「九条いつき」とは何者か?或いはハイデガー的存在論への反駁 其ノ九

「人を道具と思え!金は命より重い・・・・・!」ダイヤ◯ンド・プリ◯セス号に放りこまれた借金マダオへ突然世界がカイジされてざわざわする回でした。

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これがただの暴言・・・ッ!ではなく、ある種の真理を含んでいると思えるのはハイデガー哲学に現象学側面があるからです。再度意識の次元に立ち返ってみると、【其ノ五】でフッサールが意識の説明として前認知的に「ノエマ」がまず現れるとしていたのを覚えているでしょうか。ではその「ノエマ」はどこから来るのか?知識からか、経験からか、記憶からか?

ハイデガーはそれを「使用可能性」から発するとしました。それがおそらくZeugですよね。これは幼児を観察しなくても大人の僕たちで実験が可能なことなのですが、僕たちは何かを認知する時、感覚器官で刺激を受け取る前に予めそれが使用可能であると理解していなければ何かを認知することができない。

例えば飛行機の操縦席に座ったとして、ズラリと並んだ計器やスイッチが目に映る。けれども僕はそれが何をする為のものか分からない。体感で高度が落ちているのは分かる。ハンドルはわかるので握る。どうにかしようと動かしてみる。地面に衝突!実は緊急脱出装置のボタンは目の前にあった、というような。

ハイデガー的存在論を踏まえたメルロ=ポンティは、そこからさらに「使用可能性」が僕たちの身体を起点にしていると考え、例えば手に対するハンドルの誘因性(それがジェームズ・J・ギブソンのいうアフォーダンスへつながる)についてより考察を進めます。その研究成果が先のハイデガー的人工知能による襲撃につながるというわけです。

そしてこの「使用可能性」を最大限に活用する、他人よりも認知の時点で上回る、それこそ「成功哲学」ですよね。特に人が機能として役割分担される資本主義とは相性がいい。(ただしハイデガーは"道具"を使用している没入状態こそが観念が"充実"している状態としていたので、一歩間違えればパチ◯コ大好き人間こそ人生の勝ち組ということになってしまうのですが。ある意味正しい?)

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では翻って、そんな世界の中で人・キャラクターとはどんな存在だといえるでしょうか?

それはもちろん「使用可能性」の範疇から外れた「使用不可能性」に満ちた存在ということになります。人は自分の思い通りにならないモノにこそ、キャラクターというレッテルを貼る。それはアニミズムの太古まで遡らなくとも、例えば台風なんかでもそうですよね。暴風現象に数字や名前をつけたりする訳なのですが、もしその雨風を自由に調整できるとしたら、被害が出る前に適量で雨が降るように変更すればいいだけでわざわざ名前をつけません。

もうひとつ例を写真でだしておくと、印象深い人写真で有名な梅佳代さん。見ていると被写体となる男子小学生達のつくづく言うことを聞かないどうしようもない「不可能性」を感じられて非常に面白いのでおすすめです。他、猫写真で有名な岩合光昭さんも猫をキャラクターで撮っている。似て非なる例として、カエルをキャラクターのように見せて撮っているように見せかけて、実は針で固定してモノとして撮っている場合もある。

また脱線してしまいました。そんな訳で、「使用不可能性」である人・キャラクターはハイデガー的存在論に与するモノ経済から排除される、そのような志向性にあるといえるのではないでしょうか。

つづく


※12/9 「ジェームズ・J・ギブソン」を追加...もとい、加筆訂正しました(ラーメンの具みたいな言い方になってしまった)

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