虚構を貫く粒子 続:バスタブで暮らすを読んだ感想「心の擦れ違う運命の囚人たち」エクストラリンクによって到る聖詠からの刹那。ガンダム・量子化するクオリア・メタル俺――やがて兵器に花が宿るとき
終えた事を始める時:ゆさちゃんへ、あなたが幸せである事を願って
愛すべき――はずだった、のに
『バスタブで暮らす』の感想を書いた。が、あまりにもムカついたので、また怒りを書き散らしてやる事にする。しかし何故こんなにもムカつくのか?恐らくこの磯原めだかと俺は共通して左派政党に投票するだろう。磯原めだかとは今まで付き合った女の子の誰よりも政治的意見を一致させている……萌え~で、愛すべき女だと思うのに。なのに何故左派の不倶戴天の宿敵であった安倍晋三よりもイラつかせられるのか? 何の権利があって俺が作り上げた快適なコンフォートゾーンから俺を排除させるのか。考えた。強迫神経症的に考え続けてしまった。
激萌えな柊うてなちゃん……いや、雷霆万鈞のクアンタム!
この記事は磯原めだかがバスタブで暮らす事でもう一度生まれ、変わったように、俺がもう一度生まれ、変わる為に書き殴ったものである。俺の自伝的要素と反省が多分に含まれている。そうして、俺は俺自身を変え、変革させる。先の記事では「のちに生まれるものへ」変われと言ったが、現在「社会人」と呼ばれている80歳未満の変われなかった元子供たちの代わりに、俺をイノベイターに変革するつもりだ。
誰かが言った――ニーチェの思考の道程は狂気の一人芝居だったと。俺がやっているのも同じく狂人の一人芝居になってしまうのかもしれないが、やる。その後トランザムバースト。いや、クアンタムバーストを発動させる。
ここでマハトマ・ガンジーの言葉を引けば「あなたがこの世界で見たいと思う変化にあなた自身がなりなさい」だ。本当は『魔法少女にあこがれて』の柊うてなちゃんみたいな感じになりたいのだが(最近マジアベーゼみたいな角にあこがれ角のヘアアクセを購入した)、流石にそれはちょっと無理っぽいので、やはりガンダムを目指します。今から本当に(何の比喩表現でもなく)量子化しますので、驚いて下さい。
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初音ミクの絵との因縁
19歳。はじめて心療内科の診察室に足を踏み入れた時のことをよく覚えている。中学生くらいの女の子が描いたであろう、拙いが楽しんで描いた事が伝わってくる初音ミクの絵と、老いた男性医師の似顔絵が飾られていた。それを見た時に、なにか自分の人生は途方もなく間違ってしまったのではないかとの疑問がよぎった。ただその時は深く考えなかった。だがその直感は鋭い程に当たっていた。
ただ、今思い返してみると、心療内科や精神科というのは、うまくやっていけない子供たちのバスタブになるようなデザインがされている。
大抵どこも、内向的な子供たちが好むような、まんがやアニメ関連の本だったり、フィギュアだったりが、飾ってある。子供たちが描いたであろうイラストが飾られている場所も多い。今通っている精神科の内装も、ディズニーのアニメに出てくるような感じで、あまりにも暖かい。また初音ミクの絵だ。
担当医も優しく穏やかで話しやすい(若干オネェっぽさもある)。俺の歩んできた10代には無縁の雰囲気で、こんな所を子供の頃に知れていたらと、思う。
半身――あえてサラ・ウォーターズの小説の名を借りよう
俺に「僕たちはまるで双子ちゃんのようだよ」と言った少女がいた。確か23歳の時に出逢って、彼女は17歳だった。25歳くらいまでそれはとても幸せな時を過ごした。それまではそれなりに性欲を満たす為の恋愛をしていた俺が、プラトニックな関係を望んだ時であった!(キモくて、すまんこ)最高の瞬間と言っても過言ではない。
その少女は生身の人間として俺の前に電撃的に到来した初音ミクの絵だった。具現化したのか、あるいは先に君が初音ミクのイラストとなって失意の俺の前にサクラメントとして現れたのか。絵ではなく生身なので最も熾烈だった。一緒に過ごせたときをいつもいつもつい思い出してしまう。未練たらしく、女々しいのは、承知の上だと臆面もなく言わせて頂こう!
はじめて彼女が歩んできた苦しい人生を信頼して告げてくれた時、俺の今までの苦痛はこの刹那のお陰で報われたとも思った。恥を忍んで言うが(恥知らずと罵ってくれても構わない)俺にとってのレギーネ・オルセンだったし、ベアトリーチェであり、今もそうで俺にとっての1492年《例え1492年というのが錯誤だとしても》の栄光だ。1492年のルネッサンス、イタリアの人々がこの栄華を取り戻す事は、二度と出来なかった。それと同じように、俺の人生も、これ以上はないだろう。
俺のあこがれた可愛らしい顔と声で俺の間違いを《彼女の存在それ自体が彼女自身の意図とは全く別に》突きつけ続けてくるその少女を心の底から愛し、やがて心の底から憎悪した。俺の人生から追放したかった。そう思って、余りにも肉がなく細いがりがりの彼女を抱き締めた後に、殺そうとし(殺せる訳がない)、出来ずに(色々あって)そうして俺から離れていった。醜悪で、救いようがない。
俺は錯乱していた訳ではない。いやずっと錯乱していたのか? その後、もうどうしても自分の半身を取り返しがつかなくなった後悔に苛まれたが、何もかもが遅かった。自分が犯した罪悪の中で最も罪深いと思う。絶対に許されるべきじゃない。ただいつから取り返しがつかなくなったのか? もしかしたら生まれた時にもう取り返しがつかなくなったのかもしれない。いつからか。究極的には、それはわからない。
何度でも回帰してくる初音ミクの絵
『バスタブで暮らす』は再度俺の眼の前に現れた初音ミクの絵だ。磯原めだかはその絵に描かれた初音ミクそのものだ。他にも多くの初音ミクの絵が俺の視界をよぎっては、目を逸らし続けてきた。ちゃんと向き合わなかった。
だが今度ははっきりと視線を向け、自信と歓喜の念をもって、堂々と「ああ。お前と違って、俺は途方もなく、修正など絶対に不可能なレヴェルで、根本的に間違っている。それがどうした?」と答えてやろう。キルケゴールの『死に至る病』で描かれる絶望の最終段階――ある意味で世界を高次のもの足らしめている失敗作たる醜悪が、俺だ。
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失恋
磯原めだかに対して感じる不快さは。今まで何度か経験してきたものと同じだ。認めたくはない。唾棄すべきリベラリズムに魂を売った売女。死ねゴミ。くたばってしまえ。何の権利があってこんな思いをさせてくれるんだ?
惨めで、悔しい。本当に認めたくなくて残念だけど。これは失恋の痛みで、悲しみだ。あえて恣意的な表現をすると、俺は磯原めだかにふられてしまった。
俺と同じ景色を見てくれると思ったのに、見てくれなかった事に対する失望に、怒りを抱いている。心が擦れ違った摩擦の痛みか。それだけお前の考えは魅力的だったのか? なにか身勝手な期待を抱いてしまったのか。某極東チャンピオンの名台詞「希望を与えられ、それを奪われる。その時人間は最も美しい顔をする。なら、それを与えてやるのが、俺のファンサービスさ」。いやぁ、オレっち、めだかちゃん……いやVtuberいばらたむにファンサされちったねぇ……w
ならば、磯原めだかがカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』を引くなら、俺はアドルノの『否定弁証法』を引いて彼女に反論したい誘惑に駆られる。さて、否定弁証法は明確な原理原則として述べられた場合、結果的に事実上「矛盾して」いる。自らの失敗を含みいれる立場、失敗を通じて真理-効果を生み出す立場を指している。否定弁証法の関心は「思考それ自体の立場の解体に」ある、と。ここでバディウの概念「抜け去り」を引きたくもなるが、そこまでの余裕はない。
しかしながらアドルノはヘーゲルを批判する際、意外なことに(あるいは、それほど意外なことではないかもしれないが)自分の敵であるカール・ポパーと手を組んでいる。「開かれた社会」を擁護するポパーにとって、全体性という哲学的概念から政治的全体主義は一本道で繋がっているのである。ここでアドルノの陥った袋小路について詳しく説明する暇はないが、(ジェイムソンやハーバマスを引くまでもなく、自己破壊的な絶望に陥っている)それならば、妥協する事なくラディカルにヘーゲルへの回帰を果たしていこう。
アダム・スミスの神の見えざる手をよく承知していたヘーゲルの概念――狂気的とも思える不気味極まりない《理性の狡知》は、世界に根源的な不安定と緊張を漂わせる。ポパーにもアドルノにも、耐え難いであろうな。だが《世界の夜》が俺には心地よい。
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向き合わない
安倍派の裏金議員の物言いと、昔見たある社会主義リアリズム映画(タイトルは忘れた)の1シーンと、俺の母親の物言い(父親の物言いもそうだ)が驚くほどに似通っていたので、政治的思想や立場はどうあれイデオロギーに完全に洗脳された人間はかくもこう同じように非誠実な振る舞いをするのだなぁと哀れに思った。
裏金議員は「安倍さんに申し訳ない」。社会主義リアリズム映画、戦争で離れ離れになった男女が、スターリンの演説の場で偶然再開し、信じられないといった表情でまずスターリンを見る。まるでスターリンが運命を操作して引き合わせてくれたかのように。俺の母親は「私は(セミナーの)良い仲間たちに囲まれてるから、アンタが私をいくら間違っていると言っても、その人たちが判断してくれるから」。
これらのケースに共通する誤謬――本当に向き合うべき相手に、向き合わない。彼らはフェイスハガーに寄生され自分をエイリアンだと思い込んでおり、エイリアンの為にしか働けないのだ。
俺の両親はまったく努力ができない人たちだった。努力――現状維持の為の惰性で手足を動かすばかりで、ラディカルな変化をもたらすクリティカルな努力をまったくしなかった。いわばコンフォートゾーンから踏み出す勇気の欠如。世の中の人間ほとんどがそんなもんだと言えばそれまでだが。
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本当に向き合わない奴は誰か
だが、よくよく自省してみると。それは程度の差はあれ俺も同じだった。かっ飛びングできねぇ、俺! 笑える程に愚かだった。市井の人間よりは、それなりには努力している方だとは思う。だが甘かった。右翼やリベラルのちいかわ並みの奴らより、俺は遥かに優れた人間なのだから、その能力の高いぶん、より真剣に物事に対して向き合わなければいけない。高貴なる者の義務、Chovyも言うようにキャリー義務というものが存在する。俺も向き合うべきものに向き合いきれていなかった。マルクスに、フロイトに、ジジェクに、ゲームに、そしてガンダムに、真剣に向き合っていなかった。
ただ、流石にソロランクはAdy将軍様、万歳(マンセー)!
ヘルカイザー最後の雄姿を見た遊城十代の言葉を借りれば「自分自身が本当に恥ずかしい」。もっとやれるハズだったのに。むしろ能力が低すぎてどうしようもなかった両親よりも、更に俺はダメ人間かもしれない。両親よりも遥かに能力が高いのに、高貴なる者の義務を怠るという罪悪を犯し続けていた。
本当に必要だけど不快なものを目に入れないようにしていた。磯原めだかと向き合うのは大変苦痛だった。何故なら――忌まわしい俺の両親と同じように、俺も常にガンダムの方を向いてしまうからだ。バカバカしい資本制を盲信するよりは遥かにマシだとは思うが、それでもガンダムに強迫神経症的に向き合い続けたせいで本当に大切な半身を失ってしまった。ただそれでもガンダムと真に向き合うには不十分だった。
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許せぬ景色
同じように世界と上手くやれずに対して苦しんでいる人に、もう救いを求めたりはしない。ぜひ連帯しよう、俺を理解してくれなどとは言わないしガチでそれは一ミリ望んでいない。本当の俺、などまるで見て欲しくはない。俺は究極的には個性というものが全然なく、クズキングとクズクィーンから生まれた約束されたクズであり、欠伸が出るようなありふれた醜悪だからだ。他人に見て貰う価値がない。
ただこんな醜悪がありふれた世界には憤怒しかない。だから他人に本当に見て欲しいのは、俺ではなく、俺が見ている景色だ。そうすればお前もガンダムに乗らずにはいられなくなるだろうから。
始めた事を終える為の始まり:かつて見上げた神《ガンダム》
俺には苦痛しかありません
20代後半に入ってから俺が最も沼っているインディーズゲームスタジオ「ProjectMoon」の作品で繰り返し引用されるこの詩は、俺の人生をもっともよく表現している詩だ。
躁鬱・精神障害を患い、経済的にも底辺で、衝動的(親を見るに明らかに遺伝)に金銭を使ってしまうので生活が本当に苦しく、アルコールに依存し、強迫神経症的に物事を考え続けてしまう狂気により、いつ統合を失調してしまうのかビクビクしている俺の人生は、苦痛で塗り潰されている。
本格的に鬱に苦しみ始めたのは19歳の時からではあるが、高校生の時から鬱の症状は出ており、いわば人生の半分近くを精神障害(正確な診断名は持続性気分障害)と共に過ごしている訳だ。つまり、ずーっと、辛い。ああ、精神障害よ。俺はとうとうお前を尊敬するに至ったよ? しかし何故こんなにも苦しんでしまうのだろう。ストックホルム症候群という奴だろうか。一切皆苦。苦痛しかないなら苦痛以外を愛する事などがどうしてできましょうか。
苦痛への愛の発露は――苦痛に喘ぐキャラを見るのが好きという性癖となった。俺は最終的にはハッピーエンドを迎える前提で、萌え~な女の子がかわいそうな目に合うのが大好きだ!(例えばアニメ『BRIGADOONまりんとメラン』なんか良い)もう生きるのが辛いメンヘラ女子が、数多の不幸を経て、やさしいお姉さんに優しくされて、幸せになっているのを見ると、涙が出そうになる。
便宜的に範囲をフィクションに限定するが、一般論として、自分が共感できるキャラクターを好きになりがちだ。根本的なところで磯原めだかに共感できないなら、じゃあ逆に俺が内面に共感できる、容姿が萌え~だからではなく、内面で好きになったキャラ……。刹那・F・セイエイ、グラハム・エーカー、メツ(ゼノブレイド2)、エレン、ジーク、ライナー、藤木遊作、Ai、リボルバー、アイン、ローラン、ヴェルギリウス……。
もう少し解像度を上げてみると、つまるところ、かわいそうな女の子はかわいくて萌えだ。あこがれの対象だ。
だが苦痛にあえいでもがき続けている男性キャラクターには、途方もなく感情移入してしまうんだ。なんでかって? 俺に、似ている、と。
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プロムン紹介
ここで少し「ProjectMoon(以下プロムン)」のゲームについて解説せねばなるまい。「都市」と呼ばれる残酷なディストピア社会を舞台にしたゲームであり、ユダヤ神秘思想カバラを重要な概念、骨子として物語が構成されている(プロデューサーのキム・ジフンは大学の図書館にあるカバラ関係の本を片っ端から読んだという)。
カバラの重要概念セフィロトの樹では男性原理を司るセフィラ(ホクマー・ケセド・ネツァク)は慈悲の柱と呼ばれ、一般的な男性ジェンダー観とは逆の慈愛や悲観が配置されている。逆に女性原理を司るセフィラ(ビナー・ゲブラー・ホド)は峻厳の柱と呼ばれ、力強さや熾烈さが配置されている。
それを反映しているせいかプロムンの女性キャラはなんかやたら戦闘力が高く残忍でヒステリックだったりするが、男性キャラは大抵よく他人のことを気にかけ、内心では途方もない自己嫌悪に満ちて、自罰的に自分を責めている。なので、プロムン作品はかわいそうな男が大好きなヘンタイさんたちに、非常に愛されていて、いつもかわいそうな男のゲイ・イラストが流れてくる。女性プレイヤーの比率がかなり多いらしい。
俺はヴェルギリウスというかわいそうなおじさん(最強クラスなのに職場の仲間は全滅、運営していた孤児院の子供たちを殺されたり実験でバケモンにされて、誰一人守れずに自分を責めている)が推しであり、彼に最も感情移入してしまう。
つまるところ、最も感情移入できなかったキャラが磯原めだかであり、最も感情移入してしまったキャラがヴェルギリウスだ。このヴェルギリウスについて、後でもっと詳しく語る必要があるが、一旦ここまで。
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しかしながら、何故こんなにも苦痛塗れなのか。もう少し快楽――と書くと語弊がありそうだが、心地よさを求めても良さそうなのに。なぜずっと苦痛と絶望の淵に沈み込んでいなければならないのか?俺はマゾヒストなのだろうか。なぜ苦しむのか。なぜバスタブで暮らす磯原めだかを見るのがこんなにも苦痛なのか?そもそも苦痛とはなんなのか。苦痛にはどんな種類があるのか。ただ苦痛は複数あるのかもしれないが地獄は一つしかない。取り敢えず、磯原めだかと連帯できなかったがゆえに発生した苦痛について、詳しく考えてみようと思う。
心の擦れ違う――求めていたものは同じなのに、何故?
先ほど失恋、と称したものに引き起こされたこの一種の苦痛について。
先日プロムンのソシャゲ『Limbus Company』のストーリー6章「心の擦れ違う」が配信された。名作文学「嵐が丘」を原作としたストーリーで、ヒースクリフとキャサリンの心が擦れ違う。それだけの話だが、あまりにも、あまりにも心が擦れ違いすぎていた。求めていたものは全く同じなのに擦れ違い続けるヒースクリフとキャサリンと、その狭間で不幸に陥るヒントンとリンドリー、そして老いて疲弊し摩耗していくあらゆるネリーを見て、自分がなぜ好き合っていた筈の女の子と上手くやれないのか、なんとなく、分かった。心が擦れ違うからだと。
具体的には、二人の愛というものへの接近への希求・欲望――様々な意味でのアプローチが擦れて違って、摩耗し、疲れ、嫌になって離れてしまうからだと。理屈としては当の昔に分かりきっていた事ではないか。ラカンの示した図式の通りだと!
メンヘラとの恋愛遍歴
自分が好きになって付き合った女の子はみんなメンヘラで、スタンド使いのようにメンヘラ同士惹かれ合うみたいな事なのか、とにかくメンヘラばかりだった。(別にメンヘラ食いをしている訳ではないですよ🤓)ただまぁ苦痛に麻痺したメンヘラなのでリストカットをしている情緒の激しい女の子じゃないとちょっと満足できない、という点はあるかもしれない。先ほど書いたかわいそうな女の子がかわいいという性癖もあるかもしれない。
俺はちゃんと交際している相手がいる時はほぼ浮気はした事がない、ほぼ。ので、相手の精神状態を劇的に悪化させるようなマネはしない。自慢ではないが(九州では勿論自慢できたのだが都会ではそうでない)女を殴らないのだ!小学生のときにクラスの女子をからかってちょっとはたいたりしてたのが最後で、本当の本当だ。
だが、心の擦れ違う場面がやってくる。メンヘラ女は俺がいつも不幸そうなツラをしているのが気に食わないらしい。「私はあなたと一緒に過ごせればそれだけでいいのに あなたは何故いつも社会や政治について何か怒っているの? 私がいるじゃん。私のことだけを考えて、楽にしてあげるから」と。ああ、いつもいつもこれなんだ。幸福に対するアプローチがまるで違う事に絶望する。ここでの疑問はラカンが表した男女の性的差異の非対称と極めて一致している、すなわち「俺はガンダムなのか?」
ガンダム
ここで俺はいつも妥協出来ずにガンダムになってしまう。相手の気持ちよりもガンダムを選んでしまう。他のキャラが闘いの前に自分の恋人や家族の名前を呼んでいる時に一人だけ「ガンダム」と言った刹那のように。
刹那が沙慈・クロスロードに向かって言い放った言葉が胸に刻まれている。
「自分だけ平和ならそれでいいのか」
愛せない世界からの解放区。二人の私的な愛のささやかな生活圏、それは理解出来る。そこに逃げ込んで幸せに暮らしたいという気持ちは。だがそれは失敗を約束された試みだ。ミラン・クンデラの小説の教訓を思い出して欲しい。全体主義の統率された空虚で喜びのない機械的外部とは違い私的生活は情念ある人間的生活が送られる――という事ではなく、その情念ある人間的生活と思い込んでいるものすらも全体主義的イデオロギーがますます浸透した結果なのだ!
文句がある。不満がある。あるに決まっている。俺達を暗闇の奈落に陥れた家庭という悪を規定した悪が社会や政治、世界だろう。お前の絶望は、お前の歩みはそんなものだったのか? そうして、失望してしまう。同じ景色を見てくれる人が現れたと思っていたのに。抱き締めれられている中ですら俺は孤独を感じるハメになる。
まぁ、分別のない20代前半のガキの早合点と言われればそれまでだが。
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刹那とマリナというライバル
俺が刹那・F・セイエイで、磯原めだかがマリナ・イスマイール。これは、我ながら的を得ている比喩だと思う。俺と磯原めだかはもし実際に会話出来るとすれば、最初は相互理解が可能な相手だと見なすかもしれないが、最終的には傷つけ合う羽目になるだろう。心が擦れ違う。バスタブで暮らせる恵まれた「テンションの低すぎる人間」たちに対して「自分たちだけが幸せならそれでいいのか」といつもいつも憤怒を向けてきた「テンションが高すぎる人間」である俺には彼女が許せない。
刹那とマリナも心が擦れ違い続けた。OPでは二人が手を取り合おうとするが結局掴めずにすれ違ってしまうカットが印象的だ。刹那はマリナに抱き締められる事を拒み、闘いに身を投じ続けた。同じ未来を望んでいたのに余りにもアプローチが擦れ違った。マリナはヒロインではなく、グラハムやサーシェスやリボンズよりも、最もラディカルな意味での刹那のライバルである。
考えてみれば、俺に手を差し伸べてくれる親切で優しいマリナもどき(本当に、もどき、だが)は何人もいた。ただ俺は毎回毎回それを拒み続けてきた。俺に救う価値はあったのか?それともお前も適当な相手とバスタブに逃げ込みたかったのか?心が擦れ違う。救済されたくない訳じゃない。ただ安易なバスタブで暮らす事はまた俺を苦しめるから。ガンダムと心が擦れ違ってしまうから。目標の為に"苦痛"以外の手段がないのかもしれない。
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唯一ガンダムから解放してくれる苦痛を分かち合った双子
「心の擦れ違う」のラスボス戦。自分のせいだ自分のせいだと自責に苦しみそうやってまた擦れ違い続けるヒースクリフとキャサリンを見ると、最も心が擦れ違った時を思い出してまた心が搗き砕かれるようで苦痛だった。Miliの挿入歌「傍にいないほうが、あなたは幸せな人生を送れる」。ある種の反出生的なものを感じる。
本当に、凄まじい演出なので、ぜひ皆にプレイを勧めたい。
他の人間とはまぁ他人同士うまくいかないよね、頭のおかしなメンヘラ同士だし(笑)で済んだが、俺を双子とまで称した人間と擦れ違うのだけは比喩ではなく本当に耐え切れなかった。
お前が元気よく「うん!」と言うのが、本当に好きだった。一度お前を残酷に、俺は人を罵倒する才能があってそれを駆使してお前を突き放したのに、ずっと思い続けてくれたのが嬉しかった。お前が苦しむのを見るのが嫌だった。就職できたよ!と喜んでいた時、社交辞令として、おめでとうとは言ったが本心では素直に祝えなかった。言っちゃあなんだけどメンヘラ過ぎて学校も頻繁に休んでるアホ高校のメスガキに、ろくな就職先がある訳ないじゃないか。それだけ優れた素養を持っているのだからそんなところで働いて摩耗して欲しくなかった。擦り減ってほしくなかった。もっと卓越した者へ。ただそれは俺の傲慢か? 唾棄すべきエピクロス主義なのか?
磯原めだかみたいにVtuberにでもなればよかった。俺は丸の内や新宿のオフィス街で働いた経験があり最底辺の日雇い労働もどちらも経験した事があるからこそはっきりと言える。有名私大を卒業したキラキラOLが洒落た店でランチを楽しんでいるのを見て思い出す。ああ、お前くらいなら、ああいうところにいて欲しいと。ガンダムとは無縁の人生を楽しんで欲しいと。
いつだったか、本当のお父さんに会いたいと泣くお前を見て慰めの無責任でしかない空虚な言葉を吐いた。他の人間に対しては衝動的にガンダムになってしまうのに。お前の前だけではガンダムになれなかった。つまり、お前といると、ガンダムと心が擦れ違ってしまうから憎悪した。
ただ、お前といると、擦れ違って傷だらけになってしまうけれど、暫くガンダムの事を忘れさせてくれるからこそあんなに愛してしまった。本当にあの時を誇りに思う。女々しいな。でもガンダムとお前の存在は根本的に矛盾しているんだ。俺はガンダムから、究極的には逃げられない。今思えば、お前は、俺がガンダムから、一時的にでも逃れられる、たった一つの人間の形をしたバスタブ、だったのか? 究極的に錯乱しているのか。
左翼としておかしな事だが、お前だけはエピクロスの花園に行って欲しかった。あの人といっしょに幸せになるべきだった。あの人とは半身に異様に執着していた一個上の女性のこと。あの人に感情移入してしまったのか。あまりにも不器用なあの人のことを憐れみ、本当に美しく思った。
俺も余りにも不器用な人間だから。
ガンダムの武装介入とは無縁の天国へ。磯原めだかのように暫くゆっくりバスタブで暮らして欲しかった。俺がガンダムにならざるを得なかった理由をその存在自体が突き付けてくるからこそ耐え切れなかった。お前のようになれないからガンダムになるしかなかった。
世界の歪みと闘うにはガンダムが必要だった。そして俺自体も世界の歪みであり、俺がガンダムを諦めてしまったら俺の犠牲も苦痛も他のガンダムマイスターの闘いも無意味になる。他のガンダムマイスター――逝ってしまったロックオン・ストラトスが「なぁ、お前ら、こんな世界で満足か?俺は、嫌だね……」と語りかけてくる。満足なんてできない。俺も、嫌だ。
*
俺は歌い手ではろんさんの声がめちゃくちゃ好きで(少年っぽい感じがあるのが、めちゃくちゃ良い)、『のべつ幕なし重ね合わせ』はもっと評価されていい名曲だと思っている。今の俺の気分に最適な曲だ。一般ピーポーが憧れ、望み、好むであろう――好きな人との「たわいも無い会話 落ち着く笑顔 他に何を望むんだ」――勿論こう言おう。ガンダム!
ガンダムは本当に残酷で、俺を無理やりガンダムマイスターにしてくる。俺だって子供の頃はガンダムになりたくなかった。幸せな天国に行きたかった。でもガンダムがやってきてGN粒子をバラまいた。ガンダムが助けてくれた。ガンダムを見上げてしまって、ガンダムが俺の方を興味深そうに見た。俺のことを「あんなに優しい」と称していた半身に対してに俺はガンダムである事に抗いきれずに最後は耐え切れずガンダムになってしまった。
ガンダムと出逢わなければ慈愛の天使になれたのか?最終的には、自分の半身よりもガンダムを選んでしまった。もしかすると、俺はお前をルイス・ハレヴィにしてしまったのかもしれない。これが人間の所業か。世界の歪みに苦しめられ、ガンダムになろうともがき、その過程で沙慈のような平和な人々の幸せを奪い、ルイスやブシドーのような新たな歪みを生む。不幸と報復の連鎖。
致命的な誤りがある。お前は俺を双子のようだと言ったが、不理解と早合点により分泌された――詰まるところ茶番に過ぎない妄言だ。ただ、流石のガンダムも、その言葉にだけは、大人しくしていた。あの徹底的に厳格なガンダムが、今でも大人しくしている。あまりにも馬鹿馬鹿しいから、ガンダムは許してくれるんだろうか。その言葉に、みっともなく、ずっと縋り続けている。惨めと言ってもらって構わない。
そうして俺はもう自殺するかガンダムになるしかなくなった。自殺は失敗した。本当は自殺したくなくて、ガンダムになりたかったのか。そんなにも俺はガンダムが好きなのか。
半身が大好きだったうごくちゃんが自殺した時、またその悲しみが鳩尾を突いてきて、今もずっと俺を苦しめている。まぁ俺はガンダムになる為に最適な人生だったから、まだいい。でもうごくちゃんは俺よりも遥かに優れているのになんで死んでしまうんだ? 何がそんなに不満だったんだ? ただ、上手くいく筈だったものが、擦れ違ってばかりいると、もう何もかもに期待する理由が分からなくなってしまう。
荘子を取り立てに来た権力者のエピソードを思い出す。華やかに祭り立てられて天狗になった牛も、結局は供物にされる為にそう飾り立てられた運命を知ったなら絶望するのであろう。その能力の高さや幸福は、不幸への前座に過ぎないのか?
根本的な不安定と緊張がねばつく永遠の合一
だが、ガンダムとだけは、もう心が擦れ違わない。俺をガンダムから引き離してくれる天使が逝ってしまったから。もう、二度と。もしかするとガンダムは君を殺す為に俺の前に舞い降りたのかもしれない。ただ、半身を裏切り、心を裂いてやって手に入れたものは、もう一つのGNドライブだった。"この"GNドライブを、ラカンの用語で対象aと呼ぶ。いや、そうなのか? 自信がない。だがOOガンダム、武装介入を行う!
俺はツインドライヴシステムを手に入れたが、3年ほど凄まじい憂鬱の中で野蛮なゲームに勤しみながらひたすら考え続けなければならなかった。20代後半のヘーゲルが消耗性の鬱に苦しんだのは、これと同じ事ではないだろうか?哲学を完成させるとは、自己が自己に行う精神分析である。ツインドライヴシステムは、オーライザーが無ければ安定しなかった。ようは外部との接続が。沙慈・クロスロードとの和解が。そしてようやく、オーライザーが完成したのだと。いや、まだそうではない。
しかしこの罪の断末魔の時には、ガンダムのコクピットから人生を振り返る罰を受けるだろう。その時だけはゲーテのファウストのように、天使になった君がやってきて、もう一度だけガンダムから引き離してくれと願う。それくらいなら願う事は許されるだろうか? 本当に女々しいな。 ガンダム――フランシス・ジャムの詩をこうパラフレーズしてみて本章を終わらせよう。
バスタブライフに逃げ込む為の、エスタブライフからの偉大なる逃走
先の記事で、「バスタブで暮らさない エスタブにも属さない」と書いた。これは深く考えて書いた訳ではない、単なる押韻として手が勝手にタイプしただけにすぎないのだが――その実、非常にクリティカルな着眼点なのではないかと気付いた。
谷口悟朗監督の3Dアニメ『エスタブライフ グレイトエスケープ』は非常におもしろく、2日で一気に全話見てリアタイ視聴してなかったのを後悔した程だ。エスタブライフ――建築された生活からの偉大なる逃走。つまるところ、ある意味で、バスタブで暮らす――バスタブライフを目指すアニメという事ではなかろうか?
『エスタブライフ』は、自分の属するクラスタと言われる生活圏を愛せない人を、他のクラスタへと逃亡させる逃がし屋の物語だ。だが、物語の最後で、逃がし屋たちに逃亡依頼を送っていたMの正体――多様性を担保する為の多様なクラスタを統御する世界の管理者ザ・マネージャーが、この立場から逃げたいとして逃がし屋にSOSを送る。そうして、ザ・マネージャーは管理者の立場から逃亡する……。
クラスタから逃亡し、また別のクラスタへ行く。当然、元いたクラスタよりは良いが、新しいクラスタで苦労もある。エスタブからまた別のエスタブに移動しているに過ぎないので当然だ。バスタブに行く話もあったかもしれない。ただし、その逃走を決断し、実行に移すその行為そのものが、人間をまた何か変革してくれる尊い行為なのではないだろうか。磯原めだかもバスタブで暮らし、そこから出る、その《逃走=闘争》によって変革が為されたのだから。
記念すべき1話では、哲学教師がニーチェの「愛する事ができないなら、通り過ぎよ」について説明しており、自分もそれを実践しようとし、逃走する。逃げて、前より満足できる生活を手に入れた。
ただ問題は、エスタブが一つしかない場合、どうすればいいのだろうか。地獄が一つというのはそういう事だ。そして、バスタブを愛せない場合はどうすればよいのだろうか。俺だけのバスタブに入る事をガンダムが許さないとしたら、どうだろうか。なにせガンダムは20m前後あるのだから。もっと言えばガンダムのコクピットが苦痛付きバスタブだとしたら。
はじめに:Oガンダムにあこがれて――聖詠
LEVIATHAN 俺が心の底から共感した男、全ての攻撃が憤怒属性「赤い視線ヴェルギリウス」
では、最も俺が共感した男――磯原めだかとは真逆の存在。特色フィクサー(特級術師みたいなもん)赤い視線「ヴェルギリウス」について語っていこう。日本語VCがついたら絶対ツダケンとファンの誰もが言う男。ツダケンの声はかっこよすぎる。
『Limbus Company』前日譚『Leviathan』の主人公であり、フィクサーという何でも屋の事務所の代表であり、色を付与された最強クラスの特色フィクサーだ。クリスマスの日、自分が作った保育園(孤児院に近い)にプレゼントを持っていくと、謎のバケモノが保育園を襲撃して子供を殺していた。バケモノを殺そうとするが、同じく特色フィクサーである紫の涙(確率を変動させ、次元を跳躍するという規格外のチート能力を持つ)が何故か邪魔をしてくる。流石に相手が強すぎてヴェルギリウスは敗走してしまい、子供たちが多くが死ぬ。なんやかんやあって薬指というキチガイ組織を調査する事になったヴェルギリウス。色々あって仲間が裏切ったり殺されたり実験台にされたりしてる中、メンヘラ生脚ポニテおばさんとおはなしし、血液を操るE.G.O.という自分だけの武装を発現可能となって幻想体という化物に勝利を収めるが、最終的には事務所の仲間も皆殺しにされ保育園の唯一の生き残りだった二人――ガーネットはなんか宝石になって砕かれラピスはカロンという全く別人の入れ物になってしまった、かわいそうなオッサンだ。
6章ではじめてスポット参戦するのだが――笑えるほどに強く、通常キャラクターのスキルは2~3種類の異なる罪悪属性が設定されているのだが、ヴェルギリウスに関しては全て憤怒属性だ。全ての感情が、憤怒で染まっている。まるで俺のようだと思った。
大きな流れを追う為に面倒で複雑な契約を経てLimbusCompanyの案内人をしているのだが、その契約を破ってまで許せない景色を殲滅しにくる姿。まるでアンティゴネのようじゃないか。俺も許せないものに対してひたすら怒り狂った人生だった。愛すべきものを愛する感情よりも、それを害され失い敵を憎み怒り続ける人生だった。
原作ダンテ『神曲』通りにいくと、ヴェルギリウスは煉獄編の最後で離脱し、案内人をベアトリーチェにバトンタッチするだろう。ヴェルギリウスの約束した天国がどんなものなのか、楽しみである。
磯原めだかというキラ・ヤマト。なら俺はラウ・ル・クルーゼ。
現代社会では、むしろ磯原めだかのような、社会と上手くやっていけない「テンションが低すぎる人間」こそ、憧れの対象になっているのではないかと思う。邪悪な情熱に満ちた「テンションが高すぎる人間」というのは資本制に疑問を抱かずに日夜労働に励んでいる――つまるところ、神の見えざる手によって突き動かされるある意味で非人間的な存在だ。
資本主義の存在を認識した古典――アダム・スミス『国富論』でも読めば分かることだが、資本主義と比較して社会主義はあまりにも脆弱だ。なんせ資本主義は神で、社会主義は人為なのだから。人がやらずとも神の見えざる手がやってくれるのだから。いわば悩む事もなく成り行きまかせで全く問題なくハッピーな「テンションが高すぎる人間」は神が全部やってくれるので、大した悩みも大した憧れもない。偽りの神を認識するリベラルは、神様に勝てる訳ないじゃん……と戦意喪失し、「テンションが低すぎる人間」になり、「テンションが低すぎる人間」の中で閉じこもり、鬱屈しているので、悩みも憧れも大きくなる。
理性の狡知――ここでチェスタトンの有名な狂人の定義「理性以外の全てがなくなった人間」について考えたくなる。つまり神の見えざる手との完全なる和解を完了した、まばゆいばかりの神の恩寵を受けた人間――生まれる事に成功した人間の群れ。
サンデルのトランプ支持者の低学歴貧困層について説明、リベラルに勝利して「スカッとする」対価として、快く増税や貧困を受け入れている――そう称した人々。俺や磯原めだかからすれば狂人にしか見えないだろうが、狡知に抗えず理性以外全てがなくなったのであろう哀れな者なのか。
だがここでも我々は神からは逃げられない。浅田彰の有名な指摘を省みるまでもなく、磯原めだかの「テンションが低すぎる人間」としての性質は、明らかに資本制の運動の「商品」として回収されている。つまり天国にいながら地獄の悪鬼たちに餌を与えるマッチポンプ的存在なのだ。ある意味、最も特権的でおいしいとこどりのクソ女。厄介な奴だよ、君は!あってはならない存在だというのに。知れば誰もが望むだろう、君のようになりたいと……君のようでありたいと!故に許されない、君という存在も!
このクソ女はそんな事はないとまた適当な理屈をつけて俺に反論してくるだろう。だが俺はラウ・ル・クルーゼのようにこう叫ぼう。この憎しみの目と心と、引金を引く指しか持たぬ者たちの世界で!!何を信じる!何故信じる!俺も彼奴らも苦痛と狂気しか知らぬさ!所詮人は己の知る事しか知らぬ!
生まれる事にガチで失敗してしまった俺の妹
非常に不愉快な話なので今まで殆ど話してこなかったが、小学生の頃、母親が妊娠して妹が生まれてくる、という事を祖父が喜んでいた。ただ小さかったので記憶は朧気で当時何を思ったのかも全然覚えていない。俺と弟をもロクに育てられないのに何が妹だ、というのはもういい。母親が40歳くらいで高齢妊娠(本当にキッショいなあいつら笑)だったという事もあって、妹は生まれてくる事なく短すぎる生涯を終えた。いわば流産だった。
俺はルッキストなので、もしも妹が両親や俺に似た顔に育ったとしたら、かわいそうだなぁと判断する。貧乏で汚い家だし。女の子なのに自分の部屋すら与えてくれない親のもとで、あんな田舎で育つ、と思うと。「生まれてこなくてよかったね」と言わざるを得ない。今は都会の垢抜けたキラキラJKに囲まれて生きているので、特にそう思う。俺は生まれてくる事にガチの意味で失敗した妹の運命を、肯定する。コロヌスのオイディプス王でも「最も大きな幸運はまったく生まれてこないこと」と謳われているように。
では逆に最も悲惨な人は、ガンダムに囚われている俺や、ろくに判断能力を行使できずに俺を産み出した母親や父親、そして両親と同年代の無数の「親ガチャ外れ」と称される人々、生まれて落ちて――神の見えざる手に衝動的に突き動かされる邪悪な情熱に満ちたマジョリティ。つまるところ、生まれる事に成功した――資本制やアメリカ帝国主義と快く連帯可能な人々ではないだろうか?
生まれてくれば、究極的にどうなるかというのは人間万事塞翁が馬。でも、女の子があそこで幸せになっている情景が、全く想像できない。記憶は不確かだが、俺が小さい頃の母親は、女の子を産みたがっていた、ような、感じがある。斎藤環いわく「母は娘の人生を支配する」らしいが、俺の母親ならやりかねない。生まれてこない方がよかったであろう要素は、たくさんある。
笑えるほどに勝手な妄想でしかないが――君は英雄的な勇気で自殺をしたのだと。搾取される人生を歩むくらいなら、誕生を拒んだのだと。それをお兄ちゃんとして祝福したい。
でも、それでも生まれていたらどうなっていたんだろう、というのが、たまに気になってしまう時がある。もしも妹が今の俺を見上げたとしたら、ガンダムに見えるだろうか? それとも神に歯向かう愚か者に見えるのだろうか。どちらにせよ、悲しく、誤謬である。
無神論者ではあるが、彼女の為の聖詠を唱えたくなる。お前の誕生の身代わりをしてやったのが俺だというのが聖詠になるだろうか?
GN-01 半径8.5m GNソードⅡの斬り裂く距離
炉心融解
ボカロ黎明期の名曲に、炉心融解という曲がある。「核融合にさ飛び込んでみたいと思う」という歌詞が印象的だが、自分自身がまったく存在しない世界は美しいと夢想する歌とでも言えばいいのか。確かに俺も、俺や俺の両親のような人間は存在するだけで世界を醜悪に傾けてしまうと思うので、綺麗さっぱり最初から存在していない事にしてもらえませんか?と願っている。
アボリジニの人々が、初めて訪れた探検家たちに「あなたたちのなかには、まだ人食い族がいますか? あなたたちは人肉を食べますか?」と尋ねられたときの、有名な答えを覚えているだろうか。
「いいえ、我々のなかには人食いはいません。昨日、最後の人食いをタゲましたから」というのがその答えだ。
人食いでない文明化されたコミュニティが最後の人食いを食べたメンバーたちで構成されている場合、その「最後の」人食いが、人食いという犯罪行為だと分類されてしまうと、そのコミュニティは成立しえない。したがって、その行為は記憶から抹消され、「聖なる罪」とされる。同様に、米国の西部開拓地方における「未開状態」から現代の法秩序に至るまでの道は、いわば最後の人食いを食らうような数々の残虐な行いによって切り開かれたものである。
俺の行いも、出来る事なら「聖なる罪」として無罪放免にして欲しいが。そうは問屋が降ろさないのであろうな?
誰よりもまんがやアニメ、特撮を「真に受けて」しまった俺――アラン・バディウの堕落概念
偉大なる高橋和希が、生前インスタグラムで、安倍政権への批判的な文脈の投票へ行く事を呼びかけるイラストをアップロードしたところ、かなりの数の人間が高橋和希をバッシングした。歳を取っておかしくなってしまった、思想がおかしい、とまで言うファンを名乗る人間もいた。普通に考えて、友情・勝利・努力をモットーにした少年まんがを――まんが『遊☆戯☆王』を"額面通り"読めば、高橋和希が安倍政権へ反対する事は容易に分かる。にも関わらず、高橋和希のまんがを読んで育った人間は彼に失望したのである。
同じようなケースが仮面ライダーといった特撮作品のファンにも多く見られる。正義感に溢れた特撮を真に受けたファンが差別主義者に対して「仮面ライダーから何を学んだんだ?」と怒っているのを目にした。ディケイドのウィザード特別編での門矢士のセリフを借りれば「人間の自由の為に戦っている」。また門矢士のセリフを引こう「ちっぽけだから、守らなくちゃいけないんだろ!」まったくもって同意する。士も海東も、俺の理想とする姿の一つ。
ただ、いい歳こいて仮面ライダーが大好きなワンパク「テンションの高すぎる人間」はこう解釈する。「人間の自由は保証されなくてはならない。よって、子供・女性・外国人・共産主義者・生活困窮者の自由を抑圧する自由が必要だ!」そして「日本国や大企業の利益は特亜のウジ虫ども、リベラル、共産主義者、こういった売国奴に常に脅かされているちっぽけなものだ……。ちっぽけだから、統一教会と手を組み、勝共の旗を上げて守らなければならないのだ!」
先の記事でも書いたように。右翼は煉獄杏寿郎の生き様に感動して涙を流しながらも現実では弱者を軽蔑し、リベラルは毛沢東やレーニンの名言を叫びながらも堕落したエピクロス主義にふけるのだ。
シニカル・フェティッシュのモードで機能するリベラルたちは「あぁ、あれは所詮、フィクションだから……好きは好きだけど、現実はまた別だよね」と、解釈する。所詮、フィクションを真に受けるなど高貴な生活を営むリベラル様にとっては馬鹿馬鹿しいのだ。中国共産党の、学生がマルクス・エンゲルスを読む事についての態度を見れば分かる。「正義だの自由だの解放だのほざいているものを読むのは別にいいが、真に受けるなよ?」これが寛容なるイデオロギー・メッセージである。
ここでアラン・バディウの「堕落」概念を導入し、我々は「真に受け」、支配体制からのイデオロギーメッセージをはねのけ、「堕落」しなければならない。『コンクリート・レボルティオ』の主人公、人吉爾朗があまりにも超人幻想を真に受けてしまったように。俺はあまりにもまんがやアニメ特撮、ゲームのキャラクターの叫びを真に受けてしまった。
遊戯王VRAINS最高の台詞「「なにが分かるというんだ!」」
『遊戯王VRAINS』はお世辞にもクオリティの高いアニメとは言えない。古臭く魅力のないサイバースペース(高橋先生が1話を見て激怒したという噂すらある)、主要キャラ以外は露骨に手を抜かれているキャラデザ、やたら多い総集編、制作の事情で短縮された3期……。にも関わらず、多くの人の心を捉えて離さない。俺も心を因われた一人だ。
遊作に最大限歩み寄ってくれた上で、自分が事件を背負っていくと言い、「復讐をやめて普通の学生生活を送るんだ」と自らも過酷な過去を乗り越えて妹の為に生きてきた哀しい大人である財前兄に対して、遊作と草薙さんが同時に発した言葉「「何が分かるというんだ!」」。俺もいけすかない都会のリベラルどもに対して「何が分かるというんだ!」と叫び続けてきた人生だった。幸いだったのは、遊作と草薙さんは、同じ景色を見ていた事で、それが二人の救いとなっていた。ただ、俺には、どうやらいなかったようだ。
復讐、胸に刻まれた傷、譲れない正義、運命の囚人。
ある意味、遊戯王VRAINSは反出生的なテーマを内包している。鴻上博士の無謀な実験による取り返しのつかない罪に苛まれる子供たちとAI。苦痛が最早抉り出すことの出来ない血肉となったとしたら復讐の人生を歩む他ない。
そして鴻上博士はもう既に死んでおり、振り上げた拳をぶつけるべき相手がもういない。取り返しのつかない傷を負った者たちが、どう生きるべきか? これはある意味、生まれてきたという取り返しのつかなさに投げ込まれた者たちと同じ話でもあると思う。VRAINSに関しては後でもっと深く掘り下げていこう。
罵倒や侮辱よりもより効果的に惨めにさせてくれる、柔らかい手
俺はシンソツで本社が丸の内にある上場企業に就職した。まぁろくな会社ではなかったが、大変立派な高層ビルの20何階だかから眺める大都会(大都会岡山とかそういう意味じゃなくてガチの大都会)は、奈落そのものであった田舎からようやく抜け出せた事を実感させ、満足をもたらした。
同期の人々はみな偏差値の高い大学を出た優秀な若者、とかそういう訳ではない――平々凡々な人々だったとは思うが、それでも田舎の人間とは違って品があって、俺に優しくしてくれた。田舎の教師や運動部の連中はよく俺をバカにし、俺も彼らをずっとバカにしていた。実際ほんとうにアホ揃いだったので(まぁサテライトにいた時の俺は凄まじく異常な人間なのは実際そうなので嫌われて当然ではあるのだが笑)。
同期の人々は大学時代どんな事をしたかとか、東京でどんな青春を過ごしたかとか話していた。東京では特段優秀でもない、普通の人々のたあいない青春。その普通が、俺の田舎で過ごした哀しい青春と比べるとあまりにもきらびやかで、そこが俺を惨めにさせた。
たまに池袋のホールで研修をしたり、同期とちょっとサボってスタバやドトールに行ったり、それなりに楽しかった。同期の女の子と仕事終わりに二人で渋谷やポケセンに行ったりもした。やがて西新宿に配属され、そこも中々綺麗で立派なビルに入ったオフィスで、働く人々もみな小綺麗だった。それなりの待遇を手に入れ、最悪に近い過去を悔やみ、ますます都会で生まれ育った人々を憎悪するようになった。ギリシャの神話からも分かるように、柔らかい手で撫でられたキュクロプスの辿る運命だ。
自分だけ平和ならそれでいいのか
ガンダムOOを最近見直した時に、最も印象に残ったのが沙慈と刹那のこの会話だ。沙慈とルイスの家族を殺しを二人を不幸に陥れたのはサーシェスとトリニティではあるが、刹那だって沙慈たちのような平和な世界にいた数多の人間を不幸に陥れたであろう。
しかしティエリアが「自分は違う、自分には関係ない、違う世界の出来事だ。そういう現実から目を背ける行為が、無自覚な悪意となり、このような結果を招く」と言っているように、沙慈たちのような平和という特権を授与された側の無関心が招いた――いわば高貴なる者の義務を怠ったがゆえのテロルの連鎖である事もまた事実。結局のところ、沙慈・クロスロードも単なる被害者ではなくまごうことなき加害者になってしまったように。
自分だけ、自分の好きな人だけ平和ならそれでいいというのは明らかに間違っている。それでも、誰だって不幸になりたくない。地獄を見たくはない。しかしリジェネ・レジェッタの言うとおり「変革には痛みを伴う。君たちだってそうしてきたじゃないか」。日本で身を切る改革だのをほざくネオリベのゴミどもは論外として、変革に痛みが伴うのはまったくもって正しい。
「テンションの低すぎる人間」つまり理性の狡知に突き動かされていない――神殺しなど不可能と諦めた無気力な人間たち。ある意味で、露悪的に言えば、清く正しく美しい人々の中に入っていけるチャンスというのは、確かに俺にはあった。今のような精神障害に苦しめられる貧困の極みではなく、まぁそう悪くない都会での快適な暮らし、というものを送る事も出来たとは思う。なんだかんだ友人関係というのには恵まれているとも思うし、ゲームはめちゃ上手だし、(若さゆえの軽はずみな発言だろうが)同棲したい、結婚したい、という事を複数の女の子から言われた事もある(心の擦れ違う)。
まぁ、クソの中では、恵まれているとも言えなくはない。散々な人生ではあるが、友達も彼女もいたことない孤独な人間からフェイク野郎と言われれば、俺は何も言えなくなる。もしも都会の人々からの友好の申し出を快く受け入れ、友人関係を広げていけば、こんなにも悩むことはなかったのだろうか?
本当に穏やかな暮らしをできるチャンスを俺はいつもいつもふいにしてきた。何故ならばそのチャンスが訪れる度に、ガンダムが「自分だけ平和ならそれでいいのか」と語りかけてくるからだ。俺は常に首を横にふって、ガンダムを選んで乗り込んだ。
GN-02 半径250m GNソードⅡライフルモードの射程距離
皆がとらドラにハマっていたときに、俺が違法視聴してた人造昆虫カブトボーグV×V
とらドラが流行っていた時に、何話かだけ見たが、あまりハマれずに、視聴をやめた。その代わり、ニコニコ動画にアップされていた人造昆虫カブトボーグV×Vにはドはまりしてしまった。確か夏休みだったと思うが、ずっとカブトボーグを見て爆笑していた。中高生に歌ってみた踊ってみたが流行る中で、2chでレスバトルをするのが好きだった。
自分で言うのもなんだが、俺はネット世界で、結構イケボとして持て囃されていた。本当に自分で言うのは恥ずかしいとは思うが(途方もない恥を忍んでこの文章をタイプしている)、人生で少なくとも150人以上から声がいいと称されてきたのだから否定してもしょうがない。高校生の頃、努力は人を裏切らないッ!みたいに言っている暑苦しい数学教師がいて、うわぁ無理と思っていたが、その教師がいきなり「君は声がいいから、声優にでもなったら?」みたいに気さくに話を振ってきて「あ~だいぶ狭き門だと思うんで、なるのは難しそうですよ~。食ってけるのは一部だと思うんで」みたいに答えた記憶がある。その教師への苦手意識が少し和らいだ。ちなみに高校の同級生でMくんというおぞましい男がおり、「最初凄いかっこいい声が聞こえてきて、どんなイケメンかと思って顔を見たら、あっ」と言っていた。
だからまぁ昔の表現でいえば女の子と通話しまくって出会い厨みたいな事も出来たんだろうが、それでも俺はシャワートイレッツを率いてチンパンを蹂躙する日々を選んでしまった。もっとなんというか、いわゆる普通の人生を歩む事が出来ただろうに。邪悪な情熱に突き動かされたという奴だ。
俺は、おたくという(俺が子供の頃のおたくというのはまだ一般的ではない日陰者だった)マイノリティの中ですら、なんというか、露悪的でアホっぽいものを好んでしまう。メインストリームに属せないのだ。しかし少年まんが(例えばドゴンボやワンピースにブリーチ、NARUTO、銀魂、メルやメジャーなど)は大好きだった。仮面ライダーも大好きだし、つまるところこれは、所謂おたく文化などのサブカルチャーのメインストリームは性に合わないが、ネアカなものは普通に乗れる、という事なのだろうか? どういう事なのか、今はまだ分からない。
この社会は罰を受ける必要があるから――個人的なことは政治的なことという懐かしいスローガン
個人的なことと政治的なことは結びつかない!というイデオロギー・メッセージが渦巻く世間では、ますます人々は無気力に日々を過ごすようになってくる。千葉雅也のような愚劣なインテリが、自分たちは大衆とは違ってセンスの良いことを考えていると吹聴しながら、非正規雇用の若者の労働態度に対して文句を言うような堕落した世の中だ。成田某やら、今の40代前後の中堅と呼ばれる者たちはまったく幼稚で頭が悪く、罪深い。これは世界的な現象だ。まぁ大人になれない世界なのだから無理もない事かもしれないが。おぞましい《最後の人間》、畜群ども。
最近、少年革命家ゆたぼんが学校に通うようになって、それを過剰に褒めそやす人々が目に付く。不登校はよくない、学校に通うべきだ!、と。
まぁ、よろしい。ゆたぼんが学校に通うという選択をしたのは、それはゆたぼん個人の自由であり、彼が本気でそれを良いと思っているならば、俺は何も言う事がない。
しかしながら、子供たちが学校に行きたくない理由というのは、堕落した大人たちと社会の側に全責任があるのであり、自分たちが低質な公教育を改善する為の努力やコストを惜しみ、怠惰を貫く為の言い訳として子供の側に問題があるように言うのは、破廉恥の極み。本当に今の世の中は、ラディカルな努力が出来ない言い訳ばかりの未熟者ばかりで困ったものだ。子供の問題は、全て政治の側が抱えている問題である。生権力の盲目的信者、ディシプリン野郎どもはくたばればいい!
ここでジュディス・バトラーの『ジェンダートラブル』を引き、構成的外部という概念を持ち出す事でスマートに「個人的なことは政治的なこと」スローガンの正しさを証明できる。我々は戦術面においてパフォーマティブに臨機応変さが必要だ。スターリンの演説の重々しさは、柔軟なフレキシブルさを反映したものだった。この社会は罰を受ける必要がある。その罰は厳格に与え、その後に慈愛をもって赦す。毛沢東の戦略の上では敵を軽視し、戦術の上では敵を重視せよという奴だ。
マーク・フィッシャーやうごくちゃんですら自死を選んだのに、何故俺は死なないんだ?
俺の記事の読者ならマーク・フィッシャーが自殺した事について説明は不要だろう。まぁ正直マーク・フィッシャーについては左派論客の一人が死んだな~くらいにしか思えないし、独自の着眼点を持っているのは分かるが、彼は分かりやす過ぎて(サブカルの下らんザコ共に持ち上げられすぎて)、俺はそこまで魅力的に思えなかったから、まぁ、いい。
しかしうごくちゃんが自殺した事は、俺にとって途方もないショックだった。何故なら半身が愛した女なのだから。半身が憧れた女なのだから。だが同時に、ほっと、した。安堵した。これでもう彼女が苦しむところを見ずに済むと。ただ、ざんげちゃん、と、あの人の事を思うと、また俺は苦痛に沈んだ。それはどうして?
坂口安吾が『堕落論』の中でこう述べていた「数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危うさがあり真逆様に地獄へ堕ちるような不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。」
俺も自傷癖があり、負の感情に囚われると自分の腕を思い切り噛んでしまう。ギリギリ血が出ない程度まで噛みしめるのは長年の癖が生んだ丁度よいバランス感覚とでも言えばいいのか笑 例の半身にもリスカ痕があって、昔涙ながらに何故そんなことをするのかを語ってくれた。斎藤環や松本卓也によれば、自傷癖がある人間の9割は女性だという。俺は1割の珍しいケースなのか。だがリスカは踏み切れなかった。が、うごくちゃんが自殺して、その半身がやっていたリスカをするというのがどんな事なのかを知りたくて、リスカをしてみた。
100均の鈍いカッターを使ったせいかもしれないが、己の肉に刃が食い込む感触は、本当に耐え難いもので、2cm程度割いたところで、やめた。当然血が出たので絆創膏を貼った。本当に気分が悪くなってすぐ横になった。
自殺未遂をしたときはワインを3本飲んで色んな錠剤をいっぱい飲めば死ねるかなと思って衝動的に行ったが、ワインを飲み終えた後に、錠剤を飲んだら、すぐに吐いてしまった。その後遺症で1年近くロクに動けなくなったが、今では不調はあるものの、全然まぁケロっとしている(ただ明らかに昔より体力が続かない、単に歳という話かもだが)。俺は死ぬのに向いていないのか。殉国禁獄鬼軍曹みたいだな。
俺が何故、こうも生き恥を晒しつつも死ねないのか。うごくちゃんが死んだというニュースを見た当時の俺が書き殴って言っている。そのまま引用しよう。中々いい事を言っている。
GN-03 半径10000km トランザムライザーソードが薙ぎ払う距離
繰り返すDiscord 不協和音に潰されないようにと
詳細は伏せるが、俺はあるまんが雑誌(メジャー誌ではない)のファンで、そこで連載していたある新人まんが家(Aとしよう)のファンだった。荒削りな部分はあるが、とても光るものがあった。その雑誌の中ではAが好きだとツイートしたら、よくゲームを一緒に遊んだりしていたフォロワーがマジ?ありがとうと言ってきて、何がありがとうなんだ?と疑問に思った。
そのフォロワーとオフで会う機会があって、名刺を貰った。そのフォロワーが、Aの担当編集者だった。びっくりした。ただ俺は非常に傲慢で嫌味な人間だったので、傲慢で嫌味に接してしまう事が多かった。色々あって疎遠になり、ブロックされて、終わりだ。まぁ、当然の結果だ。
当時はメンヘラが極まっていたので、その人が俺にとても優しくしてくれたという事に気付かなかった。それなりに俺の事情に踏み込んで、ヤケになっている俺を気遣ってくれ、自傷癖も心配してくれて、俺が仕事を出来なくなって金に困っていた時は私のところでバイトしない?とまで言ってくれた記憶がある。罪悪感だけはある。
好きなジャンルは被ってはいたものの、ただ根本的な思想信条はあまりにも違った。生まれた所も違ったので(首都圏とサテライト)彼女に嫉妬していたのだと思う。心の擦れ違うの最たる例だと思う。メンヘラだったからというのもあるが、これが人間の所業か? 後悔こそしていないが、色んな事を考えた。ジジェクがクリントンよりもトランプの方がマシだと発言した事で、多くの友人を失ったのはジジェクが譲れない信念を貫いたせいだが、俺のは単なる鬱屈と妬みの発露の結果しかなかった。繰り返す不協和音。
ただ、その人の何気ない呟きでとても許せないものがあった。「どうせよく理解もできないのにイキって岩波なんか読んでもしょうがない」みたいな事を言っていて、あまりにも失望した。分からないからこそ読むんだろうが。所詮二流雑誌の編集者などに何かを期待した俺がバカで低脳だったのか。
ただ、別にもう過ぎた事なのでどうでもいいし、彼女がアホでゲームが下手くそという認識は変わる事がないにしても、一言くらいは謝りたい気持ちがある。なんとなく。ただもう最早何もかもが交わらない冥府魔道に俺はいるのだが。
盈たして『月蝕尽絶黒阿修羅』 第七形態――『殲』
最近の俺は幼稚な大人を見ると、自分のクソ毒親やそれを育てた祖父母や腐敗社会と同一に見えてしまう。いわば『ダークギャザリング』の月蝕尽絶黒阿修羅になってしまい攻撃してしまうのだ。第七形態「殲」になる日もそう遠くない。ヴェルギリウスのように、何か契約でこの憤怒を沈め、抑え、制御しなければならない。だがトランザムライザーソードで薙ぎ払いたいという欲望を抑えきれない!
自由の奴隷 俺はガンダムになれない
進撃の巨人の主人公、誰よりも自由を求めた男エレン・イェーガー。彼の親友たるアルミンはこう評する「君のどこが自由なのか」。自由の奴隷。
俺は子供の頃から他人に縛られるのが本当に嫌だった。無意味で理不尽な校則や、押し付けがましい家父長制、儒教的な思想には嫌悪感しかなかった。閉塞的なサテライト社会からの心地よいアサイラムとしてネット世界に入り浸った。アキバでハレ晴レユカイを踊るおたく達が英雄に見えた。2chやふたば、ネトゲにのめり込んだ。田舎の規範だのニコ動の流行りや田舎のTV番組しか知らない同級生たちを大いに嘲り嗤った。
今ではこの堕落しきったネット世界など全てが虚構、肝心なのは生命の息吹と鼓動という立場ではあるが。言うなれば、ネット世界こそが俺にとってのバスタブだったのだと思う。
押し付けがましいイデオロギスト共やアメリカ帝国主義のエピゴーネンどもに反抗し、俺は俺なりのやり方で足らないながらも必死に自由と平等というものを考え続けてきた。
だが、今になって、俺のやってきた事は思想と呼ぶのすら烏滸がましい、他愛のないアクティングアウトに過ぎないのではないかという疑問が頭を過った。自分で自分にこう問うた「俺のどこが自由なんだ?」
レーニンはかつてこう言った「自由の為に。よろしい。ではそれは何の為の自由か?」何の為に自由を求めてる?俺は。
ガンダムは何も教えてはくれない。ガンダムの考えが分からない以上、俺はガンダムにはなれないのだろうか。
まぐれ まぐれ 認めねーゼッテー マジで?これおま全部独り身で?
まぁ俺のガンダムへの狂気と執念は他人に理解可能なものとは思えないので、結婚できず、おそらく生涯独身になるだろう。めちゃくちゃ可愛い美少女に求愛されたら、考えるかもしれないが……。
しかし、マッシュ・バーンデッドのように、友人関係には恵まれているので、根本的には、独り身ではないのが幸いだ!本当は俺も好きな人と結婚したりしたかったという思いはあるのだが、まぁ仕方ない。
ちなみに、マッシュルのアニメを二期まで見たが、なんというかねっとりしたギャグの感じが俺好みだ。しかしこれ、設定がブラッククローバー過ぎないか?
時として出した音が不協和音でも
ガンダムOOを手掛けた水島精二の傑作『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~』は、ガンダムOOと同じく俺に強く影響を与えたアニメだ。1話と2話はなんとなく流し見していたが、3話で一気に引き込まれた。「どっちが勝っても、俺達はもう正義じゃない!」「それでも、やるしかないだろうが!」俺はガンダムになれない……と弱気に落ち込むのではなく、刹那のように「俺がガンダムだ!」と勇気を持って言うべきだ。
毛沢東が言うように、自分は罪人だからと自暴自棄になるのではなく、それでも正義の為に邁進していくべきだ。あらゆる野蛮を切り落とし、あらゆる罪を剥ぎ取る刃をもって進むのだ。時として出した音が不協和音でも、それでも、かっとびングだ俺!
GN-04 半径7.5km トランザムバーストによる高濃度粒子に包まれる距離
かつて見上げたガンダムは、今は救世主の駆るリボーンズガンダムなのだろうか?――最悪の百合作家
俺の敬愛する中里が小説を発表しなくなってからもう10年も経つ。なんかダリフラみたいなお笑い番組に黒人が出ていないと執拗にキレていたりしたし、もうお年を召した老害ですか? だが確かに、中里の小説は、俺にとってのガンダムだった。
俺を助けてくれたけど、俺の人生を狂わせた特殊な小説――『どろぼうの名人』と『いたいけな主人』だ。今や百合は中里が小説を書いていた頃よりも遥かに百合はジャンルとして盛り上がってはいるものの。中里の域に至ったものは、誰一人としていなかった。チャーチルの名言を引いてかつての俺はこう語った。「中里は最悪の百合作家だ、中里以外のあらゆる百合作家を除いて」
『美少年学入門』の中で、中里の師匠である栗本薫が初恋は高2の時のクラスメイトの女の子だったと述べていた。JUNEの大御所の初恋が百合とはまぁなんとも示唆的な事だ。
百合といっても色々あるが、小説に関してはお高くとまっていて耽美でなければnot for meだ。JUNEや少コミ的系譜を受け継いでいるのが好ましい。だがもう理想とした中里は小説を書いていない――今やガンダムはガンダムでも、駆逐対象であるリボーンズガンダムなのだろうか?
若い頃、中山佳穂の『白い薔薇の淵まで』を読んだ時に感動したのだが、中里がブログで(2000年よりも前だったかもしれない)、小説がヘタとこき下ろしていたのを見て、そんなぁ~とショックだった。『バスタブで暮らす』を読んで、中里が中山をこき下ろした理由が、なんとなく分かったかもしれない。25歳の頃に中里の紹介記事を書いて、中里の小説の理解について、かなり満足していたが、今彼の書いたものを読むと、全然理解出来ていなかった事を痛感させられる。愚かしいにも限度があるのはこの俺だった。ああ、やはり最悪の百合作家だ。
子供の俺が今の俺を見たらガンダムだと思ってくれるかな?
ガンダムの武装の射程距離という、この記事の、意味不明な見出しタイトル郡は、ニコニコ動画に上げられた『ダブルラリアット』の替え歌『ダブルオーライザー』から着想を得てつけられたものだ。刹那の声真似の替え歌という、人によっては絶対に受け付けないであろう動画なので、リンクは貼らないでおく。
ダブルラリアットの歌詞――「どうでしょう昔の自分が見たら褒めてくれるかな? 目が回り軸もぶれてるけど」は、俺ヴァージョンとしてこう言い換える事ができる。「どうでしょう昔の自分が見上げたらガンダムに見てくれるかな? 手は汚れ真っ赤に染まったけど」。
最近、美容院で、思い切って髪を真っ白に染めて、デザインカラーとして前髪やサイドにポイントでブラックを入れてもらった。綺麗な白色を実現する為には、かなりブリーチをする必要があるのでダメージが酷くなるし(俺は自宅で3回ブリーチしてベースを作ってから美容院で更にもう1回ブリーチをしてから染めた)、日々のケアも大変だ。シャンプーコンディショナーだけで済む黒髪よりも遥かに維持に苦労する。
だが、美容師ちゃん(とても可愛くハイトーンの髪色がおしゃれ)が、俺の毛を触りながら「マジで髪が強い…w」と呟いていた。色もかなり抜けやすく、良い髪質をしているらしい。
正直、ホワイトカラーにしては本当にさらさらでダメージが少ないし、俺がカラシャンやカラートリートメントでのケアを頑張っているというのもあるが、自分でも驚くレヴェルで美しい。たまにハイトーンの派手髪の女の子を見かけても、たいていのばあい俺の方が綺麗な仕上がりだ。周囲からも褒められまくりで自己肯定感が高い。ヘアアレンジも色々試して、楽しい。
先日カットだけした時に美容師ちゃんに「お洒落で最高ですけど、一個だけ問題があって、他人からめっちゃ見られる」と言ったら、笑っていた。でも髪をセットした後に美容師ちゃんがしみじみと、「でも本当に綺麗なので、そりゃ見られますよ」と言ってくれて、感激した。という訳で、最近は最強の髪を手に入れた自分の容姿に満足している。メイクも上手くなったので、結構垢抜けたと言えるだろう。
体型がかなり加藤純一なのがつらいが、まぁ仕方ない(純より身長が1cmだけ高く、頭はたぶんほんの少しだけ純より小さい=デカイ)。また、自分の文章力やゲームスキルなどは、天才たちの足元にも及ばないが、それでも悪くないんじゃないかという水準まで引き上がってきたと思う。
だから、中高あたりの頃の自分が今の俺を見たら、ガンダム――とはいかないにせよ、褒めてくれるとは思う。
阿修羅すら凌駕する存在
最近、筋トレをしながらタフなどの格闘まんがを読んで最強の男を目指している。悪魔王子がお気に入りのキャラだ。俺も将来幻魔を放てるようになりたい。目指すは、最強だ。グラップラー刃牙によると、真の護身が完成すると、危険に気付くまでもなく、危険に近付く事ができなくなるという。最近の俺はオーラを放っているので、隣の部屋のクルド人ですら俺にびびっている。
やがては、文武両道の漢に、なりたい。スパイギアのある配信でマッチした日本語がちょっと出来る外人が叫んだ名言「漢じゃないか!」。心底震えた、素晴らしい!ジェンダーレス・ジェンダー解放の時代だとしても、あえて漢になりたい!
俺はならねばならない、阿修羅すら凌駕する存在に。だが、正直言って、俺の見上げたガンダム達とは元の性能が違いすぎる。遺伝や生まれた環境で負ったビハインドは途方もなく膨大だ。だがどれ程の性能差であろうとも!
俺がガンダムだ――戦争と醜悪の根絶を求めよ
数多の紆余曲折を経て、「俺がガンダムだ!」と胸を張って言えるようになった。この地球の人々も、いつか平和を目指し、変わっていけるのだろうか?
SDGsの理念「インクルージョン」は、余りにもキリスト教的概念である。すべてを包括するキリスト教的態度――パウロの有名の言葉「男も女も存在しない、ユダヤ人もギリシア人も存在しない」から必然的に出てくRうのは、キリスト教共同体への編入を受け入れない者たちの完全な排除である。では現代Verはどうだろうか? グローバリズムとリベラル民主主義経済を受け入れない者たちの完全な排除。資本制による搾取の下でなら、ポリティカルコレクトネスだろうがイスラム原理主義だろうがイスラエルのテロルだろうが、矛盾なく連帯可能なのだ。
その醜悪な円環をたった一度でも断ち切れるなら、その正義の礎になりたい。困難極まりない事だろうが――いつの日か。戦争などおとぎ話だよ、と皆が笑っていられる世界を目指して。
GN-05 半径6300kmあるいは無限 クアンタムバーストと刹那・F・セイエイの声が届く距離
やがて来るジジェクのお葬式の時に備えて
俺はスラヴォイ・ジジェクのかなりのマニアだ。彼の思想を全て理解しているとは、とてもじゃないが言えない未熟者ではあるが。邦訳された彼の作品は多数あるが、その7割ほどは所有しており、所有していない本も図書館で借りて読んだりしている。
いってしまえばジジェクという強いリーダーに付き従っているエピゴーネンという立場なのだが、これには二つの問題がある。
一つ、ジジェクはもう70代後半のおじいちゃんだ。俺が順調に生きて還暦を迎える頃にはもう亡くなってしまうだろうし、知性はそのもっと前に消え失せてしまうかもしれない(痴呆症!)
二つ、俺とジジェクは当然興味関心が異なっている。俺はジジェクより遥かに頭が悪いのだが、だがジジェクよりも遥かにゲームが上手いという長所がある。俺は俺なりの方法で、彼との視差《Parallax》ギャップを経験し、自らを変革させイノベーターへ進化し、やがてメタル俺にならなければならない。いずれ来るジジェクのお葬式の際、「もう強迫神経症的に考え続けて苦しまなくていいよ。あなたの代わりに、のちに生まれたものが考え続けるからね」と胸を張って言えるように。
思考の量子化 ゼロシフト、レディ
最近、レイモンド・スマリヤンにドはまりしており、タオイストを名乗るようになったのは彼に感化されたからだ。ラカン派マルクス主義というのがまず意味不明なのに、ラカン派マルクス主義タオイストというのは支離滅裂極まりない!と言われそうだが、左翼思想から距離を取り、また近づくのではなく、トランザムによる思考の量子化であらゆるParallaxに偏在する為にタオと調和するのだ。まだあまり上手く考えが纏まっていないが、これから暫く俺の思想にはタオ自然学が欠かせないのは間違いない。例えるならウーレンベック・カタパルトと同じ原理によってジェフティやアヌビスがゼロシフトするのに、近い。今から、量子化しますので驚いて下さい!
ウメハラですら途方もない自己嫌悪に苛まれていたのだから
日本人ゲーマーに尊敬するプロゲーマーは?と聞けば、多くのゲーマーが「ウメハラ」と答えるだろう。今でこそ日本でそれなりに職業として成り立っているプロゲーマーを、日本で確立させた立役者と言っても過言ではあるまい。
そのウメハラが22歳くらいの頃、バイト先の同年代が次々に就職でバイトを辞めて「あ、もうそういう歳なんだ」と、自分もゲームからきっぱり離れ、就職をしてからのエピソードが印象的だ。労働者としてあまり上手くやれなかったらしいウメハラは、「他の人間が勉強やスポーツに打ち込む中、ゲームみたいな遊びにひたすら時間を費やしてきて。仕事も上手くできない、なんて俺はダメな人間なんだ」というような自己嫌悪に陥ったという。
しかし、ストリートファイターⅣの発売で、久々にちょっとやってみるか……とゲーセンで対戦したら、ブランクがあるにも関わらずに面白いように連戦連勝、そこから大会に優勝したりでスポンサードされ、今に至る。
自己嫌悪に陥っていた時にウメハラは当時を振り返って「自分のダメなところばかりを見ていた」と語っている。ウメハラのような男ですらも、そうなのかと、思った。
俺も自分のダメなところばかり見ていた。
だが対人ゲームがパンピーよりも遥かに上手いし、髪の毛が本当に綺麗で美しく、身長もそこそこ高く、まぁ人よりは頭が良いのだから、あまり自分を卑下するのもよくないな、という気分になった。
そもそも市井の人々を見てみろ!インターネット・リベラルを見てみろ!こいつらに比べれば俺なんか、まだマシだ!万丈目サンダーのように、昔の俺は、下には下がいるという事をはっきり認識すべきだったのだ!
絶望の底辺から出発する逆ダークツーリズム
陰気なチー牛たちはなんかポストアポカリプスな世界で女が銃持って戦ってるゲームが大好きだ。清潔にパッケージングされた闇を往く脱臭化されたダークツーリングに胆泥している。ジェイムソンやマーク・フィッシャーの言う通り「世界の終わりを想像する方がたやすい」から世界の終わりを夢想し沈泥する想像力の欠如。
ならば俺は逆を行こう。あいつらが動物園の憐れな生物を、良いなぁwと言いながらも(思っていもない事を言いたがる人間を俺は軽蔑する、例えば八紘一宇の理念は良いと言いたがる右翼共がおり、共産主義のスローガンを叫ぶ共産趣味者どもがいる)、蔑むように見下す絶望の底辺から、虚偽と虚飾の希望に満ち溢れた世界を見下しにいってやろう。走れ!走り抜けろ!クソみてぇなこの世界を。夢も持てず錆びついたエンジン立ち上げて!絶望の底辺からあいつらの足をすくってやれ。情熱のアクセル踏み込んで魅せつけろ絶望超ドライブ!
GN-06 半径0cmと85cmの狭間 量子化したクオリアが偏在する距離
It's time now See me now
やっと出逢えたんだね。だからもう多くは語らない。言葉は不要か。いや、まだ尽くさねばならない。ヴィトゲンシュタイン曰く「語り得ぬ事に関しては沈黙しなければならない」だがスラヴォイ・ジジェク曰く「語り得ぬ事に関して、黙ってはいられない!」
これが俺が確かに感じられるクオリアであり、《Parallax》を経て至る《量子領域》――クアンタムバーストを発動させる方法だ! 心臓にもない。脳にもない。だがこの《量子領域》の中なら、確かに感じられる。
運命の囚人
運命――その捉え方は色々あるとは思うが、我々は運命の囚人という単純な命題に反対出来る者は多くないだろう。遊戯王VRAINS1期のラストデュエル、遊作とリボルバーのまるでゲイセックスのような、ねっとりとした会話の応酬を思い出そう。「我々に新たな道など残されていないのだ」「過去という鎖に繋がれた運命の囚人」。過去に因われ進む事の出来ない運命の囚人たち。リボルバーにエクストラリンクを決められ絶対絶望の状況から、巻き返すPlyamaker。
「決して渡れないような大きな奈落。住む世界を断絶する大きな闇」――「俺を見かねてその奈落を渡ってきた!」リボルバーの諦めに等しい発言の論理を、肯定的な生の論理へ変えようとするPlaymaker。加害者の息子であり敵、そして自らを助けてくれた恩人という二律背反的存在であるリボルバー。二人は奈落の鎖に繋がれた囚人であり、他の人間がそこに飛び込む事など到底出来ない。だからこそ――お互い同じく矛盾に因われた存在だからこそ、その互いだけが、互いを救う事が出来るのだ。傷付きながらも、ガンダムになる事を選んだ人々の連帯が必要だ。
GN-EX:やっぱりダブルオークアンタ フルセイバーにあこがれて――刹那
日本シェン1位 グランドマスターTOPレーナー仏のタイ
俺がもっとも尊敬する男が、日本シェン1位グラマスTOPレーナーのタイだ。プロや有名配信者とも何度も戦い、プロチームの募集要件を満たしながら普通に就職する事を選び、日本最強TOPレーナーEviとも幾度となく闘い、スタさんにもこの人のフィズ上手すぎと褒められ、しゃるるにもシェンでの判断能力を褒められ、League of Legendsのやりすぎで大学を留年するという凄まじい経歴を持つ男だ。LoL以外にもあらゆる対戦ゲームで速攻で上位に入っていく、まさしく天才。
ゲームの才能も何よりだが、何よりもあの――おぞましき母子家庭野郎、尼崎の狂犬マリヤてん龍(隣の部屋のうるさい隣人に乗り込んで暴力をふるい、大家を恫喝して家賃を支払わないような男だ)に"仏のタイ"と称されるほどの、性格の良さ、メンタルの強さが、俺が彼を尊敬する理由だ。不利な状況に陥っても冷静に勝ち筋を見つけ、諦めることなく我慢強く、そして楽しみながら闘い続け、幾度となく逆転を可能にするのは――凄いとしか言いようがない。俺が初心者でFEEDしまくってるのにも関わらず、ずっと一緒にプレイしてくれた。そりゃあ、ピックする奴はチルってると言われてるシェン1位の男だしな。
俺は結構弱い味方にキレ散らかすタイプなんだが、タイプロと一緒にプレイしていく内に、「タイさんがこんなに寛容なのに、タイさんよりも遥かに下手な俺がこんなにキレて、恥ずかしい」と思うようになった。お陰で、若い頃よりもかなり穏やかな人間になれたと思う。その穏やかさで、シャワートイレッツの皆を俺がキャリーできるようになって、皆が喜んでくれたのが凄く嬉しかった。
タイが仏なら俺は阿修羅のような気性だ。タイがTOPでシェンなら、俺はMIDでゼドだ。阿修羅を受け止められるのは仏くらいのものだろう。だが俺は阿修羅すら凌駕する存在にならなければならない。APEXで-63RPの中で盛っていけたのもタイが強すぎたからだ。
俺はずっとタイブー(タイさんによるブースト)を享受してきた。基底状態の原子が光子を得て励起するように、俺もタイブーで浮かび上がって、少なくともゲームで他の人を浮かび上がらせる事ができた。窮屈な田舎で鬱屈を溜める俺を人間扱いしてくれた世界がネットゲームの世界で、そのネットゲームで高みに導き人間の誇りを教えてくれた人がタイさんだ。いわゆる親ガチャ当たりの人は、親ブーを受けていると言える。俺は親ブーどころか親トロールに足を引っ張られた。親ガチャに外れた人は、誇りを持てないのかもしれない。俺もそれゆえに、自分自身に誇りを持てなかった。だが、タイブーは受けられ、誇りを持った。だから、いや、いい。でも、流石にあなたも楽しかっただろう? 今でも懐かしがっているのは俺だけか?
結論に移ろう。誇りなき者など人ではない。ゼドがクショーから誇りを教わり、そしてまたケインに誇りを教たように。俺もそうしていきたい。ゼドもシェンも自らの未熟さに悩んでいる。それでも確実に誰かを導いた。
身を以て償わせる為の傲慢 心を弄んだ大罪をどう裁くか?
素晴らしき少年まんが『七つの大罪』、十戒編を最高にしたのはまちがいなく七つの大罪最強の男、傲慢の罪(ライオンシン)エスカノール様だ。
心のない人形ゆえに心を欲しがり、十戒に乗ってエスカノールを絶望させようと心を弄んだゴウセルに対し、夜にも関わらず心の太陽を燃やして魔力「太陽(サンシャイン)」を発動させたエスカノール。「あなたが私に与えたのは絶望ではなく希望です」「さあ、身を持って償わせてあげよう。心を弄んだ大罪を」そうして神斧リッタを呼び寄せ、充填した熱を放つ――ゴウセルの心を弄んだ十戒に対して。
エスカノールのゴウセルに対するこの素晴らしい友情を我々も見習うべきだ!罪を犯した人間にも心があると信じ、人間の心を弄んで罪人へと貶める奴らにこそ向けて、無慈悲な太陽と炸裂する傲慢を放ってやろう。
何度よろけて倒れたとしてもさっき立ってたんだし立てないわけがないよ
魔神ぐり子のまんがが好きだった。彼女が『TIGER&BUNNY』にハマっていた時に(同人誌を複数出していた)ライブかなんか行ったのか、泣きながら「ココデオワルハズガナイノニ」と叫ぶ自画像が、とても印象に残っている。
昔はさっさと死にたかったが、今の俺の人生も、ココデオワルハズガナイノニという気分だ。歴史を振り返ると、マルクス主義者たちの革命は常に頓挫してきた。ゆえにフレドリック・ジェイムソンの「資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを想像する方がたやすい」という格言は、まったくその通りで、かつてテロルを働いていた左翼の役割は、今やすっかり右翼に取って代わられてしまった(トランプ支持者のホワイトハウス占拠を思い出してみよう。あれは明らかに、本来は左翼のする事だった!)。もう皆、無気力だ。神の見えざる手から身を守るだけで精一杯なのだ。
それでも、「何度よろけて倒れたとしてもさっき立ってたんだし立てないわけがないよ」と言いたい。幾度となくガンダム、大地に立つ!俺も何度も立ちあがってきた訳だし。
最高のきららアニメ『あんハピ♪』のOPから引いて――「七つ転んで八回目のジャンプ」だ! 不幸から幸せ、目指さないか?(ちなみにあんハピ♪はサテライトから引っ越しした直後に放送していたアニメで、とても思い入れがある)
終えた事をまた始める為の終わり:花の好きな牛と、花と牛を守る為に闘う現代のおかしなカウボーイ
老子よりも荘子よりも偉大な、花の好きな牛フェルディナンド
レイモンド・スマリヤンが最も尊敬する哲学者は、老子でも荘子でもない。絵本『花のすきな牛』に登場するフェルディナンドだ。
短い絵本だが、あらすじを紹介しよう。スペインのある牧場で、他の仔牛たちは友達と遊んだり、立派な闘牛になる事を夢見て競い合っているが、フェルディナンドは一匹でひたすら花の香りを嗅いでいるばかりだ。フェルディナンドのお母さんも変わった子だねぇと心配するが、彼女は分別のある牛だったので息子の好みを尊重し、好きにさせてやる。そして仔牛たちが成長し、街から闘牛を探しに男たちがやってくるが、どの牛もお眼鏡に叶わない。いつもの花畑でフェルディナンドは運悪く蜂に刺されてしまい、あまりの痛みに大暴走をする。暴走するフェルディナンドの力強さに惚れ込んだ男たちは、フェルディナンドを闘牛として街へ連れて行く。
凶暴極まりない闘牛との触れ込みで闘技場に放たれたフェルディナンドだったが、観客たちが胸に差していた花の香りを楽しむばかりで、闘牛士の挑発になんか目もくれない。闘牛士の胸の花をもクンクンしていた。ずーっと花を嗅いでいるので、元いた牧場に返され、そこからは花を愛でて幸せに暮らした。
この絵本を読んだ時に、いたく感動した。スマリヤンが敬愛するだけの事はある。俺もほんとうはフェルディナンドのように生きたい。でも、俺の人生は、理解のない親牛と蜂の群れと諦めの悪い闘牛士がひっきりなしにやってきたフェルディナンドだった。だからもうフェルディナンドにはなれないけど、フェルディナンドになれる人々を尊重したいと思った。
儒教を信じた愚か者たちとキモすぎるハメドリくんが迎える末路
アジアでかつて支配的だった儒教。その宗教を信奉し内面化した者の辿る凄まじい少子化という末路と、キモすぎるハメドリくんが辿る絶滅という末路は、驚く程に一致している。儒教については説明不要だとは思うが、ハメドリくんに関してこの動画を見て欲しい。
ハメドリくんがキモすぎるように、儒教を内面化した男はキモすぎる。押し付けがましく、時代錯誤極まりない。キモすぎるがゆえに、とても優しく温厚なやり方(暴力、つまりテロルや殺害ではない方法)で、効率的にアジア人を少子化で減らしていっている。
韓国の出生率を見て欲しい。儒教の押し付けがましさがキモすぎるがゆえに出産ストライキなんて言葉も出てくるのは当然だ。韓国に比べ日本の出生率がだいぶマシなのは、邪悪な情熱に突き動かされたエイリアンが跋扈しているからだろうか。邪悪な情熱――いわば敗戦国の末路のHENTAI国家なので、キモい事に興奮するんだろう笑。こんなキモくてネクラなルサンチマンに満ちた考えは一掃し、素朴に花を愛でる美しい姿に満足するべきだ。誰よりも子孫繁栄を望むからこそ絶滅の危機に瀕するのだ!ハメドリくんは、オナニーでもしていなさい。
星の数の喜怒哀楽をいつか空に放てば 魂だけは全部知ってるんだろう伸るか反るかも
名作まんが『NEEDLESS』の終盤、クルスくんが抵抗する事に耐えられないシティ住人の異常性を見て、自分がブラックスポットの人間である事を強く意識したシーン。今の俺は、首都圏育ちの無気力なリベラルたちを見て、クルスくんのような気持ちになっているのかもしれない。
いやまぁそれでも都会に生まれたかったのには変わりないのだが……。もしやすると、半端に恵まれた環境で育っていたら、愚にもつかないリベラルになっていたかもしれない、と考えると。必要不可欠な苦痛であったのかもしれない。平凡な幸せ家庭の両親は教師としても平凡かもしれないが、俺の両親はあまりにも反面教師としては優秀だった。礼を言おう、頼むから二度と関わらないでくれたまえ。
アニメ『NEEDLESS』のOP、GRANRODEOの名曲『Modern strange cowboy』は今聴いてみると、非常にタオイズム的な歌詞であって素晴らしい。伸るか反るか、決めるのは気分とタオと魂だ。
歌に秘められた意味を理解する為には存外と時間が掛かるものだ。詩もアニメも小説も人間も歴史もそう段階を経て理解していくものなのかもしれない。アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』のなかで深手を負って命を落とす悲劇に至ったギリシャの神々は、ルキアノスの『神々の対話』で、いま一度、今度は喜劇的な死に方をしなければなかった。歴史はなぜこのような方向へ進むのか?それは人類が自らの過去と明るい気持ちで決別できるようにである。
新たに咲いた花も散らさないように
ガンダムという俺の言葉は、ガンダムマニア以外は受け入れがたいだろう。ならばこういう表現はどうだろう。花と、花の好きな牛を守ろうとする、現代の奇妙なカウボーイ――『Modern strange cowboy』になぞらえて。
邪悪な情熱に満ちた人間と、なんの気力もない最善の人間との間に線を引いて二分し、どちらかに加担するのではなく。美しい花と、その花を愛したいという純粋な願いの為、新たに咲いた花も散らさないよう闘う。そんな、おかしなカウボーイになりたい。
星の数のフェルディナンドが花を愛せるような《不可能な世界》を求めて。理論を崇高なものとして支えるのは、結局のところ素朴なヒロイズムだ。
結論:俺がガンダムな理由
初めて打ち解けられた淫夢厨しかいないクラン「思ったより悪くない」――絶望する勇気とカオニマ淫夢
中学生のとき、ペーパーマンでクランというものに入った。当時MMOのギルドやクランではスカイプなどを利用しての通話はあまり行われていなかったが、基本的にFPSゲームはリアルタイムの情報共有の為に通話が必須だった。中学生でゲームがヘタ、周りはたいてい高校生以上の歳上のお兄さんなので、俺は緊張してぜんぜん喋れずにいた。色んなクランに入ったが、どこでもあまり馴染めなかった。
しかし高校生の頃に入ったクラン、確か名前は「思ったより悪くない」ではメンバーの殆どが淫夢厨で、俺も淫夢にドハマリしていたので、淫夢語録を使って楽しくコミュニケーションを取る事が出来たのだ!活発に喋れるようになったので、ゲームの上達方法などもスムーズに教えて貰えるようになり、大人になった俺はIGL論やVC学なるものを考えるようにすらなったのだ! リア友クランを除けば「思ったより悪くない」での活動が一番楽しかった。最高の瞬間という奴だ!
中国のネット上で使われるダジャレをもとにしたインターネット・ミーム、草泥馬(カオニマ)は、「母親をファックしろ」という意味の標準中国語「cao ni ma」のもじりだ。カオニマは、中国のネットユーザーが用いる「抵抗議論」の代表的な手段であるばかりか、国内で自由な表現を求める彼らの戦いを象徴する幸運のミームとして影響を与えている。その結果カオニマは、「e'gao」として知られる、なりすましや嘲笑
、ダジャレのクッソ汚い淫夢に近しい中国ミームとなっている。
実世界のグローバルな連帯は、他人を尊敬する純粋主義者の夢とはほど遠く、嘲りやダジャレなしでは生き延びる事ができないのだ。ゆえに俺が今でも淫夢にこそ拘泥する理由なのだ!
『絶望する勇気』でジジェクは、私は悲観主義者であり絶望していると、現状が思ったより悪くはない事に気付かされる。という事を語っている。その時にこのクランの事を思い出した。絶望を総動員した先の景色は、ああ。思ったより悪くなかったと。
クンデラ的なやり方で 進撃の悪鬼
歩み続けなければ。エレン・イェーガーのように進撃を続けよう。この小説で語られているように、善を生まない悪などないのだから。
メテオストームパニッシャー
『バスタブで暮らす』を勧めてくれた友人は中学生からの付き合いだが、彼の人生でおそらく最も名誉な瞬間が、賞を受賞してプロ作家になった事だろう(まぁ2位はどうせ長らく同棲中の彼女とのアレコレみたいな他人からすればくだらん事だろう笑)。
しかし3番目に名誉な瞬間はペーパーマンで、ある天才のすばらしいプレイをリアルタイムで目撃した事であるのは間違いない。
そのある天才こと俺は、ペーパーマンでキャンディーパンチという近接武器を好んで使っていた。一般的にペーパーマンでは近接武器は移動の為に持ち替えて使うものであり、攻撃力やリーチの長さよりも移動速度が最優先されていた。だいたい攻撃に使うのはメイン武器もサブ武器も弾切れとなった時の最終手段だ。キャンディーパンチは威力こそ高いが、移動速度があまりにも遅いので、俺以外に使っている奴は、ほとんどいなかった。
なぜメテオストームパニッシャーなのかというと、俺のペーパーマンのメイン垢が淫乱メテオという名前で、それは当時放送していた仮面ライダーフォーゼの二号ライダー「仮面ライダーメテオ」から取ったもので(ちなみに淫乱というのは2chの仮面ライダー板の淫夢スレに投稿された、淫乱ポリスという淫夢コピペの改変「淫乱デストロイヤー」なるディケイドのゲイ・コピペから拝借した)、強化フォームのメテオストームの武器であるメテオストームシャフトに、このキャンディーパンチが似ていたからだ。メテオストームシャフトを使って放たれる必殺技(当時ベイブレードみたいと酷評されていた)がメテオストームパニッシャーである。
残っているのは俺と敵一人、1vs1。だがエアボムで浮かされて絶体絶命、射撃はまともに当たらない。敵が確実に俺を仕留める為に近づいてきたところに、唯一正確に攻撃できるメテオストームパニッシャーで敵を粉砕した。クソ武器だと言われていたがメテオストームパニッシャーでなければ勝てなかった。
ボイチャしていたリア友身内たちは大盛りあがり。チャットでラウンドを落とした対戦相手たちも流石のスーパープレイに大盛りあがり!Fakerだってインペリアルハルだって、ここまでのプレイは出来ないだろう。
例の半身との時間を除けば、俺の人生で2位の最高の瞬間だろう。もしかすると、本当は1位だと思っているのかもしれない。LoLをはじめて一ヶ月でペンタキルを取った時よりも、オーバーウォッチでTOP500に入った時よりも、APEXで爪痕ダブハンを取った時よりも、Fortniteで5連続優勝した時よりも、名誉だ。こんな素晴らしい経験をした贅沢者なのだから、甘っちょろい事を言ってはいられない。だからこそ、俺がガンダムだ。
結論2:俺達がガンダムだ!
グラハム・エーカー 歪みからガンダムへ至った男
ガンダムOO1stシーズンのラスト。世界の歪みたるアレハンドロ・コーナーを撃破したと思ったら、今度は刹那の産み出した歪みであるグラハム・エーカーがGNフラッグでやってくるという構図が、本当に美しい。その歪みは2ndシーズンでMr.ブシドーとなって生き恥を晒し続け、劇場版では未来への水先案内人になって死んだかと思えば、生きていてガンダムマイスターとなることで刹那の意志に応えた。まぁなんというか凄まじく気味の悪い男だ。フラッグやスサノオ、ブレイヴも最高だし、余り知っている人は少ないと思うが、プラモの改造企画でブレイヴのパーツを流用して作られたスサノオの後継機マサカドもかっこよすぎる。黒田洋介のストレス発散用キャラだけあって、恵まれすぎている。
中高生の頃は、グラハムが分かりやすく面白くてかっこよく好きだった。まだ新人の頃のイケメン・ヴォイスアクター中村悠一の演技も良く、色んな意味で愛されていたキャラクターだ。ただ、今では刹那の方に感情移入するが――また《Parallax》グラハムに感情移入する気分にもなるだろう。俺は刹那なのかグラハムなのか。いや、どちらにせよガンダムだ!
リボンズを見上げてガンダムマイスターとなった刹那にあこがれて、新たなガンダムが立ち上がる。それと同じように。俺が、俺達が、ガンダムだ!
結論3:今度はお前がガンダムだ!
のちに生まれる者
さきに生まれた者として、若者たちにガンダムの勇姿を見せてやろう。ほんの僅かでもいい。のちに生まれた者が、ガンダムにあこがれてくれるように。そののちに生まれた者にあこがれて、またガンダムが生まれていくように。今度はお前がガンダムだ!
始めた事を終える時:進み続けた者にしか…わからない《虚構世界に終止符を撃つ為の力》
いつか「あなたも間違っていなかった」と、言ってくれるだろうか?
昔の記事を読み返してみると、未熟さを痛感して不愉快な気持ちになるのだが、だが未熟者の割には頑張って書いているのが感じられて、それほどは悪くないな、という嬉しい発見もある。なんと、23歳くらいの時に書いたわたてんに関しての記事に、『バスタブで暮らす』と意見を同じくするような文章が書いてあったので、引用する。
そうか、まだ絶望しきっていなかった頃の俺は、バスタブで暮らしたかったのか……。としみじみした。50年くらいしたら、俺もこの小説に共感
した人々に、「君が正しかった」と言えるだろうか? その時は「あなたも間違っていなかった」と言って貰えるだろうか? いつか澄み渡る未来が来たならば、俺というどうしようもない兵器に草花は宿るだろうか?
ジャン=ピエール・デュピュイの狂気的概念「プロジェクトの時間」――我が道を照らす未来回路と、磯原めだかの誕生肯定
磯原めだかはGN空間のような場所で、自らが産み出し演じてきたVtuber黒杜いばらになり、未熟児の自分を母親に渡す――生誕を否定するチャンスだったのかもしれないが、結局は自分が誕生する事にイエスを唱えた。
このシーンで私はジャン=ピエール・デュピュイの狂気的な概念を思い出した。社会または環境、そして精神の激変という脅威にきちんと向きあうつもりなら、この時間の「歴史的」概念を打破して、新しい概念を導入する必要があると主張している。デュピュイはこれを「プロジェクトの時間」と呼ぶ。過去と未来の閉じた回路である時間だ。未来はわれわれの過去の行為から偶然に生みだされるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。
『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。例えば大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ。
もしも――偶然に――ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生みだされる。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。
フロイトの精神分析もそうだが、過去と運命によって、我が道を照らす未来回路を浮かび上がらせる戦略を、私は取ろう。
エクストラリンクから放たれるデウス・エクス・マキナ 最悪の禁止カード「トポロジック・ガンブラー・ドラゴン」
鴻上博士の最後の遺産たるトポロジック・ガンブラー・ドラゴン。そのアニメ版の効果を見てみよう。ちなみに「デウス・エクス・マキナ」とは、トポロジック・ガンブラー・ドラゴンの(2)の効果名でありロケットパンチだ。凄くカッコイイ。
率直に言って、ふざけている。が、新しきものとの因縁を断つ為の、鴻上博士の形振り構わぬ狂気がよく表現されている。OCG化にあたって弱体化は一応されたが、それでも即禁止行きは当然だ。こんなカードを刷ったコンマイを絶対に許してはいけない(戒め)
だが、やがて滅ぼすべき悍ましき虚構も捉えてしまえば存外良き力として振るう事が出来る。毒をもって毒を制す――使える手段は何でも使っていこう。例えそれが他の人々にとって、トポロジック・ガンブラー・ドラゴンという禁忌の力だとしても。
Infinit plus one 原初たる絶対の強き力
カントールを始め、歴史上多くの数学者たちが「無限」という概念に魅入られ、頭を悩ませてきた。無限すなわち、一番最後の数。突き詰めて求めるには頓挫を約束された数。「革命」にも同じ事が言える。革命や、革命にも満たないような蜂起あるいはそれのし損ない――最後の革命を目指されて上演された罪深い劇の数々。それでもその不可能な《最後の革命》を、見たいという頓挫を約束された欲望。でもそれこそが無限の原動力となりえるのだから。
ド級のリトライ ドリトライ
最近、鬱っぽくなったり、自己嫌悪に陥って、絶望に沈溺しそうになると、ドリトライの有名なコマを思い出して立ち直ってしまうのでやや困っている。俺の心は幾度となく折れそうになるが……分かった。もう一度…リトライだ…。でも、ただのリトライじゃねぇぞ。何度でも心の強さで立ち上がり、前に進む。ド級のリトライ、ドリトライだ!
A wakening of the Trailblazer――兵器に花が宿るとき:ELSクアンタ
術式解放:幻獣琥珀
呪術廻戦の良いところと悪いところが両方詰まったお笑いキャラ「鹿紫雲一」が秤に負けたときの苦しい言い訳をパラフレーズして、俺の生き方というものを簡潔に紹介しよう。
「俺の人生は一回それっきり、ガンダムにしか使う気がなかっただけだ」
いつか術式を解放し、量子の力学が引き起こすあらゆる現象を実全する為に思考を変革させ、ELSクアンタを得て、メタル俺に至る為に生きよう。
なぜ鹿紫雲のようなくだらないキャラを気に入るのか。自分でこんな事を言うのも気味が悪いが、俺は凄まじい数の戦闘の中で、画面を通して多くの人間に愛され憎まれ、それに憤怒と慈愛を以て答えてきた。クンデラの『不滅』でアニェスの父が嫌悪するような猥雑な接近(現実世界での生き方は非常にアニェスやアニェスの父に共感する)に、電子世界というフィルターを通してだが、身を投じてきた。一期一会だからこその真の熱狂と喜びと満足。一般的に孤独ではあるが真の孤独ではない。パンピーのザコどもには理解もできない境地であろう。
邪悪な情熱に満ちた最悪の者たちはその予定調和さゆえに真に誰も愛してはいない。何の気力もない最善の者たちはその無気力さゆえに真に誰も愛せない。俺は強い男ではない。男磨きはしているが、男としての実力は呪術廻戦に例えればイキリ男の鹿紫雲レベルだろう。人よりは優れているが、真の天才からすればザコ同然。俺と同じだ……。
だが、しょうもない部分もあれば、かっこいい部分もあって、それが気に入る。なんというのだろう、憎めない、愛すべきキャラクターだ。でもそれこそが人間の自由というものだと思うから。
聖詠に到る為の刹那
ガンダム
神として現れ
ガンダム
性=《愛》を頓挫させて勝ち取ったもの
ガンダム
俺にとっての《絶対》
ガンダム
虚構を貫く粒子
ガンダム
お前が世界を薙ぎ払ったからこそ訪れた刹那
ガンダム
君が導いた聖詠
ガンダム
聖詠から至り武装介入と対話を試みる人生を繰り返し続けていく為の刹那
ガンダム
刹那に執着し至る聖詠を唱える為の刹那
こんなにも長く時間が掛かってしまった
望んだ景色
いつかお前たちと同じ景色を見てみたい――この願いは誰にも、撃ち落とせないだろう。その為に、俺がガンダムだ!