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死なない音に、届かない恋を——トーマ《アザレアの心臓》

「好きなアーティストは誰ですか?」

この質問、聞き手は往々にして、いまテレビで流れている曲の歌い手を答えとして想定している。つまり、その対象は生きていて、大概は歌ったり踊ったりする姿を頻繁に見聞きしているのだ。

これはクラシックの世界で育った身には困った質問で、好きな音楽こそあれ、その作り手といえば軒並み死んでいる。

顔も声も知らなければ、性格も分からない。
もっとも、私はドビュッシーが好きだが、3人目の女性と駆け落ちしてあんな名曲(喜びの島)に描いてしまう男自体は特に好きではない。

つまり、わたしにとって、曲と人とは別物である。

音は、曲は、「今ここ」に、作り手に、依存しない。何年経って、たとえその人がいなくたって、手に取っていいし、好きになっていいのだ。

何年経って逢えた音に  魔法みたいな恋をしたり
(トーマ『骸骨楽団とリリア』より)

だから私は、9年越しにそのアルバムを買った。

*

トーマ 1st full album 《アザレアの心臓》。
2013年4月3日発売。

このクロスフェードを、ふと覗いた昔のマイリスに見つけて、惹かれるようにiTunesで購入ボタンを押した。

トーマさんが最後に楽曲をニコ動に投稿したのは、2013年4月2日の『魔法少女幸福論』で、その当時わたしは最後だなんて何の疑いもなく聴いていた。

つまり、このアルバムは彼のトーマとしての(悪あがきの希望として「今のところ」と付けさせてほしい)最後の作品。それも、「最後」と言って発表されたわけではない、次第に、作品が発表されない時間の経過によって、結果として「最後」になった作品である。

トーマさんの楽曲で、元気いっぱいひたすら明るい曲というのはそもそもあまりないけれども、このアルバムに収められた楽曲たちもまた、終わりとか、お別れとか、どうにもならない現実とかをもって、退廃的な世界を描いている。

全体を通して特徴的だと思うのは、Aメロ、Bメロ、サビ、それぞれが全然違う曲が多いこと。

初めのテンポ感と倍速のテンポ感を行ったり来たりする、第1曲『潜水艦トロイメライ』。前者のテンポ感(そこに愛はあった?〜)と後者のテンポ感(栄光の対価〜)の2つのサビを持つ、ちょっと変わった構成。
この倍速になるテンポ変化は行き来しやすいからか、いろんな曲で登場している。

落ち着いた曲調にみせかけて、どんどんどんどん音域の上がる第3曲『サンセットバスストップ』、第8曲『オレンジ』。オレンジはAメロ、Bメロ、サビがそれぞれ低音域、中音域、高音域で、全体では3オクターブ近い音域を使う。完全に余談だけど、わたしはニコ動で見ていた当時からオレンジが大好きだ。


どれも4拍子でありながら、ときどき急に顔を出す3拍子。第2曲『リベラバビロン』のCメロ(流れ流れる人の海〜)は3拍子、そのあとは…3(愛され)+3(たいと)+2(いうこの)の変拍子か?
第7曲『廃景に鉄塔、「千鶴」は田園にて待つ』のイントロの頭はちょっと6拍子のような拍感(そしてそのあと曲中では登場しない)。

速さも音域も拍子も、どんどん変わりながら流れ続け、だけれども脈略ないパーツの切り貼りには聞こえない。それは不思議なほど安定している。

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しかし、アルバムのラストピースは、これらの特徴を有さない。

第13曲『心臓』

ボーカロイド楽曲を投稿してきたトーマさんが自らマイクを握ったこの曲(トーマさん自身の歌唱は、本作と第7曲『廃景に鉄塔、「千鶴」は田園にて待つ。」のみ)。

人が歌うということはつまり音域に限界があって、この曲は無理な跳躍や超低音・超高音を持っていない。そして操作可能であるはずのテンポ、拍子も常時ほぼ一定。

ある意味で「普通」な曲調が、意識を歌詞へと向かわせる。

こんな機械みたいな声と心が
遠くにいるあなたに届きますように

ああ、9年経ってても買って良かったんだ。
届いたよ、トーマさん。

離れてしまっても  殺されてしまっても
どこかで息をしてるからね
ずっと昔の話をしよう
ずっと先の未来の話をしよう
例え誰もが覚えていなくても
あなたの記憶で僕を返して

どこかで生きているよね。9年後でも覚えてるよ、トーマさん。

——つい、彼からのメッセージかのように思えて、そう応答したくなってしまう。

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先にも触れたが、このアルバムが「最後」とは、当時は誰も思っていない。お別れの曲が多いけど、それはただトーマさんが描きたかった世界なのであって、トーマさん自身とは直結しない。だから、上で引用した『心臓』の歌詞も、トーマさん自身の想いなのかはトーマさんにしか分からない。

あの歌詞の語り手には、きっと誰を浮かべても良い。たぶん、発売直後であったとしたら、トーマさんを思わない。

だけど、時間が経ってしまった今だからこそ、勝手に、あえて、そこに作者を見る

それで救われる何かがあれば、たぶんきっとそれがこの楽曲の持つ希望で——わたしはそれがトーマさんであることで、救われるから。

*

曲と人とは、別物である。

だけど、数年前に彼が、トーマではなくGyosonとして、でもただ「彼が生きていて、音楽をやっている」ことを知ったとき、涙に由来するような、じわっと上がってくるような感覚を持った。

顔も、本名も、彼の何をも知らないけれど。

冒頭の質問に答えよう。
うん、わたしはトーマさんが好きだ。

(あと、n-bunaさんとKulfiQさんとドビュッシーとカプースチンもすきだ)

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