思い出を描く——ヨルシカ『レプリカント』
大人になった。
社会人になっていくらか経った。
今でも、高校生の時に出身中学でのことを喋るように、学生時代のことを語ることができる。
けれど、「大学の時に」と口にしたときほんの僅かな違和感に気付く。どうも中学と高校のように陸続きにはなっていないような感覚があるのだ。
軽率に中学の部活に遊びに行っていた高校時代ほど物理的に「戻る」ことはできないとしても、そもそもどの年代も不可逆だ。
やっていることが随分ちがうからか、同じ風景をもう一度見るのが難しいからか、大学の次は社会人でその次はずっと先までなくて、遠くなっていくばかりだからか——
それと人に会えないこの時代も加勢して、記憶はすぐに昔の思い出になってしまう。
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ヨルシカ《盗作》より第6曲『レプリカント』。
ぜんぶ偽物でぜんぶ作り物だ、という強い主張をするくせに、妙に終始安定しているし、優しく始まる曲だ。
冒頭はギターの問いかけに、拍にきちんと収まって応えるノックのような音。互いの応答の間にある休符が、しっかり拳を握って受け止める様をその打音に思わせる。
次いでイントロは、自然に手慣れたようにメロディへ引導する。受け取るのは低いFの音。アルバム全体を通して低音の多い作品だけど、出だしとしては中でも低い。
Fdurのイメージは前回のクラウンでも書いたけど、♭系の調は往々にしてやさしい。しかもこのAメロ、ほとんどをこの調の基本形であるⅠ度の和音で包めそう。
そのこととsuisさんの声色が、「映画を見ている」という歌詞の通り、その対象に対してスクリーン越しである——こちらに危害のない、しかし干渉することもできない——ことに由来するような、落ち着きと一種の慈しみをもたらしてくれるんだろう。
そして丁寧に均等に音を刻んでいくBメロ。
それらが「人がよく死ぬ」とかを中和して、不思議と物騒には聞こえない。
この、同じ音を中心に一定の間隔で刻み続けることには意外なほど落ち着きがあるようで、
満たされるならそれで良かった
歌を歌うのに理由も無いわ
他人の為に生きられない
さよなら以外全部塵
人を呪う歌が描きたい
それで誰かを殺せればいいぜ
夏の匂いに胸が詰まっていた
このめちゃくちゃ強い歌詞をも穏やかにする。
最初の3フレーズ(満たされるなら〜、歌を歌うのに〜、他人の為に〜)で続く音はFの音。
さよなら以外〜は3度上がってAの音。ぜんぶゴミ、に少なからず驚くけれど、その間もなく次に行く。
さらに3度上がってCの音、ドキッとしそうな「人を呪う歌が描きたい」。
これを完璧に支えてくれるのが、オクターブ下のユニゾン。同アルバム『逃亡』でも出てきたこれ、2つの声がその一点を突く様が本当にすきだ。
ここまでの、丁寧に刻みながら一段ずつ登って、いちばん上までいったら支える手がある、この流れはやけに親切で、そして自然に誘導された先は、一陣の風の後に夏の匂いだけを残す。
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「落ち着き」「丁寧」と描写してきたこの曲、一曲を通してどこか外れたことをしない印象があって、それが僅かにひっかかると同時に、“大人”と呼ばれるだけの歳の人を引っ掻く。
個人的に、「レプーリカだ」「まほー(魔法)だから」の伸ばしがどうにも拍ありきに思えてしまって、きっとたくさんの人の持つ叫び切れなさを思うのだ。
叫んじゃえばいいのにね。
…私は叫べないけど。
次は愛でも買えればいいのにね
ここにもある、「いいのにね」の感情は、できないことを知り始めた大人なのだと思う。
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閑話休題、この曲のサビはいろんなものを偽物だと叫ぶ。だけど、私がいちばん強いと思うのは最後のサビだ。
言葉で全部表して
心も愛も書き足して
「言葉で全部表」すのは、勇気がいる。
読書を終えた後に胸に残るような、あの確かな重みのあるふわふわとした感覚が、言語化することで自分の知る語彙のどれかになってしまうからだ。
そう、言語化されたものは、その時の思ったことの「レプリカ」に他ならない。
それはこのnoteもそうで、わたしはもうここに描いた曲たちを以前聴いたときのことを、記したようにしか思い出せない。
言葉にしなけりゃ忘れるし、
思い出すことは自分の言葉で描写することだし、
言葉にすることはしなかったものを忘れることだ。
そしてその後に続く歌詞は、
それでも空は酷く青いんだから
あれもこれも偽物だ、と歌っていた中で突如として視界が開け、現れた青い空。
この歌詞を聞くたびに、希望に聞こえたり絶望に聞こえたりして、いずれにしても少し戸惑いする。
青空は得てして、肯定的な文脈で描写されがちだ。なのに、それにかかる「それでも」と「酷く」が、そのイメージを揺らがせる。
言葉で表しても、描写できないぐらい青いのか。仮にそうだとして、そのことは僕らにとって良いことなのか、それとも——。
それはたぶんもっと大人になったら、わかるんだろうな。
*
かの震災のとき、学校で百人一首大会をしていて、その瞬間は札の枚数を数えているときだったと思っている。
数年が経っていつだったか、同級生がその時を「百人一首大会の最後の一枚が詠まれていた」と描写していた。
記憶が揺らぐ。だってそっちの方が綺麗だ。
思い出だって偽物だ
記憶なんてどれもそうで、思い出は形にした瞬間から物語なんだ。
それぞれの描いた思い出を、今日も僕らはスクリーンに観る。
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