「九条いつき」とは何者か?或いはハイデガー的存在論への反駁 其ノ二

師匠と弟子、至高と究極の対決しがち。

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それでアリストテレスの方ですが、今から見ればプラトンに輪をかけて魔術的であることがwikipediaからも分かるので正直いってどうなんだという気がするようになっています。

ただこれもまたゆっくり請け売りになりますが、アリストテレス哲学で重要なのは外界の事実の方に焦点を当てたことだといいます。超自然的なイデアを知ろうともがくより、まずはもっと見なきゃ、現実を。生え際はもうそこまできてるんですよ!という経験主義。

アリストテレスによると、先に「ある」のは物理的実体だということです。形而上の法則(ここで「形而上」というワードがでてくるのですが)はそこから論理的に還元できる。

「この形の頭…あんた将来ハゲるね」「いやオレはまだハゲてない」「あんたの家系ハゲでしょ。私の経験からいわせてもらうけど、あんたは将来ハゲる。地獄に落ちるわよ!」「だからハゲてないって!」

…まあなにしろ経験則なので言いたい放題ですよ。今からみるとかなり突飛にみえる形而上学、例えば占星術をしたりするらしいのですが、しかしそれがまた近代科学の元になります。間違っていてもとりあえず仮説をたてるのは非常に良い習慣だと思います。

とりあえず、これがゴリラでもわかるアリストテレス哲学だということにしておきたいと思います。この辺りの話は本筋ではないので、だいたい合っていれば問題ありません。

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なにしろ言いたいのは、この二つに分かれた流派が西洋哲学の歴史に連綿と受け継がれていったらしく、近世になって「大陸合理論」や「イギリス経験説」に発展していったものを合体させたのが件のカントである。そこから話を始めないことにはキリがない。

まずカントが提唱するには、"認識には二つの軸がある" *1 といいます。

ひとつは物理的なセンスデータの受容であり、もうひとつはそれを秩序づける悟性(understanding)である。そして"悟性は、心的内容を能動的に構造化するうえで例外なく必要となる、いくつかの基本的概念を備えている" *2 。それがいわゆる概念=イデアである。

こうするとだいぶ分かりやすくなってきました。それに先の二つの流派が合体している様子も分かりますね。カントはさらに基本的概念には時間や空間、否定、存在、実体といったカテゴリーが根源的にあり、それらはアプリオリ=経験に先行してあると主張しています。

ですが「…だからイデアは外部の存在である」と言わないのが彼が近代人であるゆえんで、それらを自己意識の内部に抱え、把握・再生・再認という三段の総合による認識活動の一機能であるとします。

本当に「ある」のは外部のイデアではなく、私という統覚・自己意識であり、自己意識は物理的なセンスデータを秩序づけるなかで外部の永続的ななにかに気づいている。

そう考えることで、自己意識を中心にして経験的な物理と永続的な存在=形而上の物事を共存させることができます。それは物理上と形而上の明確な分離、といいかえても構わないのでは無いでしょうか。

それまでは「美」があって彫刻を作り出すのか?あるいはさまざまな彫刻のなかから「美」が見出されるのか?という物理と形而上が混在となった答えのない問いしかなかったところに、「ある」のは美しいと感じる「あなたの、心です」という認識を踏まえ、物理的には美術品とされた様々な物事があるものの、形而上に据え置かれるのは、ある時代にある人々がそれら物事を美術としてとらえたという事実だけである。

これこそ近代的知識人の態度ですよ。誰だよバナナで怒ってるの。

まあそれはいいとして、これで外界のことを少しは理知的に理解できるようになってきたと言えるのではないでしょうか。

つづく


*1,2 共に『現象学入門』(勁草書房,2018)より引用

※11/29 ちょっと修正

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