約1か月)をしている。そして、北で温泉治療など東洋医学療法でしっかり治してもらっている。実は私も30代初めにゴルフの練習で無理をして椎間板ヘルニアになり、整形外科から「手術したほうがいい」と言われたが、ある鍼灸医に「手術は絶対したらアカン。家においで」と言われ、1年半ほど通い続けて治してもらったことがある。椎間板ヘルニアには東洋医学!~これ、真理である~(*^^*)

<付記3>なお、尹伊桑(ユン・イサン)は、植民地朝鮮で生まれた、元は韓国の現代音楽作曲家。北朝鮮との関わりから韓国当局に「北のスパイ事件」をでっち上げられ(東ベルリン事件)、その後は西ドイツに帰化し、二度と韓国の地を踏むことはなかった。北朝鮮とはその後も関わりがあった現代朝鮮を代表する作曲家。また、北朝鮮にはこの作曲家の名を冠した「尹伊桑管弦楽団」があり、毎年10月に「尹伊桑音楽祭」を開催している。しかし、だからと言って尹伊桑氏にしろ黄晳暎氏にしろ、北の「個人崇拝独裁体制」を積極的に評価しているわけではない。それはそれ、これはこれ。念の為。



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