「九条いつき」とは何者か?或いはハイデガー的存在論への反駁 其ノ十

「九条いつき」は、使えない。

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という訳で、ハイデガー的存在論がいかに堅固かを見てきたのですが、もちろんそれをここで追認するためではありません。逆にその綻びは明らかなので、いちいち指摘するほどでもないというのが実情ではないでしょうか。なぜならその「成功哲学」は自壊的だからです。

鍵はモノに付随する「機能」にあります。

ここではハイデガー的存在論が自己矛盾した結果自壊している一例として、フェミニズム現象学を挙げたいと思います。それは昨今twitter界隈などで話題をよんでいる「フェミニズム」の裏側にある「思想」といえるのではないでしょうか。それは戦前から続いた女性差別撤廃運動とは少し異なる内容で、賛否の分かれる議論になっています。

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フェミニズム現象学が確立されたのは、1980年に提出された「女子のように投げる」というアイリス・マリオン・ヤングの論文からだそうです。

アイドルが恒例のノーバン始球式でボールを投げる、その投球フォームが男のそれとは違うことが多いことを思い出してください。女子投げですよね。ヤングによるとその原因は「男性の視線」だそうです。男性は自身の身体を「使用可能」なものとして認識し行為の主体であるのに対して、女性は行為の主体でありながら、その自意識のなかに"見られるひととして経験する" *1 客体を同時にもつ。"女性はその身体において非連続的な統一を経験する" *2 、それがあの非効率的な女子投げの正体であるといいます。

言い換えると、女性は男性により自身の身体「使用可能性」が阻害されている。これは一面の真実を含んでいる、と思えます。

しかしでは、その「不平等」とされるものを解消するためにはどうするか?不毛な問いのように思えます。男性を根絶やしにするか、あるいは(あのTV版『エヴァンゲリオン』のアスカのように)女性そのもの、最終的には自身の意思通りに動かない女性の身体という「使用不可能性」そのもの、を否定するしかなくなります。

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これと同じことはあらゆるマイノリティに対していえることですし、逆にメジャー、例えば国家や巨大なグローバル企業であっても同じで、自己の「使用不可能性」の排除は最終的には自壊に至ると思えます。

なぜなら、成功哲学者のいう「機能」は、生物としての自己意識という「世界にひとつ」の価値に依存するからです。

つづく


*1、2 共に同じく『現象学入門』(勁草書房,2018)より引用。論文だったらアウトな仕様です



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