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アウフヘーベンとわびさび

出張から深夜家に帰った時、玄関の明かりが灯っていることに喜びを感じると書いた。
「待っててくれる人がいる」「自分を気にかけている人がいる」
と言った嬉しさが明かりが灯っていることを通じて受け取ることができるからだろう。
この記事を嫁さんが読んでいるかどうかは知らないが、その後深夜に帰宅したら玄関に灯りは灯ってなかった(笑)

ヘーゲル?乾燥剤のこと?

ドイツの哲学者ヘーゲルは弁証法の論理を確立した。
「ベンショウホウ?」って脳から”難しそうシグナル”が出たあなたも大丈夫Wikipediaにはこう書いてある。


弁証法とは物の考え方の一つの型。形式論理学が、「AはAである」という同一律を基本に置き、「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけず、物の対立・矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動・発展の姿において考える見方。

ぜーんぜんわかんねー!!

弁証法って「正⇒反⇒合」で考えることだそうだ。
こういう場合は概念より例文の方がわかりやすいか。
ちなみに、見出しの”乾燥剤”に対する解は「シリカゲル」です。
(例1)
①正=「肉食いてぇ!」
②反=「いやいやパン食いてぇ!」
③合=「よし、ハンバーガー食おう」

(例2)
①正=「コーヒー飲もう」
②反=「でも健康のために牛乳も飲まなきゃ」
③合=「よし、混ぜてカフェオレにしちゃおう」
平たくいうと「こんな3段階を経て物事を説明すること」って感じだ。

アウフヘーベン?結婚式の引き出物でよくでるやつ?

そんな弁証法の中に”アウフヘーベン”というのがある。
小池都知事が数年前流行語大賞候補になるくらい連発したけど国民の頭には「バウムクーヘン?」的な洋菓子臭しか残さなかったやつだ(嘘)。

3つの過程を経てよりよい状態に進むことをドイツ語で”アウフヘーベン”という。


吉野家は「はやい、安い、美味い」だが
ドイツ語の”アウフヘーベン”には「否定する、保存する、高める」という3つの意味が含まれるそうだ。
これを和訳すると「止揚」だそうだ。
全く訳された感がないのがポイントね。

日常で使う時は上記3過程を通じてよりよい状態に進むことを「アウフヘーベンする」って感じで使うみたい。
「タクる?(タクシー乗る?)」や「ディスる(ディスリスペクトする)」のように馴染まなかったのは長すぎるからかも。
「ベンする」だったらなじんだかもね(トイレに行くんだと思われるけどね)。

一応ヘーゲルの例文も記載しておくと
①正:自立するために支配できる奴隷を持つ
②反:いつの間にか奴隷に頼って生活していることに気づく
③合:誰かに頼らず自分の力で自立しようと考える
という考え方だそうだ。
これは奴隷という例で時間わきにくいけど親子や上司部下で連想するとなんとなく言いたいことがわかるかもしれない。
要するに本質的な解を導き出すということだ。

余談だけどマトリックス3部作は壮大なアウフヘーベンだ。

アウフヘーベンへの違和感



HUMANFORUM CAMPを始める前にこのアウフヘーベンという言葉に出会っていた。
そして、言いたいことはこの言葉に集約されていた感じがした。

HFCAMP的にいうと「失われた価値を求める方程式」ってやつだ。
(興味のある方は動画をnoteで公開しているのでみていただきたい。)

でもなんか違う。
なーんか匂う。

”わびさび”からの閃き


”わびさび”って聞くと「茶道?」くらいの感じでしか思っていなかった。
なので調べてみた。

”さび”とは「寂び」。
自然の無常をあらわしている。
万物は止まることなく常に劣化し続けてる。
人間も建造物も木も岩も絶えず崩壊に向かって進んでいる。
皺が増えたり、錆びたり、枯れたり、欠けたり。
この無常感や孤独感を嘆くのではなく、その様々なものが織りなす多様な変化を美しさや趣きとして捉える感覚。

”わび”とは「詫び」のこと。
もともとは「願いがかなわず悲しみ、思いわずらうこと」という意味だったけど、室町時代くらいから、失意や窮乏などの自分の思い通りにならない状態を「受け入れ、積極的に安住しよう」とする肯定的な意味となったんだそうだ。
肯定的な意味だったとは知らなかった。

”わびさび”とは
「劣化ですら美しさと捉え(さび)、さらにその無常さを受入れるどころか楽しむ。」
という概念だ。
わかりやすい例で例えると”金継ぎ”だろう。

ここまで書くとなんとなく僕が書きたかったことがわかってもらえたかもしれない。

混ぜることで生まれ出す世界


”アウフヘーベン”は前提として二元論が存在する。「正と反」という違いによる対立から導き出す感覚。
”わびさび”はどうだろう。
僕はそれを超越している感覚を覚える。
むしろアウフヘーベンを内包してしまってさえいて、なのに(だからこそかもしれないが)後味は爽やかな感覚。

自然対人間という対立構造ではなく、「自然の中の一部としての人間」という思想がここに現れているのだと思う。

人間に善も悪もない。
というか善なるものも悪なる様相があり、悪なるものも善なる様相がある曖昧な恣意的な情動的な衝動的な存在なのだ。
区別なんかできない。
ハンカチに滲んだコーヒーのシミの様に境目なんかないのだ。
”鬼滅の刃”の素晴らしさはそれを丁寧に描いたことではないのか。

HFCAMPは”アウフヘーベン”ではなく”わびさび”を伝えている。
環境設計は高校生から経営者まで、弁護士、映像監督、マネージャー、大学生、多種多様だからこそ曖昧な環境が描かれそれぞれの境界線を曖昧にする。
運営も参加者も曖昧だ。
昨日のDAY.4では参加者が授業を行った。
提示されたものをこなす”ながれ”はあるけど様々な部分を放っておくと気がついた人が勝手に作り出したり設定をするのだ。

会社や学校、官民などのカテゴリーを混ぜる。
教育を見ても明らかだ、学生は学生というカテゴライズされた中では社会に通用する人は育たない。(丁稚奉公という仕組みがいかに秀逸だったか。)
そして、時として個人という概念も超える。
ミーティングでは必ず伝えるのはメンバーの脳を使おうということ。
これを導き出すのに有効なのはユーモアだ。

そんな場がここにある。
これが、無料って半端ない。(自画自賛)

”わびさび”のある世界

深夜、家について明かりが灯っていなかった。
明かりが灯っているか、灯っていないかという二元論的な感覚だったら
「なんで?」と問うたり
「寂しく」なったり
「拗ねて気づいてもらおう」としたり
もっと言えば無視、感情すらも無かったことにしてしまう。
そんな感覚に陥っただろう。

でも、この日僕はそうならなかった。
明かりが灯っていないことで
「嫁さんバタバタしてたんだろうな」と想像したり
「子供たちが溌剌と育ってるんだなぁ」と幸せを感じたり

明かりを灯していないことくらいで豊かな感覚を得ることができた。





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