転調する強さを——KulfiQ『クラウン』
調性に、色を見る。
共感覚というやつなのか、はたまた単にその調の曲のイメージに引っ張られているのか、レモンのレだから黄色なのか。
よく分からないけど、ドレミファソラシドの音階だけでも筆でさーっと水彩絵の具を塗るように色が伸びていくから調は素敵だ。
(だから、カラオケで軽率にキーを変えるのは嫌いだ)
そんな調を塗り替えるのは結構労力が必要で、クラシックでは大抵調号が同じとかの近い調と行き来することが多い。
だけど、ポップスとかボカロとか、歌い手を持つ曲たちは往々にして最後のサビで半音もしくは全音上がろうとする。
それは同主調でも平行調でもないし、どこか柔らかい♭系からキラキラした♯系にまで変えてみせる。
まあもはやありきたりな転調パターンなんだけど、綺麗に転調されると心臓をぎゅっと掴まれたようにどきどきしてしまうんだ。
*
KulfiQ『クラウン』もまた、最後のサビで半音上がる。
「転調の魔術師」とさえ言われるKulfiQさんだけど、わたしはこの曲の転調がいちばん好きかもしれない。
「死んでる物を踏みつける」から始まるその歌は、曲を知らない人の前でカラオケで歌うと歌詞にびっくりされる(された)。
歪んだ僕の視線は捉えたままのクラウン
手にすることのなかった栄光
栄光を手にすることはできなくて、曲の最後には「笑いながら僕は今消える」。
だけどその前にできることがあって。
さあ届け 命果てるまで
最後の力をこの手に込めて
——大きく助走をつけずして転調する。
「最後の力を」までは元の調で、「この手に込め」だけで移行して、「て」では転調しきっている。
移行する過程で一瞬の不安定さをして惑わせ、次の瞬間わたしごと掬い上げて着地する。
転調の仕方は他にもやりようはある。
ちょうど階段を昇るように、同じフレーズを転調前後の調でやってみせたりとか(ドミソ ド#ファソ#みたいな)、主となる和音を示してスパッと変わったりとか。
だけどこの、移行する不安定さとその解決のかたちをとる転調が、一瞬呼吸を奪われ、つい声が漏れてしまいそうなほど好きだ。
転調した先は、Fdur(Fメジャー)。
わたしはこの調を、パステルカラーっぽい黄緑色で、草原に風が吹いたようなイメージだと思っている。
そのイメージを持ったのと、この曲を聞いたのと、どちらが先だったかはわからない。
ただ確かに、転調した瞬間の「て」から、さらに次の「一瞬 そよいだ風」を受けて、気持ちの良い風を感じるのだ。
最後の(、おそらく意味としては最期の)力をこの手に込めてすることが、転調だったら、どんなにすてきだろう、とその風に思わずにはいられない。
別に人生を変えたいみたいな比喩ではない。
だって、調が変わったって曲は終わるし何ならボタン一つでカラオケのキーは変えられるのだから、何の逆転劇でもない。
誰もがすごいと言うわけでもない、だけど、とびっきり綺麗だと誰かが思うことがしたい。
「分かる人には分かる」は得てして魅力的だ。
だけど意外とその魅力は、「分かる人」がいるかに依存している。
誰もじゃなくても、誰かがいたら嬉しくて、好きに書いた文章についた1件のいいねやスキに、つい口角が上がるのもそうだ。
「誰か」に会えないうちに終わるかもしれない最後にそれを放てるぐらい、強くあれたら、いいな。
*
俗に「絶対音感」と呼ばれるものを持っている。
音は別に色やイメージで判別しているわけではなくて、ドなら「ド」と聴こえるのだ(だから歌詞があるとちょっと分かりづらい)。
人のイメージは結構適当で、やっぱりソは青い空だから青で、なんだかんだその音ありきな気もしている。
音が分かるからクリアに捉えられるのかもしれない。だけどもし一度その情報を抜きにして受け止めることができたら、案外違う色に見えるのかもな。
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