「九条いつき」とは何者か?或いはハイデガー的存在論への反駁 其ノ三

というわけで、前回は理解・分解・再構成をすると鋼の錬金術師になれるという話でした。

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ところでいまさらですが「哲学」って何なんでしょうね?今大学でアンケートをとったら6割くらいは穏健の「哲学?役に立たないけど、なんか大切だよね派」ではないかと思います。2割が「哲学は昔の学問派」、残りに擁護の「哲学は最高の学問派」と急進「哲学は要らない、そもそも文系全部いらないよ派」がいるようなイメージです。今は急進派がもうちょっと勢力強いかも知れません。

それでなんで今こうなっているかというと、やっぱりこれもカントの仕業なんじゃないのかと思います。というのも、カント哲学が『美味しんぼ』を完結させ、それから人の意識を「科学」の対象から外したからです。

考えてみれば当然で、形而上学が入り込むと仮定した人の意識の構造を、物理を対象にする科学が研究対象にできるわけがありません。それまで渾然一体となっていた哲学と科学は分離され、実験と検証のできる「科学」と曖昧な意識である「思想」に分かれました。なので社会の役に立つのは科学、文系なんてダセーよな、やっぱり時代はプレステだぜということになったのではないでしょうか。

お陰で文明が進歩したというわけです。

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ところが話はここで終わりません。なぜならそれでも人の意識を経験則に当てはめて、「科学」しようとする人々が現れるからです。これがつまり心理学、そして哲学から枝分かれした「思想」寄りの現象学ということになるのだと思います。

心理学といえば『エヴァンゲリオン』直撃世代にとっては90年代に流行ったアレね、という印象が強い。フロイトやユングといった名前だけは知っている心理学者と「無意識の領域」だの「セブンセンシズで人類補完」だの「ニュータイプは伊達じゃない」だのといったオカルト込みの精神分析。個人的には写真展『兆し、或いは魔の山にて』で触れたトーマス・マン『魔の山』物語中、主人公ハンスが死んだ親友のヨーアヒムを降霊術で蘇らせた話なんかも思い起こされます。

なので「科学」のメンツからしてみれば、かなり眉唾な「文系」の学問さんね、という偏見で見られがちではないでしょうか。

ですが「心理学創設の父」として知られるヴィルヘルム・ヴントが提唱した「実験心理学」はもう少し「科学」だったといいます。というのも、心理を研究するにあたりその原子というべき着目点=経験に変化をもたらす刺激強度の最小差異から初めたからです。物理的観点からするとこれは神経細胞の活動電位と同一視できる。

ヴントはそこから意識経験とは、外部刺激を受け取る感覚、そしてそこから観念が僕達の内部に生じ、その補完物として感情が生じることであるとして、それらが客観的な同一性をもつため意識を「科学」できるとしたそうです。

急に話が難しくなったような気がしますが、例えば茹でガエルの話ですよね。鍋に水とカエルを入れて徐々にあっためると、かなり熱くなった次点でピョンと跳んで逃げる。もしカエルが喋れたら「熱ッ!殺す気か!もう訴えてやる!」といって怒ってくるりんぱしていることでしょう。それはもしかしたら別の刺激、熱々おでんを顔に当てられても「熱ッ!殺す気か!もう訴えてやる!」といって怒ってくるりんぱするという意識経験になるかも知れません。

ちなみに僕はこれと同じことを文学の範囲で提唱した人を知っていまして、夏目漱石といいますが、彼の『文学論』という著作を参照していただければと思います。つまり現実世界の経験という刺激と文字情報による刺激の相似について考察した物ですね。

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心理学はしかしその後、それらは機械的であるとして「思想」の方へブレて、フロイトらのような精神分析に傾倒したかと思えば、再度「科学」へ戻って行動だけを研究対象にするのだといって行動主義になってみたりと忙しい変節を繰り返すようです。大学で心理学を学ぼうと思ったら、その辺りの混乱をモロに受けるので選択は慎重に。

参考図書にしている『現象学入門』ではそこにはあまり触れず、ヴントの実験心理学を更新したのはゲシュタルト心理学だと指摘しています。

つづく

※ハイデガーは次回登場の予定!



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